Apr.『春風ひとつ、想いを揺らして』

ある春の朝

 駅の改札は、スーツ姿のサラリーマンや学ラン姿の高校生でごった返していた。

 駅前にある時計台は7時35分を示している。それをちらりと横目で見ると、少年は背中を丸め、俯きがちになりながら足早に時計台の前を通り過ぎて行った。

 4月になってからの、少年の決して明るいとは言えない日常。


 一、二か月前までは全く違っていた。少年は駅を出て右に曲がり、途中で会った友人とたわいもないことを喋りながらのんびりと歩いて高校に向かっていた。

 それが、今はどうだ。見知った後輩に会いたくないばかりに、背中を丸めてそそくさと、やたら早足で左に曲がる。


 右から左に、学ランから私服に変わって、少年の向かう先も高校から予備校に変わった。


  ――高校生は『生徒』、大学生は『学生』。そのどちらでもなく、働いてもいない浪人生は『ニート』とか言ったりするらしいけど。


 少年は、そんな自虐的なことを考える。

 駅前の雑踏を抜け、今日も誰にも会わなかったと少しホッとしながら少年は歩調を緩めた。

 そんなに早く予備校に着きたい訳ではなかった。何しろ、行きたくて行ってる場所ではないし。


 片側一車線の狭い道。舗装された歩道の奥は土手になっていて、道なりに桜が植えられている。ちらちらと花びらが散っていて、アスファルトにまでいくつもの花弁が飛んできていた。グレーの下地に可愛いピンクの水玉模様を描いていたが、少年の目にはただのゴミにしか映らない。


 ――こんなはずじゃなかった。


 四月になってから、何度もつぶやいた言葉を繰り返す。

 三月三十一日まで待ったが、少年の下には追加合格の通知は来なかった。


 それなりに勉強していたし、どれか一つぐらいは受かると思っていた。まさか、全滅するなんて。

 俺より不真面目だった奴があっさり合格したりしていた。俺だってもうちょっと他の私大も受けてれば、どれかには受かってた、きっと。


 だけど――と、別の自分の声も聞こえる。


 行きたくない大学には行かない、だから受けない、と決めたのは俺。

 そんなことするぐらいなら家に籠って勉強した方がいい、と言ったのも、俺。

 結局は、自分のせいなんだけど。


 なぜ俺ばっかりがこんな目に遭うんだ、自分は悪くない、と目を背けてしまいたい気持ちと、自業自得だ、ここで逃げちゃダメだ、と自分を急き立てる気持ち。

 少年の心は、乱れている。



   * * *



「こら、ファヴィ! さっさと地上に旅立たんか!」


 一方こちらは、妖精界の端っこにある小さな村。美しい水色の羽根を持つ、風の妖精の一族が住むシルフの谷。

 村の長老が、茶褐色のクセッ毛を左手で弄びながら口を尖らせている少女に向かって大声で怒鳴っている。


 それもそのはず、村で育った妖精は一人前になったら地上に向かい、地上に風を吹かせるのがその役割。

 少女と同じ頃に生まれた妖精たちは、とうの昔に地上へ行ってしまった。


 少女だけは、

「まだうまく飛べないから」

「加減が難しいんだよね」

と何だかんだ言い訳をし、村から旅立つのを渋っている。


「えー? だって、もうみんな行ったんでしょ? 私一人ぐらい行かなくてもダイジョブじゃない?」

「そんな訳あるか!」

「もう、何でそんなことしないといけないのー」

「ばっかもん! 風が吹かなければ、船は進まぬ。鳥も飛べぬ。洗濯物も乾かん。植物も実を結ばない。地上にもたらす恵はそこはかとなくあるのだぞ!」

「でもさー、嫌われることも多いじゃーん。特に最近は、花粉症がひどくなるから花粉を飛ばすなとかさー。実はそんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」

「自分の都合のいいところばかり切り取るな! さっさと行け――!」


 長老が手にしていた杖がブーンと振り回され、少女はいつの間にか村の外に追い出されていた。


「もーっ、乱暴だなあ!」


 すっかり遠ざかってしまった村に向かって文句を言ったものの、これはとりあえず一仕事してこないと入れてもらえなさそうだ、と諦め、ファヴィは口をへの字に曲げながら地上へと向かった。


「あー、はいはい、吹かせばいいんでしょ、吹かせばー。ほい、ほい、ほい!」


 ファヴィが明後日の方向を見ながら適当に腕を動かすと、地上ではブオォと強めの風が吹き荒れる。

 少女の足元に並んでいた桜の木々がブルンッと枝を震わせ、たくさんの花弁が辺りにまき散らされる。


「わっ、急に何だあ?」

「あらー、一気に散っちゃったわねぇ……」


 土手を散歩していたらしい老夫婦が小さく叫び、少し残念そうにな顔で桜の樹々を見上げている。


「あー、ごめんねー、加減が効かないからさー」


 ほーらね、歓迎されないじゃないのーと思いながら、ファヴィは溜息をつきつつ辺りを見回した。

 ふと、一人の少年に気づく。


 今日は雲一つ無い良い天気で、先ほど散歩していた老夫婦も、ジョギングをしている人も、みな顔を上げている。その表情は明るく、気持ちよさそうだ。

 しかし少年の足取りはひどく鈍い。背中を丸め、ずっと俯いてトボトボと歩いている。

 こんなに明るい日差しが降り注いでいるのに、少年の周りだけ日陰になっているような。


「随分暗い子ねー。どんな顔してるのかしら」


 ふと興味を覚えたファヴィは、右手を構えた。

 ほら、顔を見せてご覧なさい、と念じながら右腕をぐるりと回し、空に掲げる。


「おわっ!」


 急な突風に驚いた少年が、ハッとして顔を上げた。

 少年の瞳に映ったのはどこまでも青い空とピンクの桜。そして自分の周りにだけ降ってくる花弁の雨。


「……うわあ」


 モノクロの視界が、あっという間に鮮やかに彩られる。

 それはまるで、いつまでその場所に留まっているんだと鼓舞されたような。


 どんよりと曇っていた少年の瞳に、わずかに輝きが戻った。髪の毛についた花弁を手に取り、じっと見つめ、再び空を見上げて。

 少年には見えない筈のファヴィと、目が合う。


「……」


 少年が微かに微笑んだ。手にしていた花弁を名残惜しそうに宙に放つ。

 小さなピンクの花弁はひらひらと宙を舞い、舗装されたアスファルトに新たな水玉を作った。


 それを眺め――顔を上げ、まっすぐに前を見つめ、少年が歩道を歩いていく。

 さっきまでとは打って変わり、力強い足取りで。


「あら、あらあら、少し元気になったみたいだわ」


 少しだけ跳ね上がった心臓に手を当てながら、ファヴィが呟く。

 こういうこともあるのね、あらそう、ふうん、と訳の分からないことを呟きながら、ファヴィは新しい風を吹かせるために次の場所へと向かった。



 春風がひとつ、想いがふたつ。

 わずかな揺らぎをもたらした、ある春の朝の一場面。 

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