第十二章 更に増員

 四月になって早々に、新人が加入した。

 名前は垣内さんという。

 年齢は五十歳くらいで、背は私と同じくらいだが、かなりずんぐりしている。可愛くないテディベアみたいだ。

 無口で冴えない感じだが、真面目そうではある。

 前田さんに聞いたところによると、中学生の息子がいるそうだ。以前は古紙回収の仕事をしていたが、そこでトラックに両脚を轢かれて、膝があまり曲がらないということだった。膝が曲がらない状態で、床に這いつくばって梱包の作業など出来るのか、とも思ったが、取り敢えずは問題なく作業をこなしているようだった。

 UCでの研修が終わると、実験Z棟にも派遣されてきたが、仕事はすぐに覚えて作業も黙々とこなしていた。

 ところが本人は、何か遅くてすいません、というようなことを何度も言った。ただ単に謙遜しているだけとも思えなかった。私がプレッシャーをかけるような態度を取ったのだろうか、と疑問を抱いたが、そういったことは思い当たらなかった。

 作業は松井さんよりも早いくらいで、垣内さんにも同じことを言った。

 その松井さんの方が、また奇怪な言動をし始めた。

 実験Z棟で、三人で作業をしていた。

 松井さんと並んで座って、段取りをしていると、彼が言った。

「何かあ、垣内さん、青紙入れたままで梱包しようとしてるんですよ。だから注意したんですよ。超イライラしましたよ」

 その時は棚卸の後で、使用可能なチャージには青紙と呼ばれる紙が入っていた。梱包する際には、その紙を取り除くようにとの指示が出ていた。

 また別の時には、こんなことも言っていた。

「副票書く時、鉛筆で書いてるんですよ。何で鉛筆使うのって思うんだよなあ」

 まだ何もわからない新人に注意をするのは結構だが、その人様を小バカにしたような超イキった口調に、超違和感を覚えた。

 小迫さんの方も、相変わらずだった。

 実験Z棟では、午前中に志田君がフォークリフトでピンのパレットを搬入していた。

 入り口側からはフォークがターン出来ないので、ヤードの中央でターンして、パレットを突っ込まないといけなかった。

 そのため午前中は、置き場の半分にパレットを敷くのを控えていた。

 そもそもヤードが狭いので、必要のないパレットは敷かないようにしていた。

 ところが小迫さんがこちらに来ると、必要ないのにパレットを全面に敷きやがった。

 何度かパレット搬入のことを説明したが無駄だった。

 当然の如く、志田君がフォークでやってきて、パレットを急いで撤収する羽目になった。

 志田君が去ると、小迫さんはブチブチと文句を言った。何故、そんなにパレットを敷きたいのか全くの謎だった。

 当然の如く、それだけではなかった。

 その時はいつもの如く、タイ向けの78RXピンの防錆を指示した。

 普通に計量をやったと思ったら、いきなり防錆機にピンをぶち込み、回転をさせ始めた。

 最初は勘違いしたのかと思ったが、その状態で段取りを普通に始めた。

 次の台車も同様だった。どうも確信犯らしい。

 何でこいつは、いつもいつもまともに出来ないのか。頭は弱い癖に、どうして余計なことはいろいろと考えつくのか。感心すらしてくる。

 更に悪いことに、ダイレクト梱包ヤードを移転して以来、特に最近になって、長田さんが毎日のように、ふらっと実験Z棟に現れるようになっていた。進捗状況が気になるようだった。或いは余程暇だったのか。いずれにしても、私には話しかけてこなかった。

 小迫さんは、長田さんに聞かれたら何と答えるだろうか。

「いや、ちょっと間違えちゃって」

 とでも言って、ごまかしてくれるならまだいい。

 しかし、こいつは嬉々として言うだろう。

「先にやっといた方が早いんでえ。段取り終わったら、すぐに始められるんでえ」

 悪夢だ。

 いや、こいつの存在自体が、既に悪夢なのだ。

 そんなこと長田さんが許すと思っているのか。

 放任主義かつ自己責任論者の私でも、流石に注意してやった。

「これ、段取りやってからにしてもらえますかね」

 その時の小迫さんは、まるでミナミアオカメムシでも見るような目付きをしていた。

 結局その後も同様の行動を続けた。一度、計量をしている時に長田さんが来たが、さりげなく段取りを最初にやれ、と言うと、指示に従って頂けた。しかし、その内に誰かに見つかるだろうと思った。もうその時はその時だった。


 週が明けると、更にもう一人新人が加わった。

 名前は浦田君といった。

 歳は三十歳くらいで、背は私より高いが、かなりずんぐりしている。

 自前の眼鏡をかけており、長めの髪が首の後ろでカールしていた。頬の辺りの白い肌がモチモチして、ツヤツヤで、プルンプルンしている。妙に艶めかしい。昔の成見よりメタボで、体育会系かアウトドア派には見えなかった。

 しばらくすると、実験Z棟の方にもやってきた。

 投入をするのに多少フラフラとしている。しかし、仕事を覚えるのは早いようだった。

 休憩時間に話しかけてみた。

「前は何をやってたの」

「ソファとかを作る工場にいました」

「ほほう」

「………」

「………」

 足を広げて椅子にふんぞり返っている姿はどうにも太々しく、可愛げがない。

 しかし、前田さんと成見には好かれたようだった。最初はあまり話す機会もなかったが、二人経由で情報を得た。母親がこの工場の検査にいる。家が工場の目の前。

 どうも、私が偏狭な人間なのかもしれないと思い始めた。

 そこで思い付いた。ちょっと待てよ。

 これは後任のサブリーダー候補が見つかったのではないだろうか。

 となると、私はどうするべきか。あまりやる気を出されても面倒だが、その逆も困る。取り敢えず、向こうの二人と仲良くしてもらった方がいいかもしれない。私に同調されて、あまり反抗的になられても困るだろう。

 ところが、浦田クンが一番仲良くしたかったのは、垣内さんのようだった。

 彼と一緒になると、幼い弟の如くに、何かと纏わり付いて話しかけている印象を受けた。

 休憩時間に二人並んで椅子に腰かけている姿は、まるでハンプティ・ダンプティのようだった。

 UC工場で残業をしていると、窓から二人が一緒に帰る姿が見えた。

 浦田の方は嬉々として垣内さんに話しかけているが、垣内さんの方は明らかにテンションが低い。どうも温度差があるようだった。

 新年度に入ったのを機に、ダイレクトの担当者も異動となった。

 原島君は、恐らくホッとしているのではないだろうか。

 新しい担当は、島村君というまだ二十代前半と思しき若者だった。

 自前の眼鏡をかけており、今風で精悍な印象の男だった。

 四十代の私より余程しっかりとしているようで、原島君のような、ヘラヘラとした愛嬌はなかった。

 どうも、私のシゾイド的冷淡さと、引きこもり的サブカル趣味があまり好かれなかったようで、仕事以外の話はほとんどしなかった。

 浦田君の方が、私を差し置いて彼と仲良くなった。

 島村君は、工場の目の前にある会社の寮に住んでいた。その隣にあるスーパーで、立ち読みをしている浦田君と会ったらしい。

 実験Z棟で二人が一緒になると、男の子らしく、週刊少年ジャンプとか漫画の話で盛り上がっていた。

 おまけに、丈選のブルーノちゃんとも仲良しのようだった。

 ワークネードの非正規は、工場の社員と話してはいけないということになっていたが、お構いなしのようだった。

 自分のコミュニケーション能力に対する疑義が、更に強くなった。

 浦田君は、クマちゃんタイプのオヤジだけではなく、若いイケメンもいけるのか。

 一応断っておくと、彼が男性を好きなのか、女性を好きなのか、正確なところは私も知らない。

 成見とはラーメンの話をしたようだった。彼がお勧めのラーメン屋でも教えたのであろう。成見がいなくなると、島村君がスマホの画面を見ながら呟いた。

「遠いな」

 どうも、車で一時間ほどの距離にある店を教えたようだった。

 担当者が変わると同時に、セットがもう一つ増えた。

 実験Z棟に、島村君がリーチフォークでパレットを運び込んできた。

「これ、ちょっと置いといてもらえませんかね」

「はあはあ。何すか、これ」

「ピンなんですけど、今度、新しく中国向けのセットが増えるんですよ」

「え、セットが増える」

 結局、ヤードの奥に置くことになった。

 アメリカ向けの33R,メキシコ向け、そしてこの06Fで、セットが三種類となった。

 益々面倒なことになってきたと思った。

 ある朝、朝礼が終わると、前田さんと成見に言われた。

「長田さんに、33Rやれって言われたんで、朝一でやってもらえる」

 朝一もへったくれも、部品がまだ揃っていないのだが。

「ガイドがまだないですけど」

「ダイレクトの方にも出てない」

「まだなかったですね。ちょっと島村さんに聞いてみます」

 成見が言った。

 結局、朝一でEワイとピンを梱包した。ガイドが運搬されたのは午後だった。まだ温かったが、梱包を強行した。定時前に入庫して、三好さんに急いで引いてもらった。午後から作業を始めても、同じことだったろう。

 成見の方はと言えば、UCに専念しているのか、運搬以外では、あまり実験Z棟には姿を見せなかった。ところがとある日の午後に、長田さんと一緒に現れた。

 その時はちょうど、前田さんがワークネードの会議に出席しておりいなかった。

 しばらく二人で話していたが、やがて私を呼んだ。成見が言った。

「もし、何か部品が足りないとかあったら、自分に言って下さい。運搬しますんで」

「明日の朝、部品が無くなってもいいんで、ガンガンやっちゃって下さい」

 そう言うと、再び二人で去って行った。随分と仲が良さそうだった。

 何故、このタイミングであのようなことを言い出したのか、最初はよくわからなかった。

 どうも、セットをとっとやれと言われているような気がする。セットが一つ増えたので、気になっているのかもしれない。しかし、その時に何をやるかは状況次第だ。納期が逼迫しているならともかくとして、そうでない場合に、今あるものを差し置いて、部品を調達してまで、セットを先にする必要があるのか。アウトリンクのピンが揃っているのに、そちらを後にして、まだ部品の揃っていないセットを優先するのか。

 それにセットは場所を取るし、入庫処理も時間がかかるので、部品が揃った時点で、なるべく最短時間で一気に出せるタイミングを計ってやっているつもりである。

 朝、二人の場合より、三人いる時に一気に片付けた方がいい。

 防錆の作業がエンドレスになるので、なるべくコンスタントに片付けたい。

 でかい作業を無理矢理捻じ込むと、部品、台車、パレット、全ての流れが滞留してしまう。

 特に最近は、部品台車がヤードに溢れているので、そちらを先に片付けないと、作業場所すら確保出来ない。パレット四枚だと、アウトリンクは八台消化出来る。セットだと四台から五台といったところだ。

 順番を変えたとて、作業に要する時間は変わらないはずだ。

 物流がパレットを引くのも時間がかかり、負荷が増すので、あまり一気に大量に出したくない。

 入庫の作業をするのに、UC工場でコピーをしてくる必要があるので、タイミングは常に考えている。昼休みで向こうに戻るついでに、とか。それでも、一日何度も往復する羽目になっているので、へとへとになっている。

 そもそも入庫するのに、午前中だろうと午後だろうと、同じことではないのか。日付は変わらないし、どうせしばらくは倉庫にぶち込んでおくだけだ。それとも私が何か理解していないことがあるのか。

 翌朝云々ということに関しては、既にやっている。この工場は夜も稼働しているので、翌朝に部品がないということはない。それに本当に、翌朝になって部品が無くなるなら、残業をやる意味がない。しかし、新人が二人入ったといっても、残業時間は減っていない。先月は特殊なケースだったが、今月もだいたい月木で二時間、土曜日は休出のペースで、以前と変わりはない。月換算だと四十時間オーバーになる。おまけに、他の連中は定時で帰っても、私はほとんど帰れない。

 私のやり方と態度に問題があるのか。

 確かに私はやる気がない。それは事実だ。態度も既に問題となっているのであろう。

 しかしだからこそ、作業効率と負荷を減らすことは常に考えている。切れ目なくスムーズに作業を進められるように心を砕いている。いちいち部品を調達するために駆け回っても、入庫日が変わらないのでは無意味だ。おまけに残業が減る訳でもない。勤務時間が短くなるという保証がない限りは、無理に作業を煽りたくない。

 怠慢と不服従を非難されればそれまでだが、今までに私のミスで納期をすっ飛ばしたとか、そういったことは一度もない。最低限はやっているはずだ。

 作業をしながら、あれこれと考え続けた。

 三時の休憩明けに、前田さんが現れた。

「こっちは大丈夫。何もないよね」

 呑気に言った。

 この時点で思い付いた。

 長田さんは、わざわざ彼のいないタイミングを見計らって、成見を連れてきたのであろうか。

 私ではなく、前田さんの方に何か言いたかったのではないだろうか。

 すなわち、セットを先に片付けさせろ、もっと『ガンガン』やらせろ、朝木をもっと煽り立てろ。

 或いは、私に対する指導がどうこうではなく、前田さん本人に不満があるのか。

 長田さんは、前ちゃん前ちゃんと可愛がっていたが、その前ちゃん自身は、かなり無理をしてテンションをアゲアゲに上げている。流石にそのことに気付いたのかもしれない。

 前ちゃんを見限って、成見に乗り換えるつもりなのか。

 ともかく、もって回った言い方をされるよりは、『セットがあったら、何が何でも最優先でやれ』とでも言われた方が、こちらとしてもやりやすい。そうでなければ、『こっちはどうした、何でやってねえんだ』、とか言われかねない。あまり無理はしたくないが、一応その姿勢だけは見せておくべきかもしれない。


 前田さんは、手当が出ないことを理由に、土曜日の出勤は控えていたが、運搬をやり始めて以来、土曜日も毎週顔を出すようになっていた。

 ところがその土曜日は、何らかの理由で休みだった。

 おかげで、『やらなくていい』と言われていた運搬を結局やる羽目になった。

 運搬はまず、キーを取りに行くところから始まる。

 UC工場の事務所には、既に誰もいなかった。

 何故、社員どもが普通に休んでいるのに、我々だけが毎週毎週休出をしなければならないのか。しかし、真剣に考え出すと破壊工作に走りそうだったのでやめた。

 キーは、ドア横のフックにかけてあった。

 トラックは白い二トン車で、荷台はオリーブグリーン色の幌で覆われている。UC工場の前が駐車スペースとなっていた。

 成見が運転し、私が誘導して、バックで中央通路に出した。

 助手席に乗り込んだ。

 工場の裏手から回り込んで、実験Z棟の入り口に、バックで荷台を寄せた。

 ゴム紐を外し、荷台の幌を開けた。後ろあおりを二人して降ろした。重たいので、一人でやるのは禁止と言われた。頭を直撃したら、首がへし折れるだろう。電動リフトを降ろした。

 実験Z棟には、既に誰もいない。休出していた小迫さんと松井さんは二時で帰っている。丈選も同様。成見と私だけが、運搬のために三時まで仕事する羽目になっていた。

 まずはピンからだった。

 丈選済みのピン台車は、入り口の脇が置き場となっている。

「あんまり勢いつけすぎると、前に突っ込んじゃうんで、気を付けて下さい。

 確かに、リフトの傾斜を乗り越えると、今度は止まらなくなる。止めるのは、押すよりも難しい。

 台車に車輪止めをかます。

 リフトが上昇、そのままリフトに昇り、台車を荷台へ押し込む。

 荷台は結構な高さがある。柔軟性が必要とされる。

 四台のピン台車が荷台に収容された。

 更に、空台車を二台引っ張ってきた。こちらは二台同時に荷台に積んだ。

 成見が荷台の奥から固定ベルトを引っ張り出した。私がフックをかけた。彼がラチェットをガチャガチャと巻いて、台車を固定する。

 全部終わると、クソ重たい後あおりを閉めてロックする。シャッターのスイッチをオンにする。出発。

 私が誘導して、ダイレクト工場の裏口にトラックを寄せた。

 工場の扉は閉まっていた。製造ラインは普通に休みで、工場自体が閉まっている。

 何故、工場自体が普通に休んでいるのに、我々だけが毎週毎週休出をしなければならないのか。しかし、真剣に考え出すと破壊工作に走りそうだったのでやめた。

 古くてクソ重たい鉄製の扉を開けた。

 さっきとは逆の手順で空台車を降ろした。

 荷台から空台車を引っ張り出すと、そいつらを押さえたままで、後ろ向きにリフトから降りる。リフトは結構な高さだ。柔軟性が必要とされる。ここで滑って、台車ごと地面に落下したら、骨の二三本は軽く折れる。

 更に、ピン台車を一台ずつ降ろした。

 ピンが詰まったクソ重い台車を降ろすのは、空台車を降ろすのとワケが違う。空台車だけでも結構な重さだが、もし部品台車の下敷きになったら、下手すりゃ死ぬんじゃないだろうか。やばそうだったら、とっとと逃げるしかない。

 六台の台車を、置き場に押し込んだ。

 組み立てラインは休みだが、奥の成形やら二階の画選は二十四時間営業なのだ。

 朝にはなかった新しい部品が、既に並んでいた。

 六台の部品台車を積んだ。さきほどの手順を繰り返した。出発。

 実験Z棟に戻ると、同じことを繰り返す。

 今度は六台の空台車を積んで、ダイレクト工場に戻り、空台車を降ろす。

 部品台車を四台積む。

「ドア閉めちゃいましょう」

 ダイレクト工場にはもう戻らない。

 シャッターを上昇させたままで、手動に切り替える。これで勝手に降りてこない。その状態で鉄製の古い扉を途中まで閉め、隙間からチェーンをかけて完全に閉める。

「これ意味ないですよね」

「そうすね」

 やろうと思えばいつでも外から開けられる。セキュリティはざるだ。

 それ以前に、こちらの工場も製造ライン以外はシフト制なので、夜だろうと休日だろうと稼働している。入ろうと思えばいつでも入れる。しかし金目のものがある訳でもないし、特に面白いものもない。何年もいると既に興味も失せている。機械類は高値で売れないものだろうか。

 再度実験Z棟に戻ると、四台の部品台車を降ろした。これで運搬は終了。

 部品台車を置き場のラインに押し込んできちんと並べる。最後なので小迫さんがわざわざ用意してくれたブルーシートを広げてかける。よく見ると、一部の段ボール箱にカバーがかかっていない。あいつらは一体何をやっていたのか。詰めが甘い。小迫さんはハンドフォークでガチャガチャやっただけで満足したのであろう。しかしさきほど携帯電話で天気予報を見たが、週末に雨は降らないらしいので、なくても大丈夫だとは思う。面倒くさいので、アクリル板を載せて終わりにする。成見は見ていないし、こういうところは突っ込んでこないようだ。

「どうでした、運搬やってみて」

 例の如く、成見が楽しそうに訊いてきた。

 どうでしたも何も、台車はクソ重いし、リフトは傾斜しているし、ちょっとでも気を抜くと後ろに台車ごと落下して下手すりゃ死にそうだし、運搬のために私だけ帰れないし、碌なもんじゃないと思ったが、そんなことを言うほど、私は正直でも単純でもなかった。

 例の如く、当たり障りのない返答をした。

「そうですね、台車を降ろす時が怖いですね」

「これって、後ろ向きに降りるじゃないですか。せめて台車だけでも、もう一人が押さえておくしかないですよね」

 一度やり始めると、結局なし崩し的にやらされる羽目になるのは目に見えていた。残業時間が更に増えそうだった。


 この年の連休は、映画を三本はしごして、美術館に行って、ヒバリの撮影に失敗して、うだうだと過ごしていたら、秒速で過ぎ去った。

 連休前には、部品管理の方々が、UC工場一階の事務所から二階へとお引越しされていた。それに伴い、コピーをとるために二階まで行く羽目になった。一日に何度も階段を登らなくてはならなくなった。

 連休明けからは、部品の供給がやや遅く、また処理量が多くなかったこともあり、昼間にラベル切りをやって、定時で帰れた日もあった。しかし、私は運搬に駆り出されるようになったため、後半からは結局、残業時間はいつものペースに戻った。

 その残業時間は、前田さんが成見と相談して決めていた。

 ところが、その前田さんがいきなり昼礼でブチ上げた。

「これから自分はちょっと現場を離れて、皆さんに任せようと思います。えーっと、残業とかは成見君と朝木さんで決めて下さい」

 確かに以前から、『自分は現場を離れて、みんなに任せる』と、事あるごとに言ってはいた。しかし、何故このタイミングなのか。わざわざ昼礼でぶち上げたとなると、やはり本気なのかもしれない。どんどん深みに嵌っている気がする。また面倒なことになった。

 これは加藤さんの指示なのか、それとも前田さん本人が言い出したのであろうか。

 しかしそこで思った。ちょっと待てよ。

 これは長田さんが関係しているのであろうか。

 長田さんが加藤さんに、クレームじみたことを話したのか。

 或いは、前田さんが空気を察して、自分からちょっと距離を取ろうとしているのかもしれない。折角こっちは真面目にやっているのに、やってらんねえよ(でもちょっとラッキー)。

 しかし、勤怠に関することを非正規同士で決めさせるのは如何なものが。

 形式だけでも社員が決めて、要請(暗黙の強制、当然やるよな)するべきではないだろうか。

 そもそも、部品がある内は残業してでも全部片づけろとか言っているのであれば、決めろもへったくれもない。部品を残して帰った時点で、何故帰ったと言われることは目に見えている。部品が無くなった時点でお開きにするしかないだろう。余程やることがない、という状況にならない限りは定時では帰れないのだ。

 結局、誰が決めようと同じことだ。

 それに、この件に関して成見とまともな話し合いが出来るとは思えない。

 私は根本的に休みたい。必要がなければ帰りたい。いや、必要があっても帰りたい。

 前田さんも恐らく、本当はそう思っているのであろう。しかし、長田志田コンビに気を遣って、そのようなことを決断する余裕がないだけだ。

 しかし成見は違う。

 部品がある内は、次の日がどうなろうと残業をしたがるだろう。

 先月は七十四時間残業だった。今までの最長記録だが、これは例外だ。

 その前は、だいたい四十時間台が多い。少なくて二十時間台、多くて五十時間台といったところだ。

 四十時間とすると、週三で二時間、土曜日に三回休出といったところになる。

 残業を減らそうというコンセンサスでも得られれば、幾らでも協力する。

『残業やだねー』

『四十時間は多いよね』

『過労死しちゃうよね』

『交代で定時にして、残業減らそうよ』

『そだねー』

 しかし、このような時給労働者の模範的なやり取りはまず期待出来ない。

 ワークネードの方で余計な残業はするな、とか一言言ってもらえると、こちらも帰りやすい。しかし、人件費が多少嵩むことはあまり気にしていないようだ。恐らく時給が安いからだろう。

 それに、もしそうなったとしても私は帰れない。他の連中を残して、私だけ一人で帰る訳にもいかない。恐らく大ブーイングの嵐になるだろう。更に、運搬をやる羽目になっているため、益々残業が増えるだろう。しかし、成見は嬉々として残業し、長田さんにアピールしようとするだろう。

 基本的な認識が違い過ぎて、話し合いにならないに違いない。

 こちらから下手なことを言い出すと、藪蛇になりかねない。

『部品ないですね。帰りましょう』

『何で、帰るんですか。全部やってくのが当然じゃないですか』

 すなわち、こちらからは何も言わないのが最善の策である。

 そう思ってシカトを決め込んでいると、今度は前田さんから直接言われた。

「残業は二人で決めてね」

 しかし、実験Z棟に成見はいなかった。そして、そう言った傍から定時内にアウトリンクを入庫しろとか介入してきた。任せるんじゃなかったのか。

 小迫さんの防錆がギリになるので、入庫は諦めていたのだが、仕方なくUC工場で急いでコピーをして戻ってきた。防錆の作業と並行して入庫することになった。

 もし必要なら成見の方から何か言ってくるだろう、とか思っていたが、何も言ってこなかった。私が何も言わなくても、毎日何となく残業時間が決められていた。

 そういう訳で、その日、私が残業でUCに戻ると、浦田は定時で帰っていた。

 私は成見に、タイ向けのカラーを振られた。

 UCヤードには、未入庫の完成品が並んでおり、作業をするための隙間を探さなくてはならなかった。

 段取りをして台車に戻ろうとすると、地面に這いつくばって梱包していた松井さんが声を上げた。

「あー、黙って通った」

 すると、わざわざ立ち上がって垣内さんの元へ行き、何やら指導、というか説教をし始めた。

 どうも、何も言わずに近くを台車で通ったことを非難しているようだった。薄ら笑いを浮かべているが、明らかにキャラ変している。さっきも、まるで幼稚園児のような言い方だった。これは退行現象というやつなのか。

 何故、垣内さんに対してそこまで執着しているのか。或いは格下と見るといつもああいう態度なのか。

 指導が終わると満足したのか、また自分の作業を続けた。

「全く、困っちゃうような、もう」

 ヤレヤレ、仕方ないなといったような、芝居がかった口調だった。

 帰り際に成見に聞いてみた。

 こいつはこいつで、相変わらずもたもたと上着を着こみ、キーチェインをジャラジャラと鳴らし、やろうと思えば五秒ですっ飛ばせる工程を、五分もかけようとしている。

 いい加減うんざりしているのだが、切るきっかけがつかめないでいる。私の方も依存しているのかもしれない。とっとと浦田にジョーカーを渡すべきだ。

「松井さんって、垣内さんにいつもああいう感じなんですかね」

 成見がため息をついて言った。

「おめえ、自分の方が作業遅い癖に、他人のこと言ってる場合じゃないだろ、って思うんですけどね」

 まあ作業が早いとか遅いとか、この場合はあまり関係ないと思うのだが。

「浦田君には、どうなんですか」

「いや、浦田には特に何も言わないですね」

 一応相手を選ぶのか。本当に嫌っているというよりも、格下の弟扱いで執着しているといった感じだ。これも何か名前がある症状なのか。普通にパワハラと言われかねない振る舞いではある。しかし、松井さんに何か言っても恐らく理解出来ないだろう。逆切れするに違いない。結局、松井さんをなるべくダイレクトで引き受け、私がお守りするということになった。


 その松井さんは、その日は何らかの理由で休みだった。

 私はいつもの如く実験Z棟で、小迫さんへの殺意を押し殺しながら仕事に励んでいた。

 午後遅くになって部品が揃ったので、メキシコ向けのセット六パレに着手した。

 梱包が終わり、六パレ分の入庫ラベルを貼った。そこから構成表を書いて、UC工場でコピーをして戻ってきて、その構成表を完成品の上にベタベタと貼り付けて、入庫処理をするとなると、時間ギリギリだった。こちらの入庫はともかくとして、物流が引き揚げる時間がなかった。

 そこに三好さんがフォークリフトで現れた。

 セット以外の部品を引き揚げてくれた。

 今日はお開き、残りは明日の朝でいいと伝えた。じゃあお疲れ。相変わらず元気で羨ましかった。

 小迫さんに与える餌もまだあるし、パレットも空いたので、後は十九時までダラダラ作業をしていればよかった。

 デスクでのんびりと構成表を書いていると、長田さんが現れた。

 仕方なく方針転換して、入庫を強行することにした。

 更に成見が現れた。

 UC工場まで往復して、定時ギリギリで入庫した。

 成見が、三好さんに電話をかけた。取りに来て下さい。私に対して状況の確認はしなかった。

 定時の休憩時間で、我々が休んでいる間、三好さんが六枚のパレットを引き揚げた。

 可哀想なので、ラップだけは巻いてあげた。

 フォークリフトでパレットを運ぶ際は、荷崩れ防止のため、巨大なラップを荷物にグルグルと巻き付けることになっていた。たまに私がその作業をやっていると、小迫さんが、アシヒダナメクジでも見るような目をして言ってくる。

「いいんじゃね。やんなくても」

 どうも、物流の仕事だと言いたいようだった。

 しかし私の方も、親切心だけでやっている訳ではない。

 フォークで引いて、フォークを降りて、ラップを巻いて、フォークに乗り込んで、フォークを刺して、とやっているとあまりにも効率が悪い。引き揚げ時間の短縮になれば、こちらの作業にもプラスになる。

 しかし、そういった配慮は全く理解されない。

 残業時間中の十八時頃、シャターが開いた。

 三好さんが徒歩で現れた。

「いや、もう参ったよ」

「すいませんね、何か。私はあそこで切るつもりだったんですけどね」

「いや、別にいいんだけどさあ。ミルクランのドライバーに、『何時までやるんだ』って言われちゃってさあ」

 この工場では、構内でトレーラーを走らせて物資の輸送を行っている。

 そのトレーラー便を、ミルクランと呼んでいる。ここではやはり外部の運送業者が業務を請け負っており、ドライバーもそちらの社員らしい。

「四時二十分が最終便なんだよね」

「え、そうなんですか」

「そう。だから、こっちから頼まないといけないのよ」

 そうすると、ドライバーも残業になる訳か。その依頼も非正規がやらなくてはならないのか。

「しかも、トレーラーに積めないとか言い出すしさ」

「他のところもあったんですか」

「隣のクローザーとかもさ、時間ギリギリで出てくるんだよね」

 六枚一気大放出では、そうなるのも無理はない。そういったことに配慮して、明日に回そうと思っていたのだが。

「しかも、新工場でバラさないといけないんだよね」

「え、そうなんですか」

 そのまま立体倉庫にブチ込むと思っていた。

「パレットがないとか何とか騒いでるしさ」

「こっちは、別に明日の朝でもいいんですよね。パレット置く場所があれば、引いてもらうのは、いつでも構わないんですけどね」

 朝から梱包作業を始めても、すぐにパレットに並べられる訳ではない。私としては、その前に引いてもらえれば、何も問題ない。

 そもそも、入庫したからといって、すぐに引かなくてはならないというルールはない。入庫処理上も、何の問題もないはずだ。そういったことは聞いたことがない。私としては、入庫処理さえしてしまえば、後は荷物がどこにあろうと知ったことではないのだ。雨漏りか何かで荷物が破損しない限りにおいては。

 何故ここの連中、というか特に成見が、入庫即引き揚げに拘るのか未だに理解出来ないでいる。

「いや、自分は出来るだけ引きたいんだよね。ある分は全部引いちゃいたいのよ」

「ああ、そうすか」

 じゃあ、どっちにすりゃあいいのよ。

 時間ギリで無茶振りをしやがって、成見死ね、という話ではないのか。

 そうすると、怠慢で消極的で敗亡主義的な俺の方が悪いということか。

 彼はひとしきり愚痴をブチ撒けると満足したのか、帰っていった。

 それにしても非正規が、外部請負業者の勤怠管理にまで首を突っ込んでいることに、何故誰も疑問を抱かないのか疑問だった。そこは形式だけでも正社員がやるべきところではないのか。


 月末が近づいてきた。しかしこの月は、UC、ダイレクト共に、部品の供給が遅かったため、目標達成は困難な状況だった。

 一部の注文がカットされたり、来月に回されたりした。

 最終週になっても部品がないという状況だったが、流石に本気を出したのか、或いは長田さんが何か言ったのかして、一気に部品が放出されてきた。

 他の部品と共に、アウトリンクが八セットも運搬されてきた。

 その日は、島村君が休みだったため、前田さんが、アウトリンクとペアになるピンの設定をすることになった。

「ほとんどSなんで、台車ごとに設定してくれると、助かるんですけど」

 一応言っておいた。

 ところが、見事にバラバラだった。

 四台の台車に、十六チャージのピンが並び、どれがどれだがさっぱりわからなかった。

 午後遅くから、垣内さんと浦田に私を加えて、アウトリンクの梱包を進めていた。その時点で、六パレットが終了していた。

 取り敢えず、防錆は明日やることにした。小迫さんが嬉々としてやってくれるだろう。

 残業中に、私はクソ重たい計量をして、そのついでにコンテナを順番に並べて整理しなくてはならない。そう思って作業に着手した矢先に、成見が現れた。来て早々に言った。

「今出てるのは、ピンはどれですか」

 アウトリンクのパレットを指して言った。何だか御機嫌だった。

「いや、ちょっとバラバラでわからないですね」

 アウトリンクは三種類、仕向け地も三種類、似たような番号が並んでいて、もうどれがどれだかわからない。それをこれから整理しようとしている訳だ。

「先頭のはどれですか」

「いや、ちょっと待って下さいね」

 だから、どれがどれだかわからないっつうの。先頭のアウトリンクがどれかすらわからない。仮組表のクリップボードをガチャガチャと一枚ずつ見ていくが、見つからない。

「じゃあ、自分ラベル貼るんで、防錆しちゃって下さい」

 ちょっと待て。本気でやるつもりなのか。それとなく言った。

「今からだとちょっと、どうせそんなには出来ないですけど」

「出来るとこまででいいんで、一つでも多く、朝一で入庫出来るようにしたいんで」

 ヤードには、完成品のパレットが並んでおり、おまけに作業者が二人いて、大変に狭くなっている。というか、はっきり言って大混乱状態だった。そもそも、計量するスペースすらない。

 この状態で、台車四台から目的のチャージを選び出し、計量しながら一台に纏めなくてはならない。

 しかし、台車の駐車スペースがない。

 コンテナ一つで三十キロ近くある。台車一台で四百八十キロだ。

 ピンを満載した台車は、思い通りに位置取りすることすら困難だ。スピーディな作業は難しい。

 取り敢えず、空の台車を引っ張ってきて、空いたスペースに放り込んだ。

 最初にどれを計量すればいのか、数字の列を探した。

 チャージを特定したが、どれがどれかわからなくなった。番号札を持ってきて、コンテナにブチ込んだ。取り敢えず四チャージ分。見事に四台の台車に分散していた。

 一台目の台車を、苦労してスペースに押し込んだ。計量して新しい台車に移した。

 二チャージ目に取り掛かった。

 ここで問題が発生した。

 ピン径が違う。

 仮組表に記載されているのは『2.963』。該当するブツのピン径カードには『2.694』とある。これはどういうことなのか。両方ともSサイズなので、特に問題はない。書き換えようと思えば出来ないことはない。

 しかし、本当にそれでいいのか。間違えると私の責任になる。前田さんは既にいない。

 よくよく見ると、ピン径カードのチャージナンバーが違う。入れ替わっているのではないだろうか。該当するチャージを探した。

 一台目の台車にあった。ピン径カードを入れ替えた。問題はここからだ。チャージはそのままでいいのか、それとも、ピン径をそのままにして、チャージを入れ替えた方がいいのか。

 いや、ここはピン径を書き換えるだけでいいはずだ。恐らく、相方のピン径も間違っているのであろう。そちらも書き換えなくてはならない。似たような数字が並んでいて、ゲシュタルト崩壊しそうになってきた。

 元々入れ替わっていたのか、前田さんが間違えたのか、判断がつかなかった。

 いずれにせよ、確認していないということで、前田さんに責任があるということにはなる。しかし最終的には、防錆をする私に責任が帰せられることになるだろう。危ないところであった。

 単純な作業でも、量が多くてプレッシャーがかかると、こういうミスが発生することになる。だから一気にやるのは嫌なのだ。

 何とか四チャージ分の計量を終えた。四台の台車をどこに置いておけばいいのか、

 残り時間は四十分を切っている。だいたい今からやったって、強行軍で二チャージ、ワンパレット分をやるのが関の山だ。

 二時間かけて、明日の朝一で入庫出来るのは一枚だけ。全く意味がない。

 しかも箱を作る気配もない。本人はアウトリンクにラベルを貼り、今はワイリンクの梱包をやっている。全て俺にやらせる気なのか。というか、本気でやるつもりあるのか。

 防錆を手伝う時は、だいたい箱を作ってくれることになっている。一つでも多くということであれば、尚更だ。こいつはどこまでやるつもりだったのか。意図が全く読めない。二チャージでもいいのか。

 ヤードには、未入庫のワイやらガイドも並んでいる。更にワイの台車が二セット分。アウトリンクが終われば、こちらも梱包出来る。そちらの入庫も段取りを付けないといけない。

 どうも、本気でやるつもりではなかったのではないだろうか。そういう訳で、入庫の作業をすることにした。部品構成表を書いた。

「ちょっと、コピーしてきます」

 成見に言った。

「あれ、防錆やらないんですか」

 成見が言った。

 あれ、やっぱりやるの。それはマズい。しかし、残り三十分しかない。

「いや、もう時間ないんで。ちょっと入庫します。」

 思わず口ごもった。逃亡することにした。

 UCの事務所には社員は誰もいない。一息ついた。

 どうも、意思の疎通が取れていない。もう少し早く様子を聞いて頂ければ、こちらも言い様があったのに。

 後で何か言われるかもしれない。

 といってもシカトするだけだ。喧嘩するのも面倒だし。自己愛性PDの偏執狂野郎と喧嘩しても勝つ自信はない。話が全く噛み合わないだろうし、向こうは自分が絶対的に正しいと思っているだろう。

 実験Z棟に戻った。

「浦田が、もう終わりますけど。次何やるんですか」

「ああ、じゃあワイリンクを」

 成見が浦田に指示を出した。

 その後も成見は、腕を組んで、垣内と浦田の作業を見つめている。

 これはヤバイ状況だ。

 私は、事務作業を続けることにした。

 作業が終了した。下っ端二人は養生の作業に入った。

 ここで前田さんが現れた。最後の締めに様子を見に来たようだった。私はまだ事務作業が終わらない。机に向かっていて、二人が何か話しているのか見えない。下っ端二人は、仲良くお手てを繋いで帰っていった。

 私も作業を終えて立ち上がった。成見が待っていた。

 おお、怒ってる怒ってる。

 まるで闘牛のようだ。後ろ脚で地面を蹴って、今にもこちらに襲い掛かってきそうな雰囲気だ。しかし今の私には剣もないし、そもそも例え剣など持っていたとしても、ブッ刺してやる訳にもいかない。華麗にステップを踏んで、ひらりひらりとかわすだけだ。

 前田さんが来た。しかし空気を察したのか、とっとと逃げやがった。

 あの人は空気が読める。自己愛性PDでもブラックでもない。少々読み過ぎではないか、と思える時も多々ある。こういう時は空気なんぞ読まずに、無神経に小迫さんのバカ話でもしてくれると助かるのだが。

 頭の中で音楽が鳴り響いた。

 チャー、チャラララララランラララー、チャラララララ……。

 いや、こいつは『ボレロ』だ。

 『カルメン』ってどんなメロディだったっけ。

 チャ、チャチャチャチャッチャ、チャッチャッチャー……。

 いや、こっちは『くるみ割り人形』だ。

 カルメンと言っても、最早ピンクレディーの方しか思い浮かばなかった。

「何で防錆するって言ったのに、やらなかったんですか」

 おお、始まった始まった。

「最後、二チャージでも出来たじゃないですか。折角人を寄せたのに、少しでも作業を進めないと意味ないでしょう。入庫は明日の朝でも出来るんだから、明日でいいんですよ。もし、何かやりたいことがあるんなら、最初に言って下さい。明日の朝のこととか考えなくていいんですよ。モノが無くなるまでやっちゃって下さい。その後は時間が空いてもいいんです。ヤードの配置換えとかも出来るじゃないですか。自分たちが話し合ってないと、他の人たちが不安になるでしょう。小迫さんとかがフラフラし出すんですよ。前田さんも、何かあると、自分の仕事放り出して、こっち構わないといけなくなるじゃないですか。事務仕事は、他の人が見て、真面目にやってるように見えないんですよ」

 話を聞きながら、PCを落とし、扉を閉め鍵をかけた。

 UC工場へと向かった。

 普段通り、ボソボソと話していたが、低空飛行をしながらエキサイトしてきたのがわかった。

「力仕事をやってもらっている、っていう意識でやらないとダメなんです。やらせるじゃないんです。意識を変えて下さい。メーカーの人は、他の人たちじゃなく、我々を見ているんですよ。長田さんとかに、突然ピンをやれとか言われませんか。そういう時にために、UCでは、余裕を持たせるようにしているんですよ。時間が空いた時は、こっちも見に来て下さい。リーダーは、仕事をしているように見せるのが仕事なんです。もっと威厳を持って下さい。仕事をやらせた方が、その人のためなんです。前田さんは、いつも見えるところで、長田さんとかに言われてるんですよ。ピンの前とかで。リーダーは忙しいのが当たり前なんです。正社員じゃないけど」

 『正社員』のくだりだけ、更にトーンが落ちた。

 一応、正規と非正規の立場の違いは、人並みに認識している訳だ。

「いつもは問題ないんですよ。でもこういう時にやらなきゃ意味がないんですよ。朝木さんは期待されてるんですよ」

 こういう時って、どういう時だ。UC工場へと入り、タイムカードを打刻した。これでお開きだよな。

「まあ、頑張ってやってれば、リーマン・ショックみたいなことが起きても、辞めずに済みますよ」

 最後に薄笑いを浮かべて言った。機嫌はすっかり治ったようだった。何故か背筋が凍り付いた。

 リーマン・ショックは百年に一度の危機と言われる。百年に一度の派遣切りのリスクのために、毎月四十時間オーバーの残業をこの先何十年も続ける。そして、こいつは一人で正社員様になるという訳だ。狂ってるのか。

 実験Z棟からUC工場まで、一人で喋りっ放しであった。

 時間にして五分くらいのはずだが、もっと長く感じた。だいたい十三分くらい。

 普段から言いたかったであろうことを、自身の仕事論を交えて、ついでにぶち撒けた感じだ。

 相変わらず正論じみたことを言っていたが、内容には五%も同意出来なかった。

 だいたい人の意向も聞かないで、無意味で非効率な作業を押し付けて、『やりたいことがあるなら』もへったくれもない。『余裕を持たせるようにしている』って、お前のために時間を空けておけということなのか。恐らく長田さんあたりに、最後に二チャージやらせましたよ、とでもアピールするつもりだったのではあるまいか。『やってもらう』とか『その人のため』とか言っているが、結局のところ、自分のことしか考えていない。一体、何を言ってやがるんだ。

 これが『自己愛憤怒』というやつなのか。

 私は一言も反論しなかった。特に怒りは感じなかった。多少エキサイトしているのは感じていたが、淡々と、かつボソボソと話していたので、恐怖も感じなかった。自分でも驚くほど冷静だった。感じたのは、得体の知れないものに対する、ぞわっとした不安感だけだった。益々自己愛性PDに興味が湧いてきた。

 数日後、前田さんと運搬をすることになった。

 私が誘導をして、トラックの助手席に乗り込むなり、前田さんが言った。

「辞めないでね」

 成見から何か聞いたのかもしれない。或いは前田さん自身も、いろいろとうんざりしているのかもしれない。『原因の一端はあなたにもあるんですよ、前田さん』、と心の中で密かに教えてあげた。

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