ショートショート Vol12 皆既月食
森出雲
皆既月食
夜露に濡れた草の上を、ボクは必死に走る。
丘の上の一本杉の下まで。
六年前の一月。
初めて逢ったあの日。
君は、一人でソラを見上げていたね。
ボクは、何も知らなくて、人で賑わう歩道の真中。
ソラを見上げる君の横顔を見つめていた。
唐突に君は振り向き、見ず知らずのボクに言った。
「六年後の八月に、もし今夜の事を忘れていなかったら、あの丘の杉の木の下で逢いましょ」
月の光に輝く君の髪は銀色で、木枯らし吹く冬の夜なのに、とても輝いて見えた。
「うん」
君は、ボクの返事ににっこり笑って、そして消えた。
六年間、ボクは忘れなかったよ。
誰にも、話しちゃいけないような気がして、誰にも言わなかった。毎日、毎日、君の銀色に輝く髪と笑顔を忘れずに今夜を待っていたのに、なのに、なのに……。
丘を登りきると、一本杉が見える。
ボクは走る速度を落とし、歩きはじめる。
街の遥か向こう、欠け始めた月が見える。
その月を、草の上に座って見ている君。
六年ぶりの銀色に輝く髪。
ボクは、君の隣に座る。
月は徐々にその光を変え、いつしか全体を赤く染める。
「六年ぶりね」
「うん」
皆既食の赤い月に照らされた君の髪は、微かな赤銅色に光る。
「折角、教えてあげたのに」
「うん……」
この日、ボクは朝まで忘れなかったんだ。
受験勉強に行った図書館の帰り、偶然会った悪友に誘われてカラオケに行った。日も暮れかけた、夕方、誰かがメモリーした『ヨゾラノムコウ』。その時、ボクは君を思い出した。
人ごみの中をボクは自転車のペダルを必死に踏み込む。
青信号の歩行者信号。
一瞬途切れる人波。
その一瞬をボクは自転車ですり抜けようとした。
目の前が突然明るくなって、すぐ横に大型の乗用車が迫る。目を見開いて、驚く女性の運転者。足から腰にかけて、激しい衝撃を感じながら、ボクの視界はソラを舞う。
「一時間と三十分」
「え? なにが?」
「あなたが、この世界にいられる残り時間」
「うん」
「何をしても、どこへ行ってもいいのよ?」
「……」
ボクは、どこへも行かず、ただ君の輝く髪と赤く染まった月を見ていた。
「時間よ」
「うん」
君は、ボクに手を差し伸べて、あの時の笑顔でにっこりと笑ってくれた。
たった、十八年。
誰もがきっと『短い人生』 と言うかも知れない。でも、ボクにとって、とても幸せで楽しい人生だった。それに、最後にこの世で見たのが赤い月と君の笑顔。
身体が軽くなって、浮き上がる。
ボクは当たり前のように、足元に広がる街を見ている。
優しい光に包まれながら、ボクはソラを飛ぶ。
手をつないだ君の髪は、いつしか銀色に光輝いていた。
ショートショート Vol12 皆既月食 森出雲 @yuzuki_kurage
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