悩みという豆を挽いてみれば

物書きの端くれ

第1章 悩める仔羊は地獄に飛び込む①

  それは閑静な住宅街のある小道の突き当たりに位置する。こじんまりとしていて、老舗のような佇まいと言えば聞こえはいいが、実際は小さくて、オンボロな珈琲店。

 だけどいつも客足が絶えない。

 いつものお得意様が大半を占めるけど、お得意様経由なのか、この店の特色なのか、一日に一人は新規のお客様が自分では解決できない悩みを持ってご来店される。

 まぁ今日はまだ来ていないのですけど......。

 

 あっ申し遅れました。私このお店のマスターをやっております、しがない叔父さんです。

 特に芸のある人間ではございませんので、こうやって、どうでも良いことを皆様とお喋りすることくらいしか取り柄がない残念な叔父さんですので、そう緊張しなくても結構。


 えっじゃあなんでこの店のマスターをしているのかって?

 ううーんと、それは私にも分かりません。

 私が淹れるコーヒーが美味しいということもありませんし、豆の目利きがいいというわけもありませんし、経営が上手というわけもありません。

 真実は神のみぞ知ると言いますし、こうなった原因は誰かが知っていることでしょう。

 

 さて、お話が長くなりましたね。私は私の仕事に戻るとしましょう。

 そろそろお客様が来るような予感がしてきましたので、私もこうやって皆様とお茶を濁すわけにもいきませんので。 

 

 扉にかけられた木のドアベルが鳴る時、それは魔法が悩みを持つ誰かにかかる時。今日はどのような人がかかるのでしょうか。

 それでは失礼。


 

 



 この思いをどうすれば良いか、僕はひたすら迷っていた。生まれて初めて知った感情は留まることを知らず、忘れようとしても忘れることができない。却って相手のことを意識するばかりで体が重たく、思考もまとまらない。

 相手が他の人と楽しそうに仲良く喋っているだけで胸が張りさけそうになった。視線が向かっていることも意識してようやく気付くほどになっていた。相手の所作を見つめていることが日常になった。遠目から見る相手の仕草、一つ一つが心に響いた。先生に問題を当てられて、黒板に答案をチョークで綺麗に丁寧に書く凛とした後ろ姿。睡魔に完全に敗北し、机に顔を伏して腰を丸めて夢心地良さそうに眠るその姿。だらだらと忙しくなく、モデルのように一定の歩幅でエレガントに歩く姿。

 〝立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花〟

 そんな姿に僕は心を奪われた。


 とても辛かった。

 生まれて初めて知った恋というのがこんなにも無情で一方的で冷徹なことを知った。恋のキューピットみたいな、そんな御伽話の優しい存在などいるはずもなかった。あるのは、薔薇のように恋という美しい感情とトゲのある試練。

 忘れたかった。

 この想いは偶然の産物なのだと思いたかった。何かの間違いなのだと信じたかった。神の気まぐれで物好きな神がいるものだと、ほんとお節介な神がいるものだと、この苦しい思いを神に八つ当たり出来たら良かった。ほんといい迷惑だとそう簡単に片付けられたらどれほど楽だっただろう。お天道様も俗世に塗れたなと軽蔑できればどれほど楽だっただろう。

 分かっていた。

 恋というのは、冷徹なもの。現実だけしか表さないことを。

 空想的な思考も抽象的な感情も全て、事実であって事実ではない。

 相手に対する恋心しか残らない。

 その恋心も単なる感情なのかもしれない。抽象的で具現化することのできない感情なのかもしれない。けれどその気持ちはどの気持ちよりも現実味を帯びている。どの気持ちにも変化する。

 嬉しい、楽しい、寂しい、悲しい、切ない、苦い、妬ましい、怨めしい。恋という感情が七色に変化する。

 僕の認識外で、無意識の中で、意図せず、偶然のようで必然的に。   

 そして一つ一つの感情に行動が重なる。顔が紅潮し、口角が上がり、鼓動が高まり、涙が流れ、相手を睨み、拳を挙げ、口調が速まったりする。

 僕には抱いたこの感情から逃れる隙が残されていなかった。どんなに空想的な考えを張り巡らしても、終着点は何も変わらない。そこに辿り着く順路は無数にあり、一つ一つは変わっても結末は変わらない。あるのは誰かに恋した自分だけ。

 終わりのない迷路を進んでいるみたいだった。ゴールという解決方法を模索して、足掻いて、喉を乾かして、お腹を空かして、息を忘れて、自分さえ忘れて……馬鹿みたいだった。

 自分が歩いてきた道はいつのまにか無くなっていて、振り返っても暗闇が広がるだけ。焦って前を向き直すと、どこに向かっているかどうかわからない暗闇が、またさらに広がる。行き止まりにぶつかることなく、永遠に歩き続ける。拠り所となる踏みしめた軌跡も確固たる自信も正確な方向も分からず、疲れても、息が切れても、心が擦り切っても自分が自分でいられなくなっても。

 後先なんて考えられなかった。逃れる方法を放り投げれる余裕を無関心でいられる心持ちを踏み出す勇気を諦める決意を無我夢中で欲していた。立ち止まることを忘れていた。

 

 ふと空を見上げた。

 いるはずのない神様が近くに感じるような気がした。あの雲さえ突き抜ければ垣間見えると思うくらいに。困ってる人を助けてくれることも答えに導くこともない神様なんて信じても意味がないと分かっているのに、少し救われたような気がした。

 空はどんよりとした生憎の空模様で、僕の心の中を表しているような、青い空が一筋も見えない濃密な雲が空を覆っていた。今の僕が飛行機となって突き抜けようとしても、多分できないだろう。

 それくらい雲は分厚く、薄暗く、綿密で今にも雨が振り出しそうな気がした。

 

 気がつけば足が止まっていた。

 迷路を進んでいると思いきや、何もない荒野をただひたすら歩き続けていた。

 一歩一歩ひたすら歩んでいた記憶はかけらも残っていなかった。

 いつもの道からだいぶ逸れていた。学校から家に真っ直ぐ帰る道、寄り道も遠回りも一切しないような何もない平凡で馴染みのある安定した道から。

 僕は閑静な住宅街にいた。

 舗装された歩道の脇には、手入れされた街路樹が立ち並んでいる。柳の木が交差点の角に植えられていて、その木だけ揺れている。植え込みには、赤い花弁が下を向いている花が植えられている。産毛が生えているみたいで少しばかり気持ち悪い。住宅街のせいか車通りが少なく、子供の無邪気にはしゃぐ笑い声が聞こえる。

 

 少し泣きそうになった。

 子供が無邪気にはしゃいでいる声が悩んでいる心に響くことが。

 変わろうとしているのに変われない自分の不器用さが。

 恋というものに染まってしまった哀れな自分のことが。

 恋という呪縛に囚われ、逃げ場のない気持ちに押し殺される自分の弱さが。

 

 どれが原因なのかわからない。

 もしかしたら、全てなのかもしれない。

 ひょっとしたら、全て違うかもしれない。

 分からない、さっぱり分からなかった。自分のことさえも……。自分自身の気持ちなんてもうとっくに理解出来なくなっていた。

 不安定な心をリセットするために泣きたかった。心を落ち着かせたら、何か変わると思ったから。少しでも辛い思いから一時的でも解放されると思ったから。この悩みを解決できるきっかけが生まれるかもしれないと思ったから。

 

 けれどそれは自分が許さなかった。許されなかった。

 自分のプライドが許さなかった。

 あるのか、無いのかわからない自分のプライド、自尊心が邪魔をした。

 無邪気にはしゃぐ子供のように何も考えずに泣くことなんて出来なかった。

 一思いに、何も考えずに、無心で涙を流すことができればどれほど楽なんだろう。

 このどうしようもないこの想いから楽になりたかった。一つ一つ、目から溢れ出る滴のようにこの苦しみを曝け出したかった。誰かの目を気にしないで、自己中心的に生きたかった。


 道なりに歩き出した。

 いつもの道とは逸れていると分かっていてもそうしたかった。振り返って戻ろうとしても立ち止まっていても何も変わらない気がした。

 歩き続けても、何かが変わるか確証が無いけれど立ち止まっているよりも気持ちが楽だった。制服を着たまま、鞄を背負ったまま、音楽が流れていないイヤホンを耳に装着したまま、恋心しか無い空っぽの心で無心で歩いた。


 コーヒーの匂い。

 その香りは、少しほろ苦く焦げて香ばしい。店の外を歩いていても感じ取れるくらいに香りが立つくらいに。

 フレッシュな焙煎前の豆本来の香り、焙煎によって豆の良さが引き出された香ばしい香り、ドリップした時に滲み出る深みのある淹れたての香り、甘い果物のようなフレーバーコーヒーの優しい香り。

 混ざることなく、かと言って喧嘩することもなく辺りに漂う香りは誰かを惹きつけるには、もってこいの香り。

 

 「カランコロン」

 ドアが開く動作でベルが鳴る。

 その瞬間、何かが変わった。

 僕の意識はそこで鮮明にそして明瞭に戻った。

 目を見開く、心臓が一瞬止まる、鼓動が大きく響く、熱い血が体全体を巡る。

 僕は、小洒落た喫茶店に足を踏み入れのだった。

 

 


 


 

 

 

 

 

 




 

 


 


 

 

 

 

 

 




 

 

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