Jan.『その涙さえ命の色』
1.見かける
放課後の校舎はどこもかしこも薄暗くて、どこか物寂しい。
明日提出のプリントを机の中に忘れたことを思い出したのは、生徒会の役員会議が終わったあと。
校則違反だけど、と思いながら廊下を走る。制服のプリーツがハタハタとはためいているけど構っていられない。
このあと5時半までにサトシのお迎えに行かなきゃ。1分でも遅刻したら延長料金が発生しちゃう。
そうだ、味噌が切れてたから帰りにはスーパーに寄らないとね。あー、でも、サトシを連れてくと
「おねーちゃん、チョコ買ってー」
ってうるさいんだよな。
夕飯の支度をしたら急いで食べてサトシにも食べさせて、お母さんが帰ってきたらサトシを任せて8時には隣の駅前にある塾に行って……。
こんな風に、共働きの両親の代わりに幼い弟の世話と家事を手掛ける私。
毎日の予定は、分刻みだ。
「はぁ、はぁ……」
上がった息を整えながらガラッと乱暴に『2-C』の教室の扉を開け、五列に並んでいる机と机の間をズカズカと歩く。自分の机まで一直線。
「……痛っ!」
一つだけ飛び出ていた机にガンッと太ももをぶつけてしまう。私の手から会議の資料やルーズリーフが散らばると同時に机が斜めになり、数学の参考書や国語の便覧、地図帳など大きいぶ厚めの教材が雪崩のように床に滑り落ちていった。
ああ、脇田くんの机か。授業中もボケーッとしてるし、きっと家で勉強なんてしてないんだろうなあ。重そうな教材は全部机の中に置いていってるんだろう。
そんな失礼なことを考えながらも、落としてしまったのは私で、時間がないというのに余計な仕事を増やしたのも私、完全に私の責任。
溜息をつきながら、落ちた本に手を伸ばす。
脇田くんの参考書を先に全部拾い、机の中に仕舞ったあと、自分の書類も拾い集める。
その後私は自分の机の中から目的のプリントをひっつかみ、全部まとめて無造作に鞄に突っ込んだ。
時計を見ると、時刻は午後5時を過ぎていた。自転車をかなり飛ばさないと、保育所の時間に間に合わない。
* * *
『その涙さえ命の色』
僕に残された時間は、どれぐらいなんだろう。
僕はそのとき、何をしているだろう。
僕はあと何回、笑うことができるだろう。
僕はあと何回、泣くのを我慢できるだろう。
僕の世界から色が消えたのはいつだっただろう。
だけどまだ行けない、まだ歩きたい。
すべてを失い、最後の涙を流すその時まで。
生きようとしている限り、その涙さえ命の色。
* * *
「何、これ……」
見覚えのないルーズリーフに気づいたのは、塾に着いてから。
ごちゃごちゃになってしまったプリント類を整理していたら会議資料とくっついて出てきた。
何だこれ、と思って見てみると、罫線も引かれていない真っ白な紙に書かれた、見たことのない綺麗な字。タイトルの『その涙さえ命の色』という言葉に惹かれ、全部読んでしまった。
これ、詩……かな。まさか遺書、じゃないよね。
誰のだろう、と思ったけど心当たりは一つしかなかった。脇田くんの机の中をぶちまけてしまったときだ。
ということは、彼がこれを書いたのだろうか。
普段の脇田くんの様子を思い浮かべてみる。どうもしっくり来ない。
彼は少し長めの髪をやや茶色に染めていて、簾のような前髪で顔も半分隠れている。制服のネクタイも適当にゆるく縛っていて、内履きも踵を踏んづけて。
遅刻も多くて、先生に時々怒られてて、およそマジメとは言えない人。
勉強はあまり得意じゃないのか、授業中はシャーペンをくるくる回しながら頬杖をついていたり、じっとしてるなと思ったら窓の外を見てぼーっとしていたりする。
休み時間になると普通に友達と喋っていて、バカな話をして楽しそうに笑っている。
あ、でも……そういえば、体育の授業では隅の方でサボっていることが多い。スポーツテストでも彼だけ記録が残ってなかったっけ。データを集計していた時に空欄だったような気がする。
そのときは、たまたま学校を休んだからだろうな、ぐらいにしか思ってなかったけど。
まさか、身体が弱い、とかなんだろうか。
とすると……これ、本当に遺書なんじゃないの?
――そんなことを考えていたら、その日の塾の授業は何にも手につかなくて、私のノートが真っ白になってしまった。
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