待ち人
白瀬直
第1話
ポケットに入れたままの携帯電話が震えたような気がした。取り出してみたが着信の履歴は無く、無骨な黒いカバーに覆われた携帯電話の液晶には時計と今日の日付だけが表示されていた。どれだけ待ち遠しく思っているのかと、自分のことながら笑ってしまう。ほんの少しの恥ずかしさを覚えながら画面を消して、ダウンジャケットのポケットにしまった。
口から出る息は白い。天気は良く、雪こそ降っていないが氷点に近い気温。灯油をプラスチックのタンクからストーブの給油缶に移しているその数分だけで、小指は言うことを聞かなくなってくる。手袋をして来ればよかったなと思いながら、ポンプに残った灯油をぴっぴっと缶の中に散らして蓋をした。暖房の効かない離れから母屋に戻る廊下を、この寒さを浴びる原因になった右手の握り拳を見つめたまま摺り足で小走る。今年はしばらくグーは出すまい。
行き場のない右手は寒さに押されるようにしてまたポケットに潜り、そこにある携帯電話を握りしめる。携帯に保存されている一通のメール。その文面で、元日の気温の中でも私の心の温度は一定以上に保たれていた。
『18時。天満宮大鳥居の右足。お小遣いは1000円まで』
初詣が、楽しみだ。
初詣は毎年家族と元旦の内に済ませているのだけれど、今年は参加しなかった。体調を崩す以外の理由でそれを欠いたことはなかったので親に何か言われるかと思ったけど特にそれに拘っている様子もなく、父からは「誰と行っても別に構わんが、お参りはしっかりしろ」くらいのことしか言われなかった。母からは「誰と行くの? 知ってる子?」なんて詮索もされたけれど、それには「友達。学校の」と短い言葉だけ投げておく。
夜行くからいい、という理由で午前の初詣をキャンセルしたところで、時間はあれど何かすることができるわけでもなく。親たちが出かけている間に朝食兼昼食も済ませてしまって、さて何をしようかと自室に戻って来たところで携帯電話が鳴った。控えめな音量で響く洋楽を聞きながら、画面に表示された名前を見て体温が上がる。聞かれて困る話なんかないと思うんだけど、念のため自室の扉を開けて回りを確認してから電話に出た。
聞こえてくるのは待ち合わせの相手、つばきの透き通るような声だ。
『ごめん。今日ちょっと家の手伝いが立て込んで、行けなくなった。この埋め合わせは必ずするから。ほんとごめん』
家族にも朝の初詣を断っていた手前、中止になったとはなんとなく言い難く。準備していたそのままに家を出たはいいが、元の目的地へ足を運ぶのは気が引けた。結果、家から五分の神社までとぼとぼ歩くことにした。
天満宮ほどではないのだろうけれど、神社には私の予想よりもはるかに多くの人がいた。駐車場には何台もタクシーが待機しているし、参道までの間には露店がいくつか並んでいて暖かそうなものを売っている店はそこそこ繁盛しているように見える。鳥居から延びる階段も、上り下りする人の波が途切れない。
ざわめきが低く聞こえる中、コッコッと踵を鳴らしながら石畳の上を歩く。右を見ても左を見ても、前を向いた人ばかりだった。ここにいる人は何かしらの目的があってここに来ているのだろう。新年を寿ぐ人の群れに自分がそぐわないような気がして、白い息を吐きつつ空を見上げる。参道に置かれた篝に照らされて尚、澄んだ冬の空には満天の星が輝いていた。雲一つない夜空は放射冷却という言葉を思い出させ、私の今の心理と相まって寒さを助長させる。首を撫でた冷たい風に耐えきれなくなって、口元までマフラーの中にしまった。
「何やってんだろ」
暖かさを求めて、人の波に潜っていく。
賽銭を準備する段階で小銭をぶちまけ、周囲の人に謝りながらかき集めたその直後に石畳に躓き、そそくさと立ち上がって列から離れた先で見つけたおみくじでとどめのように「凶」を引いた時には、私の顔には乾いた笑いが貼りついていた。「待ち人来る」には嘲りすら感じたし、「心焦らずもう一息の辛抱である」などと書かれていても何の慰みにもならない。初めから信用などしていないので特に気にはしないのだけど、持ち帰るのも気分は悪いのでその場で力強く柱に結んできた。
ふと見渡した先にあった社務所には明るい光が灯り、お守り等ご利益グッズの売り場となっている。元日この日が一番忙しそうだと思った私の感覚は間違いではないのだろうけど、今はごった返しているというほどではない。厄払いに何か買っていこうかと思った矢先で、何本もたっている幟の中からよりによって「良縁成就」が目に飛び込んできた。
口には出さず購入を決意したところで、寒さを意識した両手が羽織ったコートのポケットへ入っていく。左手にあったカイロの温かさに安心するとのほぼ同時、右手に違和感があった。
「あれ!?」
携帯電話が無くなっていたのだ。
行動を思い出しながら境内を歩き回った。参道を中心に歩いてきたし、露店での買い物も食べ物ばかり二、三件。そんなに行動範囲は広くはないはずだと思ったけれど、少なくはない人にぶつからない様に気を付けているとなかなか下ばかりを眺めているわけにもいかない。篝の置かれていない地面では目を凝らさないと碌に確認もできず、社務所から入り口まで往復するのに一時間くらいかかってしまった。
屈んだり立ったりを繰り返していたので、体の節々に違和感を覚え始めている。改めて腰を伸ばし見上げて息を吐くと、星がほんの少しにじんで見えた。寒さに体が追いついたのか反射的に鼻をすする。
「どう、しよっかなー」
とりあえず何か口に出さなければ今すぐにでも座り込んでしまいそうで無理やり言葉を作ったけれど、鼻声になっているのが自覚できた。なんとなく、このまま探しても見つからないだろうな、という感覚があるのだ。今となっては、携帯電話が見つかるかどうかは、結構、どうでもいい。よりによって今日、悪いことが積み重なっていることが、どうしようもなく悲しいのだ。初詣の約束をドタキャンされ、それでも後ろ向きながら出かければ、まず小銭をぶちまける。おみくじでは凶を引くし、携帯は無くす。この調子だと明日には風邪も引いていそうだ。
泣きっ面に蜂という言葉を思い出しながら、これ以上何か起きてしまう前に帰ろうと決意した私に、
「やっぱり、柊じゃん」
透き通った声が掛けられた。
社務所から現れたのは緋袴を履いた女性だった。後ろで一つに纏めた長い髪と、内に覗く白衣でかろうじて神社関係の人だと分かる。ただ、白衣の上から着こなしている黒いダウンジャケットや、フレームが特徴的なメガネが、巫女という言葉からかけ離れた印象を与える。巫女装束を身に纏いながら普段のイメージを半分残す彼女は、今日、私の約束を断ったつばきに間違いなかった。
「はいこれ。柊のでしょ」
驚いたままの私に、携帯電話が投げて寄越される。慌てながら受け取ったのは見慣れた黒く無骨なカバー。電源ボタンを触って表示された待ち受け画面も時計と日付のみが表示されているだけのシンプルなものだった。紛れもなく私の携帯電話だ。
「あ、な、なんで」
「人が多い時って氏子さんが巡回しててさ、落とし物は社務所に届けられるのよ。見覚えあるなーと思ってなんとなく番号入れたら待ち受けも私だったし。来てるのかなって」
そう言いながら、つばきはハンカチを渡してくる。思わず受け取って携帯電話を気にしたが、特に汚れているようには見えなかった。どこで落としたのかは判らないが画面が割れている様子もない。
「そうじゃなくて、顔。ひどいよ?」
言われて初めて鼻の下に暖かい液体を感じていることに気付いた。反射的に拭ってから、白いハンカチが汚れてしまうのを気にしたけれど、
「いいよ別に。そういうモンでしょハンカチ」
とのことだったので、そのまま拭わせてもらう。すっきりして一息吐くと、それはそれで聞きたいことがあることにも気づく。
「ま、待ち受け見たの?」
「柊さ。どんだけ私のこと好きなの」
苦笑いじみたつばきの顔は、にじんだ視界では、仄かに赤くなっているように見えた。
紙コップから甘酒の暖かさが指に伝播する。薄く立ち上る湯気越しにつばきを眺めながら、その格好に言及してみた。
「家の、手伝い?」
「まぁ、そうね。手伝い。うちの親が氏子総代やってて。バイトの子がインフルエンザで来れなくなったから、応援で呼ばれたの」
「知らなかった」
「言ってないしね。見られて、まぁ、やっぱ恥ずかしい方が強いし」
そう言って袴を摘まみつつ笑うつばきを見て、やっぱり私の体温は上がっていく。加えて、
「柊も、着物可愛いじゃん」
揶揄いの欠片もない声でそんなことを言うものだから、紙コップを握りしめていた掌はじっとりと汗をかく有様だった。
「昼は忙しかったんだけど今はだいぶ落ち着いてるし。私もそろそろ上がるからさ。中で待ってなよ」
社務所へ戻るつばきの背中に、掛ける言葉を探す。熱に参ってしまっているのか舌が上手く回らなかった。冷たいはずの空気を吸い込んでみても、首や頬回りの熱は一向に冷えていかない。まだ冷たさの残る手の甲を自分の首や頬に当てながら、これ以上温度を上げたくなくてマフラーを緩める。酸欠になる前にようやく一息吸い込むことができて、
「あの、あのさ」
「うん?」
「あけまして、おめでとう」
そんな言葉をひねり出すので、精いっぱいだった。
「はい、おめでと。今年もよろしくね」
ほんの一歩先に暖かさを感じながら、「待ち人来る」だけは信じようかなという気分になった。
待ち人 白瀬直 @etna0624
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