第2話遠吠えに来る猫の手触れられず

 夜影が戻ってきたのはそれから二週間経ってからだった。

 夜遅く忍屋敷を音もなく歩く気配があった。

 その気配は異常に殺気を放っており、やけにこの時ばかりは皆も静かだった。

 扉を開けその背中を見れば夜影は振り返り、凍てつく漆黒の瞳が己を捉える。

 その口からは冷気が吐き出されているかのように白い息を吐き出しながら開かれる。

 体が動かない。

「…嗚呼、あんたか。」

 そう一言言うと口角を上げ不気味なほどに笑んだ。

 陰がかかった表情に、声も出なくなっていた。

 漆黒の瞳が蒼く染まり、この暗い屋敷を鈍く照らす。

 炎のように光り、見開かれた目に呼吸さえ止められていた。

 己と夜影の間に光のように白い忍が降り立った。

「新入り、部屋に戻れ。……殺されたくなければな…。」

 囁くようにそう低い声で言う。

 この忍が夜影を隠すように立ったおかげで、体が動くようになった。

 従った方がいいことはわかっている。

 部屋に戻り扉を閉めたところでこの緊張から解放された。

 殺しに来ているというのに、殺されそうだ。

 扉が開かれ、先程の忍が入ってきた。

「早めに寝とけ。真っ向からあれを受ければ明日は動けないかもしれない。」

「あれは術か何かか。」

「術か何かだ。兎に角、影には近付くな。見てわかるだろう、殺気だっている。」

 溜め息混じりにそう言い、目をそらす。

 その目が移った先は夜影の方だった。

「お前は平気なのか。」

「いや。直視だけはしないようしている。平気な奴はいない。」

 頼也、と呼ぶ声が奥から放たれた。

 それに応え、部屋を出ていった。


 目が覚めると、体が動かなくなっていた。

 それを見兼ねた才造が部屋を訪れたが、少し考えそのまま休めと言い部屋を出ていった。

 好都合だと思ったのだろう。

 昨日の夜のあれがいけなかったのか。

 動けるようになったのは昼頃で、まだ疲労感があったが安堵した。

 部屋を出ると夜影が待ち伏せていたかのように立っていた。

 その目は夜のように不気味に光っているわけではなかったが、警戒心はあった。

「よくその面で来れたね。」

「…どういう意味だ。」

「山犬は山で吠えてな。うちには番犬がいるんでね。あんたは必要ない。さっさと出ていきな。」

 それだけ早口に言うと才造を呼んで去っていった。

 仕事に向かったのだろう。

 番犬…か。

 誰のことを指していたのかは知らないが。

 主に呼ばれ向かうと既に夜影もそこにいた。

 露骨に夜影が殺気を放っていたが主はそれを気にしていないようだった。

「夜影、こやつが気に入らぬようだな。」

「あっはは、そりゃあもう!気に入らなすぎてこのふざけた面を引っ掻きたいくらには!」

 その笑顔は陰を持ち、心底そう思っているかのように応えた。

 引っ掻く、というのがこの心の臓まで届くような鋭い爪で行われるのだろうことがわかるくらいに殺気を失っていない。

「で、お主は夜影を如何に思うておる?」

「…何も。」

「夜影、試しだ。暫く置きそれでもならぬのならば考える。」

 主の命令には否を言わず溜め息をついて頷いた。

 その暫くというのが終わる前に仕留めなければ。

 でないともうこの機会は二度がないだろう。

 主から離れると夜影に胸ぐらを掴まれた。

「ぶっ殺されてぇの?黙って山に帰ってりゃ見逃してやるってんだから、従えよ。」

 その目がまた光っている。

 噛み付かんばかりの勢いだった。

 捨てるように手を離し、殺気を強める。

「夜影、落ち着け。どうした。お前らしくない。」

 才造が夜影を宥めるように声をかけたがその殺気は収まらなかった。

 鋭い爪を晒し威嚇をする夜影に本気で怒っているのかと驚いた。


「如何に命を狙われようともあんなに乱れたことはない。」

「草然のがやられたからか?」

「また伝説繰り返しそうな勢いだけど…。」

 忍隊十勇士が会話しているのを盗み聞きしながらまだ加速したままの鼓動に手を添える。

 これまでにない異常な状態というならば、己も危うい。

「頼也、お前なら長から聞き出せるだろ。」

「既に試みた。」

「才造も?」

「怒りのままに何も言わん。」

 振り返りその様子を観察する。

 その中でたった一人の忍だけが知っているように思えた。

 白い長髪の、頼也という忍。

 敢えてそれらしいように答え、嘘は辛うじて言ってはいない。

 それが解散した後に頼也をつかまえてそれを問うた。

 知っているのだろう、と。

 しかし頼也は答えなかった。

 深夜、隙間から明かりが漏れている部屋に気が付いた。

 その隙間を覗けば、夜影が蝋燭の前に座り文を読んでいた。

「用があるなら言いな。」

 目を寄越さずそう静かに言った。

 特別、用はないのだが隙間に指を差し入れて扉を開けた。

 気配を消したつもりであったのに、気付かれたのか。

「…何故、己を追い出そうとする。」

 答えは返ってこなかった。

 険しい顔で文を見つめたまま、顔も上げようとしない。

「そんなに気に入らないか。」

 溜め息をつき、文に目を落としたまま手招きをされる。

 その手に誘われるままに傍まで寄った。

 その鋭い指が顎の下に差し入れられ、上を向かせるように動いた。

 真っ直ぐと目が向けさせられた先には天井。

 その天井に何かが潜んでいる。

 気付かせる為に上を向かせたのか?

「…夜影。」

「もうちっと声を控えな。」

 指を引いて文を畳む。

 己の膝の上に頭を乗せ、見上げてきた。

「…何のつもりだ。」

「殺す機会をあげようか。」

 今殺してみろとでも言うのか。

 いや、それにしても夜影か、そこに潜む曲者か。

「あんたの腕は察するよ。番犬にゃ丁度良い。」

 あの時の態度とは一変して、そう穏やかに言った。

 そのまま両目を閉じ、息をつく。

 もう一度天井を見る。

 気配は確かにそこにある。

 気付かれているとわかっていながら未だにそこにいるとは。

 苦無を手にし殺気をたてればそれは失せた。

「…こんな夜中に殺気たてるんじゃないよ。」

 掠れた笑い声でそう囁くように言った。

 その首に苦無を突き立てたが、夜影は何の反応もしなかった。

「何を考えている。」

 そう問い掛けても、もう夜影は目を開かない。

 静かな寝息だけがそこにあった。

 刺し殺せばいいというのに、無防備な夜影へ向けたこの苦無はそれ以上進むことはなかった。

 扉が開く音がして振り返れば頼也が立っていた。

「落ち着いたか。」

「…頼也。」

「どうだ。殺せるか。殺してみるか。」

 できないことを知っていて言われている気がしてならない。

 傍に寄り、夜影の頬を優しく撫でた。

「…何故自分が殺せなくなったか知りたいか?」

 唐突にそう問われた。

 その黄色い瞳が試すように見据えてくる。

「草然の伝説の忍も、お前も、同じだ。」

 立ち上がり、扉に手をかける。

「術か何かか?」

「術か何かか、或いはお前自身の何かだ。」

 そう答え、出ていった。

 その寝顔を見下ろす。

 苦無を捨てた手ならば細い首に触れることはできた。

 術、だとみていいだろう。

 両手で首を包む。

 力を入れて締め上げればその目は開かれた。

 赤き瞳と漆黒の瞳が確かに潤んで、揺らいで、己を見たが苦しそうに細められたまま瞬きもしない。

 きゅう、と酸素を欲した口から音が出て両目を見開いた。

 いよいよ死ぬかと思いながら、さらに力を込める。

 この両手を引っ掻く鋭い爪が大人しくなり、その目は閉じられる。

 息を欲した口はもう何も欲することも音を出すこともしなくなった。

 完全にその体から力が失われるのがわかる。

 細い首から両手を離せば、くっきりとその痕が残っていた。

 呆気ない。

 殺してみろと言われ晒された無防備な首に刃さえ触れられなかったものの。

 両手には、引っ掻かれた痕が深く残っている。

 血がふつりと玉を作っているのを眺めていると、手に痺れを感じ始めた。

 膝の上からその頭を退かし、立ち上がろうとすると手だけに収まらず体にさえ痺れが広がり始めた。

 兎に角この部屋から立ち去ろうと扉を振り返れば、その扉の隙間から何者かの目が光った。

 覗かれていた、らしい。

 ただ手元に夢中で気配にも気付かなかった。

 近付けばその目は閉じられ扉を開け放てばもうそこには何もいない。

 夜影を振り返れば青白い顔が横を向いていた。

 その顔には、笑みが浮かんでいる。

 背筋が凍る思いで扉を閉め加速する鼓動を抑えながら己の部屋へ戻った。

 いよいよ体の痺れが本気を出し、これ以上動くことはできなくなっていた。

 確かに、目を離すまでは…あの顔に笑みはなかったはずだ。

 だがあの顔は…。

 それに、爪に毒があったとは。

 この両手を外させるようでもなく必死に引っ掻いていたのが、猫のようで。

 揺らぐ意識に体は床に倒れる。

 苦しさに目を閉じた。

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