第八夜 正義

 月明かりの美しい、静かな夜だった。


 まるで、何もかもが消え失せたかと錯覚を起こすような。ただそこに、その人は一人で立っていた。


 昼間つけていた、顔をぼやっと覆ってしまう兜巾をしゅるりと外せば中性的な顔が露われる。白い肌に、月夜を映した紫暗の瞳が印象的だ。

 肩よりやや長めの黒髪が、鬱陶しそうにかきあげられた。その流れで腰へと手を滑らせて、ハッとしたように動きが止まる。

 その人の腰には、何もなかった。それもそのはず、その人は唯一祖国から持ってきた馴染みの剣は、その手で献上したのだから。


 空を切った手は、重力に負ける。ただでさえ色のない顔が青褪める。その人は、完全に祖国を捨てたに違いなかった。

 けれど、それを後悔したわけでは勿論ない。祖国に未練など、疾に無いのだから。その人の焦燥は、この不自然な静けさの中にある、微かな気配。


 ——  囲まれている。


 少しずつ、じわじわと距離を詰めてきているようだ。隠し切れていない敵意を、殺意を、ひしひしと漂わせながら。無理もない、ここは国の宝が眠る場所。

 その人がそのことに気づいているとなれば、相手も気づいていないわけがない。最初からる気でいる者達に、言葉など通じない。戦うしか道は無い。その人はまだ倒れるわけにはいかないのだ。


 一か八か。

 その人は、持ちうる限りの力で床を蹴って部屋を飛び出す。この部屋は、部外者の足の先一ミリでも入り込むなど許されない。血の穢れを持ち込むなどもっての外。武器がないなら、奪い取れば良いだけだ。襲いにくるのに手ぶらでくるなど、間抜けも良いところなのだから。


 刹那、耳を劈く金属音が轟いた。と、同時に空から降ってきた刃物をその人が掴み取る。目の前には、紺色の袈裟姿。

 それはそうだ、ここは王宮で。他国から来たその人が一人きりになれるはずもない。この場合は、護衛。


「素晴らしい判断です、助かりました」

「お誉めに預かり光栄。主君ひめぎみ、今宵の獲物はこちらの方々で?」

「はい。絶つ手前で捕らえて下さい」

「承知」


 護衛は小さく頷いて両足を広げ、真半身に構えると右腕を引いた。真っ直ぐ天を向いていた槍の穂先が前方に傾く。

 それを合図としたかのように、いきなりの出現に立ち尽くすしかできなかった人々が一斉に動き出した……数にして、ニ十は超えるか。よくぞそんなに集まったものだと、感心してしまう。国の宝物には、文字通り敵しかいない。


 不愉快な金属の連続音が甲高く鳴り響く中、その体躯より大きな槍と舞う。回した槍の遠心力さえ威力に変えて。相手の懐へと掻い潜っては、その長い柄を顔面へぶつけていく。一切の容赦なく。その役目を、一途に。


 満月が西へと傾ききった頃、庭の片隅に人が山のように積まれることになった。


「手を煩わせてすみません、あき。ありがとうございました」

「主君のお役に立てましたこと、恐悦至極。王の奸計もまた、実に愉快」


 独特な言葉使いの護衛は、愉しげに笑う。特徴的な青き長い前髪の隙間からちらりと覗くその瞳は、よく晴れた空を映した蒼。褐色とはいかないまでも、濃いめの肌色は言わずもがな西の民。

 どこからどこまで、と零れ落ちた言葉への返答は全て。そう、つまり全部、なのだ。


 今夜、王宮にいることも。それ故に刺客が押し寄せることも。国妃に頼んだ眠り薬が遅効性ゆえに妃が刺客を片付ける羽目になることも。

 敵を炙り出す為に、王が仕掛けた罠。


「これではどちらが囮か分からないじゃないですか……けれど、そう、わたくしにはもう、あの方のいない日へ戻ることなどできない」

「武器も持たずに立ち向かう愚かさに疑問。されど居場所を守る戦いにござったのであれば、納得。茨の道を選んだ、その勇気に感服。ゆえ、最期まで共する所存……夜明けまであと二刻ほどならば、しばし休息をばと」

「ありがとうございます」


 さっと膝をついて両手を出した護衛に持っていた剣を渡すと、また後でと唇を動かして元いた部屋へと戻っていった。



 片方の肩の殆どが抜けてしまいそうな。身に着けている黒い単衣の大きさが適合していないのは、火を見るよりも明らかだった。

 

 それなのに。


 そこから覗く白肌はきちんと纏っている、と錯覚でもおこしそうなほど絹の如く滑らかで。それを前にした男はゴクリと喉を鳴らした。


 女に手向けられる視線は、僅かながら熱を孕んでいる。

 幸運こそ転がってきたモノであったとしても、吾がモノに出来る立場にたったのだから無理もない。其方が良い、と確かに言っていたのだから寝込みを襲う倫理観を除外すればこのまま組み引いても手酷い拒絶はされるまい。


 そんな甘美な囁きすら聞こえてきそうなくらいには、静寂に満ちていた。


 人差し指の先を正気の失せた頬にそっと滑らせてみても、齢十六とも思えないあどけない寝顔を晒す女の眠りは深く、微動だにすることはない。


 ————。


 首を通り抜け申し訳程度に丸みを帯びた胸へと差し掛かったところで、まるで我に返ったように慌てて男は手を引っ込めた。


 手の届くところに武器を置くわけでも無く、単衣一枚という無防備な格好。それは、全幅の信頼を寄せているという証拠。であるならば、その睡眠を全力で守らなければならない。


 女が男に預けたのは、命運そのもの。


 身をかがめ、一瞬だけ唇を掠めると理性と自制心を総動員して勢いよく天幕を引き下ろした。

 頭の中でさえ、辱めることは許されない。大切に思うならばこそ。何より、漸く手に入れた居場所なのだから。まだ、その時期ではない。


「ご起床の時間です」

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国王の宥恕 箕園 のぞみ @chatnoir

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