命の恩人

アール

命の恩人

その崖は人が滅多に近寄らない森を抜けたところにあった。


崖の上から下を覗くと、頭がくらくらしてくる。


誤って落ちるようなことがあれば、体は間違いなく砕けてしまうだろう。


自殺の名所として、そこはとても有名であった。


そんな崖の上に1人、陰気なオーラに包まれた青年が佇んでいた。


その姿からはどことなく死を感じさせるものがあり、飛び込もうかどうかと迷っているように見えた。


「おい、きみ。

いったいどうしたんだ。

若者がそんな早まった事をしてはいけないよ」


そんな時、1人の初老の男が木の陰から飛び出してきた。


どうやら偶然彼を見つけ、居てもたってもいられなくなったのだろう。


初老の男はその青年をすぐに崖からひきはなし、離れた場所へ引きずっていった。


青年は抵抗するようもなく、ただぐったりした様子でされるがままにされていた。


やがてポツリポツリと話し始めた。


「実は職場の悪い女に騙され、財産を全て取られてしまったんです。

それに加えてありもしない噂を流され、

仕事はクビだ。

こうなったらもう死ぬしかないかと……」


「……そうだったのか。

だけど死んだら何もかもおしまいだろう。

生きてさえいれば再起のチャンスはいくらでもある。その女を見返す為にも君は死んではならん。

そうだろう……?」


「は、はい」


青年はそんな相手の初老の男性の言葉に、

おとなしく耳を傾け続けた。


こんな風に、自分のことを思って言葉をかけてくれた人に巡り会えたのはいつぶりだっただろうか。


青年は感動のあまり、思わず涙を流した。


そんな様子を見た相手の男は、優しく肩をさすってくれ、ポケットから出したハンカチを青年に向かって差し出した。


そしてそれからなにか考え込むかのように少し腕を組んでいたかと思うと、すぐに青年の方へ向き直り、こう言った。


「……どうだろう。

ひとつ、わしのところで働いてみないか。

実はこう見えて、会社を経営していてな。

君さえ良ければなんだが……」


青年は、思っても見なかった男の提案に耳を疑った。


「なんですって。

それは本当なのですか!?」


「ああ。

とても簡単な力仕事さ。

建築関係の仕事で、ちょうど求人募集をしていたところだったんだ。

君は見たところ力はありそうだし、

ぴったりだと思うのだがね…………」


「は、はい! 是非お願いします!

ああ、貴方はまるで神様のようなお人だ。

こんな僕を雇ってくれるだなんて……」


かくして、青年は社長に連れられ、従業員の1人として加わることとなった。


重い木材を運ぶなど、楽な仕事ではなかったが、

青年は一度死を覚悟した身。


毎日、仕事熱心に働いた。


全ては僕を救ってくれた恩人である社長に恩返しをするため。


毎日毎日、休みなく働き続けた。


やがて周りの従業員たちとも打ち解け始め、自分の身の上話を交わすようになる。


するとここで従業員に、ある共通点がひとつあることに青年は気づいた。


それは従業員皆、あの崖で社長に救われてここにやってきたというのだ。


「なに、君達もそうだったのか。

偶然というのは、本当にあるものだなぁ」


青年は


「社長はとても慈悲深いからな。

僕たちのような社会からドロップアウトした人間を拾ってくれているのだろう」


と、あまり深く考えなかった。


そんなある時、突然仕事場に政府の人間を名乗る男がやってきた。


材木を運んでいた私を見つけると、おもむろに話しかけてくる。


「すまない、社長を呼んではもらえないか。

話があるのだ」


「はぁ。

いったい社長に何の用ですか?」


「私は政府の人間だ。

君たちの職場データを拝見させてもらった。

ここの社長はとんでもない男だぞ。

従業員を365日休みなく働かせている。

しかも給料も少ないぞ。

決められている金額の半分以下。

これはいわゆる、というやつだ」


政府の人間の言葉に、青年頭に血がのぼったのを感じた。


「やってきていきなり。

あなたはなんて事を言うのですか。

私たち従業員は自殺を止めてくれた恩人である社長に恩返しをする為、好きで働いているんだ。

部外者のあなたに言われる筋合いはない……」


「しかしね、法律で決まっているんだよ。

君たちの勤務時間はもはや過労死ラインだ。

……とにかく社長を呼びなさい。

これは一種の洗脳だ。

ガツンと言ってやらなければ気が済まない。

場合によっては警察に引き渡してやる」


「なんだって。

貴様、社長を犯罪者呼ばわりするのか。

許せん。おい、みんな。

こいつを外へつまみだすぞ……」


いつのまにか、騒ぎを聞きつけて周りに集まっていた従業員達に青年はそう号令をかけた。


政府の人間は抵抗したが、こっちは多数。


たちまち追い出されていった。


こうしてこの建設会社は、あの崖を利用して繁栄を続けていく。


従業員は誰も不満を抱かず、社長も甘い汁を吸いまくれる。


これこそが誰も不幸にならない、ブラック企業の作り方というものではないだろうか…………。



























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