猟犬ベッカムの旅
@miyabi2018
猟犬ベッカムの旅
猟に行った夫が何時もの帰宅時間を過ぎても帰って来ない
食卓テーブルの真ん中のガスコンロには、すでに(おでん)鍋がいい食べ加減になっている。十二月に入った最近は特に寒い日が続いている。土曜日の夜はおでん鍋に限る。
鍋の具は大根や昆布やしいたけ、鶏肉をいれての田舎つくりの(おでん)である。大根は弱火で長く煮れば煮るほど味がしみ込んで大根の美味しさが何とも言えない。主婦の立場からみれば、二日目のいずれかの食卓の食べ草にもなるし、一品は間に合わせられ得をすると云う安楽的な考えと安心さが備わってくるというもの。だから気に入って良くおでんなるものを重宝している。
冬の日の落ちるのは早く五時にもなると、少し暗くなる。時計を見ると六時になろうとしている。すっかり暗くなっている。
どうしたのだろう……だんだん心配になってくる。山で事故でもあって連絡することも出来ないのだろうか、それとも交通事故にでも遭ったのかしら……と心配は募って行く。 わたしは一時おでん鍋の卓上ガスコンロを切った。 その時、夫の軽トラックがせわしいような音を立てて帰って来た。
「あっ、帰って来た」と、一安心すると、
夫が縁側のガラス戸をガラッと開けるやいなやわたしに向かって神妙な顔をして言う
「ベッカムがトラックから振り落とされたみたいだ!」
「えっ、どうして!トライはどうしたの?」
「トライはいるんだが、ベッカムの方の犬舎がしっかり閉まってなかったみたいで開いたままだったみたいだ」
「あら~」といったまま、開いた口がふさがらないとはこんなことか、何と言っていいか分からないくらいに愕然とした。
わたしは「何で、どうして」と夫を責めたいところだが、グッと我慢して冷静に向き合うことにした。だまって卓上のガスコンロに再び火をつけ直した。
夫も自分を責めているのか、だまって風呂に入った。いつもより、早めに風呂から出てきたように思えた夫は食卓につくと、いつものようにビールをコップ一杯飲みほした。そして、おでんを食べながら言った。
「俺の不注意だったな!」と口惜しそうに言った。
「どの辺りなの」
「うん、分からない。気が付いたのは随分走って平和台の交差点で赤信号待ちで止まったらえらく犬が騒ぐんだよ。変だなと思い、降りて後ろを見たらベッカムの犬舎の扉が開いてベッカムも居なし、振り落とされたと思ったネ」
「そう……で?」
「もちろん、近くでUタウンして来た道を帰ったけど、暗かったし、車も多くて途中であきらめざるを得なかったよ」
「何か、寄り道をしたり思い当たる事はないの?」
「分からない、あ、途中喉が渇いたからいつもの高岡のコンビニによって中でコーヒー飲んだ!今考えれば……あの時、後ろの犬舎を見ていれば良かった」
「じゃあ、コンビニより向こうネ」
「いや、それは分からない、ただ、コンビニに寄ったということだけで、その前かも知れないし、その後かも知れない。分からない、全く俺の不注意だった!」
「わたし、明日はその道を通ってみるわ」
その高岡地区のコンビニは国道一〇号線沿いにあり、宮崎市外の我が家はそのコンビニから国道一〇号線沿いに県道市道をまたいで三〇キロ余りにある。猟をしたところはそれよりまだ一〇キロ先らしい。
「そうだネ、俺は明日サッカー部の生徒を学校に呼んでいるから行けないし、おかあさん(夫婦間の通称呼名)行ってみてくれるか?」
「はい、分かった!行かないわけにはいかないわ……ベッカムは利口だからどこかの小屋ででも休んでいてくれるかも知れない」
「そうだといいけど、今は猟期だし、りっぱな猟犬は誰でもほしいし、連れて行かれる心配もあるんだよ」
「そうね、ベッカムは一目見てりっぱな犬だと分かると思うわ」
「うん、誰か可愛がってくれる人に拾われるとまだいいのだけどな」
その夜のおでんは心なしか大根の味が分からないくらいで夫もわたしも食が進まない。
*
我が家の猟犬は何代も変わっていく。犬の寿命はそんなに長くないからだ。
常時二匹の猟犬が居る。今、我が家にいるのは、四歳のベッカムと六歳のトライである。
問題の猟犬は、白黒の英ポインター犬の雄、「ベッカム」と名付けられた。
もう一匹は白茶の毛の長い英セッター犬雄で「トライ」と名付けられている。
夫は地方の大学時代はサッカーの選手であり、後に中学校の体育の教員になっても部活動はサッカーであった。
かたわら自分の趣味として山の猟をする為猟犬を飼っていた。田舎の学校であっても、学校の教員が猟を趣味とするのは珍しいし、それが出来る良い時代だったようだ。
その頃、サッカー選手のスターは何と言ってもイギリスの「ベッカム」であり、その名を世界中にとどろかせていた。
夫は面白さもあってか、かっこ良くて世界のサッカー選手ナンバーワンのベッカムからもらい自分の猟犬の呼名に「ベッカム」としたのだ。まさしく血統つきのサラブレッドである。実猟も良い。
ある時、そのベッカムが猟の帰りに居なくなったのだ。夫は軽トラックから振り落とされたのだろうと言い、今考えれば自分の不注意でトラックに乗せてある犬舎のフタを閉め忘れたとも言っている。わたしは「フタが開いていれば犬舎から出て景色でも見たかったのでしょう」と言った。
自分の家の犬は誰でも可愛いが、ベッカムのあのくるくるした目は人の動きを引き付ける力が充分にあった。あれほど物わかりの良いベッカムがなぜ出て行ったのか分からない。
わたしは、あくる日から、現地まで前後して四十キロある道を走ることになる。
このわたしが、ベッカムを探す為に、強力な原動力になったということには、時々夫に付いて猟場に行っていたことである。夫が猟をした場所を言われれば大体分かったのだ。
捜しに行くのは勿論軽トラックでなければならない。犬は軽トラックの音にも匂いにも反応するからである。
道路の側面を注意しながら、右左を見て走るのは至難の業である。国道10号線は九州の大分、宮崎、鹿児島を回るようにして通っているため、交通量の多い道だ。後ろの車を引っ張る形になるといけないが、またスピードを上げ過ぎると辺りの景色が見えない。速度制限ぎりぎりで走ることにした。
前方をしっかり見すえながらすばやく脇見をする事になる。しかし、犬らしきものは皆無であった。わたし焦った。時間が経ってしまうとベッカムは主道路から入り込んでし
まう。早く見つけてやらないと……。
一日目は往復道路沿いに目を配って走ったが見当たらなかった。
帰ってからも夫と話すことはベッカムの捜査のことばかりである。
「おとうさん、ベッカムはどの辺りにいると思う?猟の時一番長くいた所は何処なの」
「そうだネ、弁当食ったのが、紙屋地区の道路左側に看板と石碑横の道を上に少し上がると一〇軒ばかりの集落がある、その入り口に大きい柿の木がある辺り、その下で弁当を食べたネ」
「じゃあ、明日はその辺りに行って聞いてみるわ」
「ご苦労だがベッカムの為に頑張ってくれ」
「分かっていますよ、それにしても、今頃ベッカムどうしているかなあ~」
「本当に可愛そうな事をしたよ」
普通は気の強い夫がめずらしくしんみりして言った。わたしは、また次の日も行った。
昨夜夫に聞いた集落に行った。随分広い畑の手前に柿の木が目立っていた。そうだ、この辺りの家に聞いてみようと思い車を止めた。
この辺りはサツマイモや稲農家が多いようで、敷地も家屋も広く大きい。声も大きく出さなければならないようだ。見知らぬ家に入って行くのはそれなりに気を遣い勇気もいる。ちょうどお昼時になったので最初の家に声を掛けてみた。
「こんにちわ~!すみませ~ん」
大きい声を掛けてみた。ちょっと、間があって「はーい……」と云う女性の声がした。それから一時して、人のよさそうな体格の良いご主人らしい男性が出て来た。やはり農仕事の人は体格が良いのかな?と思いながらもわたくしは安心した。
「すみません、一昨日から猟犬が迷子になったのですが、見かけませんでしたか?」
「いやー見ませんがなあ、どんな犬なあ」
と、その人は心配そうに一応聞いてくる。白黒のポインターという猟犬だと答えると、男の人はだいたい知っている。
奥さんらしい人も何事かと思って出て来て丁寧に頭を下げて挨拶された。
「ここは、猟をする人たちが良く上がって来ますよ、2,3日前の人かな?」
「そうです。うちの主人だと思います。
犬は最初の所に戻って来るのではと思ったので来てみました」
「そうだネ、もう一時したら戻ってくるかもしれないよ!この辺りはみんな知っているから、電話番号を書いときな」男の人が言った。何と親切な人たちだろう。慰められたような、安堵感があった。
わたしは、せめて一週間はベッカムのために、この道路沿いを捜そうと思い、あの手この手で聞きまわった。一週間、四〇キロの道を往復してさがし回った。
しかし、このとてつもない広い範囲で一匹の犬を捜すのには限度があった。
日が経つにつれ心ではベッカムを思いながらも、あきらめの境地に立った。
猟が出来るのは十一月十五日から二月十五日のわずか三カ月間である。その猟期も終わりになる。真っ先に市の保健所に迷い犬届を出している。居なくなった日や時間、場所、犬の特徴などを書いてお願いしたのだが何日経っても保健所からは連絡が無いまま日は過ぎた。
ベッカムのことを思うのもだんだんと遠くなっていった。もうすでに雨季に入ってしまい、雨の降る日が続くこともある。
* * *
その頃、ベッカムは、さ迷っていた!
『ベッカムの行動と気持ち』を表わす
あの時からのことである。
ベッカムとトライを乗せた、『オトウサン』の軽トラックがコンビニに止まる。
犬たちにとってのご主人の『オトウサン』は、コンビニの中に入って缶コーヒーを買い何時もの動作であるが店の中で飲む。
その時、トライの犬舎は閉まっているが、ベッカムの方の犬舎の扉は開いていた。留め金がゆるかったのか、閉め忘れたのかだろう。
軽トラックの止まった前は空き地になっている。ちょっと体を動かすには格好の場所がそこにある。それを見ると自然現象である。ベッカムは尿意を感じた。
『チョット降りてみよう』ベッカムはトラックから飛び降りた。犬はトラックの中では絶対に尿意を表さないものの、一旦外に出ると出したくなる。犬の習性である。
『ああ、キモチヨカッタ!』ベッカムが用を済ませてトラックに帰ろうとすると、ベッカムが乗るはずのトラックは走り去る所だった。
『チョットマッテ!』ベッカムはウウウとしか声は出せないし届かない。
ベッカムはオトウサンの軽トラックを見送る事になってしまったのだ! いつまでも、いつまでもトラックの走り去った後を見ていたベッカムがそこにいた。
ベッカムはしばらく立ち止まったままだ。
『アアアア、どうしよう……』ウーウウ、ベッカムは悲しく声に出ないもどかしさでいっぱいである。
『オトウサン、どんなにしたらいい?ここで待っているよ!……』ウ、ウウと、ベッカムは入り口近くの横のじゃまにならないスペース、大き目のゴミ箱が置いてある、その並びに壁を背にして横座りになってオトウサンを待った。一月の寒い風が吹き付けるが、その寒さも感じないほどオトウサンを待った。
コンビニに来た若い男女が前に立った。若い女の子が言った。
「犬ちゃん、どうしたの?疲れているの?」
すると、若い男が言った。
「首輪は付けているけど、鎖が無いネどうしたのだろう」
「飼い主は中にいるのかも知れないわ……
でも、おとなしくて利口そうな犬みたい」
若い女がしゃがんで撫でてくれた。
ベッカムはこの人間の手が懐かしくて
自然に『アリガトウ』と出ない声で云うように頭を下げた。
しばらく頭を撫でてくれていたが「犬ちゃんさよなら」と云って二人の若い男女は立ち去った。
陽が落ちて辺りは暗くなってきた。
次は中年の男が大型のバイクに乗って来てベッカムの座っている側に停めた。中年の男は座っているベッカムをチラと見てコンビニに入って行った。コンビニからパンと飲み物を持ってきてバイクにまたがって食べ始めた。
ベッカムは、山で休憩のときオトウサンからいつも貰うパンだと思い見上げていた。
すると中年男は見つめられているのを感じてベッカムを見た。
「どうしたのか?ほしいのか?」
と、言った中年男は食べているパンを残してベッカムの口に投げてやった。ベッカムはいつもするように、ナイスキャッチで口の中にキャッチして食べた。
「ほほう!上手いね!旨かった?」とだじゃれをいって中年男はアハハと笑った。
ベッカムは本当に旨いと思い有難かった。
また『オトウサンは帰って来ない、来てくれない。どうしたらよいのだろう……』ウウウ、 ベッカムは寂しさと不安な気持ちで疲れも出てその場にうずくまるようにして眠ってしまった。コンビニの人の出入りがベッカムを落ち着かせた。良く眠ったようだ。朝になりまた陽が差してきた。
ベッカムは家に帰りたかった。歩き出した。
車の往来の多い道だがそれを避けるように側面を歩いた。ベッカムは東北に進んだ。
『ここは時々オトウサンの車で通る道』だということが少し分かったからだ。
お腹が空いた。昨日中年男からパンを貰ったきり食べていない。車通りから下を見ると川が流れていた。土手に沿って下の川に降りた。河川敷である。枯草が心地よい。
ベッカムは思った!
この場所はオトウサンが軽トラックに乗せて訓練に連れて来てくれる川に似ている。いや、まさしくその川である。ベッカムには記憶がある。オトウサンは、良く木切れを川に投げて取って来るように手で合図した。ベッカムはその木切れを泳いで川から取って来てオトウサンに渡すとオトウサンは「ヨシヨシ」と云って頭を撫でてくれた。
今、その事がベッカムの体中に甦った。
ベッカムはその川の流れの水を飲んだ。飲み終わると上の車通りを見上げながら空しく
『オトウサン』ウウウと出ない声で言った。
そして、その辺りの土手の枯草の上で休んだ。目が覚めると暗くなっていた。また、車通りに戻って歩き出した。とにかく歩き歩いた。何事もないように車の往来は変わらない。
『疲れた。横になりたい。お腹もペコペコ』
と、ベッカムは思った。間口の広い家があった。家の中から人の声が聞こえる。灯りも付いている。入って行くとその家の犬が吠えた。
二、三回吠えた。同類がいるのだ!ベッカムは頼るように近づいた。『コンバンワ』ウウウと、言ったのか言わなかったのか、静かに近づいて鼻と鼻で挨拶出来た。相手は雌犬だったから、向こうも受け入れたようだ。
しばらくしてベッカムは疲れていたので倒れるようにして寝入っていた。その家の犬は不思議がっていたが受け入れてもいたようだ。二匹仲良く寝ている格好である。朝になってもベッカムは寝ていた。相当疲れている。するとおばさんの大きな声が聞こえた。
「ちょっと、あんた、来てみてよ、知らない犬が来ちょるよ!ポチと一緒にいるよ」
家から旦那さんと思われるおじさんが出て来た。
「ほう……猟犬で迷子になったのだろう。おとなしいし、目が良いね!これは良い犬だよ」と云いながら首輪を見て頭をポンポンと撫でるようにした。
「ねえ、あんた、どうしようネ、警察に届ける?」
「一時、そのままで良いよ、きっと近くの人が尋ねて捜しに来るよ。折角我が家に来た
のだから、飯でもやっとけば……」
その時家からその家の息子らしい高校生くらいの男の子が学校に行くため出て来た。
「へえ、迷い犬?可愛いじゃん!ポチより絶対に品が良いよ!そのまま飼ったら?……行ってきまーす」と、高校生らしい男の子はそう言って自転車に乗って出て行った。
おばさんが苦笑して中からポチとベッカムの分の食事を持って来た。
ベッカムは有難くペロッと食べた。おじさんもおばさんも優しく見ていた。
「随分お腹がすいていたんだわ、可愛そうにね~」
「うん、持ち主は随分捜しているだろうなあ~猟師は犬が命くらいにおもっているからな、近くの猟師に相談してみよう……それまでポチと一緒に養ってやれば?」
「はいはい、あんたも、犬好きだからね~」
夫婦でベッカムを気に入ったらしい。
ベッカムとポチは仲良かった。ポチの方が随分喜んでいたようである。しかし、ベッカムは心の中で『オトウサンオカアサン』を忘れたわけではない。信念のあるベッカムであるのだ。
知らない親切な家に来て、もう二カ月の居候生活である。すっかり世話になってポチとも仲良くなったが、最近のベッカムは何かが物足りないと思っている。
ベッカムはある時決めた。
『良くして貰ったけど、やっぱりオトウサンの家に帰ろう……』いつも思っていた。
その家の高校生がポチとベッカムを散歩に
連れて行ってくれた。
二匹は田んぼでは引き綱をはずされ、畦道を走り回った。高校生は土手に座り込んで携帯スマホに一生懸命だった。
ベッカムは我が家はここから東北の方であろうと見当をつけていたのでそちらに向けて走ってみた。ポチもついて来たがすぐ引き返したようである。
ベッカムだけはそのまま、車の多い国道沿いを歩いていた。何時間も歩いた。途中雨が降り出し、びっしょりぬれたが、まだまだと歩いた。もう雨季に入ったのだ。
『早くオトウサンオカアサンに会いたい』
一心で必死で歩いた。
途中、またコンビニがあった。懐かしい。雨避けの積りで休んだ。ベッカムが最初に置いて行かれたのがコンビニだったから人の動きがあり安心して休むことが出来るのを学習していた。コンビニは人が声を掛けてくれるのが嬉しいのだ。一晩をコンビニの倉庫の少しの軒下で休んだ。
コンビニの店員が掃除をする為、外に出て来た。ベッカムがその店員の側に行くと
「おお、お前どこの犬だ?離れているのか?迷子になったのか?可愛そうに……」
ここのコンビニは掃除の途中に掃除した後、どうにもならない残飯が少しだけど残る。
「内緒だけどな、余って捨てる分をお前にあげるよ、ほら、食え」
と、言って気のいい店員は充分過ぎる量のご飯ものを内緒で食べさせてくれた。有難かった。
店員はベッカムの食べるのを少し見ていたが時間を気にして中に入って行った。
ベッカムは思った!
『さあ、これで元気が出た、早くオトウサンオカアサンの所に帰ろう』
ベッカムは奮い立つように行動に出た。また、車通りの端っこを歩いた。今度は街の中の通りに出た。ちょっと難しいと感じた。
とにかく大きい通りを歩けば良い……。
街の中には必ずコンビニがある。またそこのコンビニに立ち寄った。ベッカムは考えた。
『オトウサンオカアサンの家は陽の出る方である。潮の音と匂いがするのだ、潮の匂いを嗅ごう』
夜はそのたどり着いたコンビニで過ごすことにした。それもなるだけ人の目につかないように後ろの倉庫の軒下に身を寄せた。一日ぐらいだと人も気にしない。離れている犬でも追い払われることは無い。
コンビニに働く若者はみんな親切で優しいのも分かった。ほとんど声を掛けてくれるし、たまに捨てる分を内緒でくれるのがありがたい。
夜静かになると潮の音がかすかに聞こえるように感じ始めた。ベッカムは習性で分かった。
『オトウサンオカアサンの所はそんなに遠くない!』
だんだん近くなって来ると肌でも分かるようになった。この街中の騒音を通り過ぎるのだ。そして、少し静かな方向に家があるはずだ。朝になり太陽が出る方向に歩くといいことも分かった。
それでも街中は水が飲めないのが困る。しかしコンビニには入り口付近に必ず水道がある。店員さんが朝早く入れ替わる前の掃除の時がヤンスだ。店員さんが水を使う時に蛇口をひねる時に飲ませて貰うのでなく、そこに
行ってベッカム自身が蛇口に口を持って行くのだ。店員さんは言う。
「お前、水がほしいの?自分で飲める?
ほら、飲みなさい……」と、水を出したまま待っていてくれる。有難い。
ベッカムがこうして歩くようになってはや六ヶ月が過ぎようとしている。食べることも満足ではない。全然食べ物に恵まれない日も続いた。足もすりへって時々痛くなるので、仕方なく座り込むことも出て来た。ベッカムは毛の色も艶が無くなって痩せて来た。
それでも一時休むとまた歩き出す。そんなベッカムが頭に描くのは、ただ『オトウサンオカアサンのいる家に』とひたすらに思うのである。不思議な事にベッカムは誰にも邪魔扱いにされるようなことがなかった。
夜になると、コンビニの無い時は、人家の家の恰好な軒下で休むことがある。
すると、潮の音が近くに聞こえてきた。
ベッカムが良く聞いている音である。
『そうだ、オトウサンオカアサンのいる空気がする』
ベッカムにがぜん元気が出た。夜でも歩けるのでまた歩き出した。
『ウン!?この田んぼの溝はいつもオトウサンに連れられて通る道だ!ソウダソウダこの道だ、モウスグダ!』
ベッカムは嬉しくなって思わず走り出した。しかし、足の裏が痛い、それでも走りたくてたまらないベッカムであった。
『ソウダ!ここはオトウサンオカアサンの匂いがするゾ?!やあ、家が見える、ここだ!車がある!これだよ!』
*
家の門はあの時から、いつでもベッカムが帰って来て良いように開いて置くようにしてある。
門を入った右側に車庫があり、一台は普通乗用車のクラウン、もう一台が猟で使う軽トラックである。奥にある小屋から同志であるもう一匹のトライのクンクンワンワンという声が聞こえる。
『アア、帰る事が出来た!トライもいる』
ベッカムはヘナヘナと倒れるように軽トラックの前に倒れ込んだ。車庫から家を中にしていつもの犬小屋は十五メートル程ある。そこに同志のトライがいるが、ベッカムはそこまで歩くことができない状態であった。
何とも云えない安心感があったのだろう。ベッカムは倒れ込んだままにまるくうずくまって寝た。足の裏はすっかり擦り切れて血がにじんでいた。それでもぐっすり寝た。
一方、トライはベッカムが帰って来たことを匂いで悟ったのかクンクンワンワンと鳴きどおしだった。
わたしは、昨夜トライの声がうるさくてあまり眠れなかったし、いつもより早く起きて新聞取に外に出た。
わたしの目には忘れもしないベッカムの姿が鮮明に入ったのだ。アッと驚き声を挙げた!
ベッカムが横たわっているではないか!
頭を上げて『オカアサン』ウウウ
わたしは走って家の中に飛び込んで夫に
「おとうさん、おとうさん、ベッカムが帰っているよ」と、大きな声で叫んだ。夫も走って出て来た。わたしはすぐに
「ベッカム!帰って来たのネ、ベッカム」
と、ベッカムに有らんばかりの力で抱きしめほほずりした。
夫も「ベッカム、良く帰って来たな!凄いぞ、ベッカム、本当に大変だったネ」と云って頭や体を点検するようにさわっていた。
「足の裏がすり減っているよ。随分歩いたのだろうな……可愛そうに」と云ってすぐに赤チンキを持ってきて付けてやっていた。
ベッカムはされるままになっていた。そして、夫はあの重いベッカムを抱いて車庫からトライもいるベッカムの犬小屋に連れて行った。トライはすぐベッカムの所に来てクンクンと歓迎しベッカムの頭から顔をなめていた。勿論ベッカムも満足そうにかえしていた。
「はいはい、ベッカムの好物の牛乳とパンを少し上げるわ」
夫はいつまでもベッカムの側で話しかけていた。
「おまえ、どこをどうして帰って来たのか?教えてくれないか?六カ月たっているのだよ」と、小さい声で話しかけていた。
「本当にネ、ベッカムどうしてたの?」と夫とわたしが交互に云うので、丸い目を向けて
何か言いたそうにしていた。
その日は餌を少しずつ何回かに分けてやりながら、ほとんど一日中ベッカムの側にいたような気がする。
* * *
六カ月前のあの日、ベッカムが居なくなった日は「おでん」を作って待っていたのだ。
わたしは今日ベッカムが帰った日に「おでん」を作った。そのおでんには何時もより多く鳥肉を入れて作った。後でベッカムとトライの二匹の犬に食べさせる為に大目に作った。 二日くらいおでんが食べられるだろう。その日の食卓での夫とわたしの話はベッカムの事に尽きた。
「おでん」はあの日と変わらず食べ頃になり、夫はいつものようにビールをコップ一杯と焼酎のお湯割りを七・三にして飲んでいる。
その様子は安心した何とも言えない飲み方に見えた。そして、夫は言った。
「どうしていたんだろうなあ、今まで……」
夫はもう何回目かその言葉を発した。
「ほんとうに、ベッカムどんな思いで歩いていたのだろうかしら?」
「六カ月と云うのは長いよなあ……どこかで繋がれていたのかも知れない……」
「そうネ、そうかも知れないわネ、でも帰って来たということが不思議でたまらないわ」
わたしはベッカムが歩いている様子を思い、つい涙が出そうになった。
「繋いだ人が猟師だったら山で離すから、
その時だネ、ベッカムは利口な犬だから、その時に離れて来たのだろう……でも、もし、それが猟師だとしたら悪気はないのだと思う、かえって可愛がっただろうし……」
夫の推測は自分が猟師の立場になれば、当たり前のことだと考えているようだった。
その夜は、残った「おでん」は半分以上をベッカムとトライが美味しそうに食べた。わたしは、その場にしゃがみこんで食べる様子を見るのも嬉しい気持ちになった。
ベッカムは時々食べるのを止めて『オカアサン』というようにわたしを見上げた。そして、また食べ始めた。
「ベッカム、美味しいか?」
わたしは声を掛けた。
夫も側に来た。
「まったくなあ……」と呟いた。
夫の呟きはベッカムが帰って来てくれて、その犬の習性に驚きと感嘆が混じっていたようだった。 完
猟犬ベッカムの旅 @miyabi2018
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