第6話

「え……」

 佐藤圭一は目を疑った。

 仕事を終えて、帰宅したところだった。アパートへ着き、さて、階段を登ろうとロビーを通りかかった。

 ロビーの掲示板に目が吸い寄せられた。普段はそこでめったに足を止めたりしない。けれど今日は、赤字で書かれたその単語から目が離せなかった。

「『猫の飼育について』……?」

 その文字を読むだけで胸がドキドキした。その下に続く文言が怖くてなかなか読み進められない。背中を嫌な汗が流れ落ちる。肩にかけた仕事用のバッグが妙に重く感じた。

「『本日、猫を拾い、飼育している方がこのコーポにいるのではという話が寄せられました……ご存知のとおり、当コーポでは動物の飼育を禁止しており……』」

 部屋でお腹を空かせて泣いているであろう、黒い子猫のことがすぐに浮かんだ。

 今朝、自分の手の中で丁寧に洗い、毛が乾いた子猫はほわほわの毛玉のような手触りになった。片目はまだ開いてはいないものの、痛みなどはないようで、よちよちと歩く姿が可愛かった子猫。由衣子と自分をつないでくれた子猫。

 一日中ほっこりと暖かだった心が、一瞬で覚めていくのがわかった。

「『飼育が分かり次第、退去のお願いもやむを得ず……』……え、ちょ、待ってよ」

 ドキリとした。

 子猫は可愛いが、追い出されては適わない。けれど、また捨てるなんて……。

 圭一はスマホを取り出した。これは、由衣子へすぐに伝えなければならない。


「え?」

 中野由衣子は眉をしかめた。

 仕事を終えて、最寄り駅まで帰ってきたところだった。

 朝、猫を預けた佐藤という若者からのラインだった。

 早くもばれてしまったのか、管理人が掲示板に猫についての注意喚起のチラシを張り出したようだった。由衣子の手には、わざわざ遠回りして寄った、ペットショップで購入した猫用のミルクがあった。これを、今朝何もできなかった代わりにせめて佐藤に渡そうと思っていたのに……。

「どうしよう」

 なにか対策を考えなくてはならない。由衣子は佐藤に返信をうち、続けて美紗希宛にラインを打ち始めた。


 3人は、由衣子の家に集まった。

 リビングに通された二人は、圭一は猫を入れた段ボールを、美紗希はコンビニの袋を抱えていた。時刻は19時を過ぎていた。周囲の部屋からは暖かな光が漏れているのに、3人はため息をついてややうつむきがちに黙り込んでいるだけだった。

「あの……」

 と控えめに美紗希は手を上げた。美紗希は連絡を受けて、家族には「ノートを買ってくる!」と家を出ていた。時間はなかった。

「この3人で、こっそり……外で飼うことはできないですか?飼育係みたいに、当番を決めて……」

 外で飼うのは可哀想だとは思った。けれど、それなら自分も多分協力できる。

 新しい段ボールの隙間から見せてもらった黒猫は、キレイに洗われていてホッとした。まだ、まん丸の何を考えているのか分からない目は怖いけれど、これなら世話をみれるかもしれない。……汚い姿では触れもしなかった狡い自分を思って、精一杯の申し出だった。

「いや、それはちょっと……」

 圭一はそわそわしていた。由衣子の部屋に呼ばれた!と舞い上がったのは一瞬で、段ボールを持ち、自分の部屋を出たときには心臓が飛び出そうだった。誰に見られているかもしれない。猫は手の中の箱でゴソゴソと動き回っている。

「気持ちはわかるけど、無理じゃない?……、かな」

 気軽に否定をすると、美紗希に泣きそうな表情を向けられて、圭一は慌てて付け加えた。

「いや、猫の世話はしたいよ。俺も。……できれば飼いたい。けど、もし世話をしているのが見つかってここを追い出されたら、行くところないよ、俺」

 足を組んで、言い訳のように下を向く。汚れた自分のズボンの裾が目についた。何だか圭一は自分がひどく恥ずかしい人間のように思えた。

 勢いで猫を預かり、由衣子の前で良い格好をして、そしてその夜にはこうして薄汚い格好のまま、小学生に泣きそうな顔をさせている。大人ってこうで良いのだろうか。

「そう、よね……私も、実はどうにか飼えないかなって思って……。明日にはチラシとか、動物病院とか考えてたんだけど」

 由衣子は小さな声で告げた。子猫のことを前向きに検討している自分がいて、恥ずかしかった。朝には厄介ごとを抱えたと思っていたのに、夜には猫を自分の手でどうにか世話したくて堪らなくなっていた。朝は、圭一へ押し付けたというのに……。ちらりと圭一を見ると弱々しいへらっとした笑いが返ってくる。彼のほうが最初に動いた分、自分より大人かもしれないと思った。 

「じゃ、どうしたら……」

 美紗希は目に涙をためた。身勝手な涙だと自分でも分かっていたから、必死でこらえていた。大人の二人は子猫のためにきちんと考えている。自分は逃げてばかりで、実は猫に触れもしないことも言い出せていない。考えれば考えるほど、子猫が可哀想に思えてきた。どうにかしたいのにできない大人と、どうにもできないのに心配だけは一人前の自分。

 3人はため息をついた。

 美紗希が家に帰らなければいけない時間が近づいていた。

 子猫は、一旦もとの場所に帰すことに決まった。

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