タニ 寺子屋の子どもたち
鏡りへい
お化け桜編
0 遭遇
八つで寺子屋に入るまで、研究所は琥太朗にとって最もよく通う場所だった。新しい「遊び」をいつも提供してもらえたし、知り合いも多い。他の家庭の子どもがそうではないとも知らなかったから、自分の境遇に不満も疑問も感じなかった。
三つのときだ。大工をしている兄にもらった木製のグライダーを食堂で投げて遊んでいた。と、テーブルの間に落ちたそれが床を滑って、見えなくなってしまった。
探していると、目の前に人の足が現れた。
見上げる。立っていたのは、当時の琥太朗からすると、大人に近い大きなお姉さんだった。
「これを探しているのか」
と、いやに無機質な声が降ってきた。グライダーが差し出される。
「ありがとう」
すでに社交的で物怖じしない性格に育っていた琥太朗は、にっこり笑って礼を言った。
お姉さんは片眉を上げて、怪訝そうにした。
「話せるのか、
珍しい表現だが、見た目に反して内面が早熟だった琥太朗には、言われたことが理解できた。
「俺、三歳」
「三歳? 小さいな。赤ん坊かと思ったぞ」
「俺に言われても」
「そうだな」
次にこの少女と会ったのは、六つのときだった。
「いーち、にーぃ、さーん、しー……」
待ち時間に退屈して、当時仲の良かった〈研究所産〉のコロと、建物内でかくれんぼをしていた。琥太朗が鬼で、一〇数えてから探しに行く。
「きゅーぅ、……じゅうッ」
勢いよく振り向く。と、半分開いたドアに何かが転がり込むのが見えた。
コロは、人の形をしているものの、手足がほとんどなくボールのようだった。移動するときは短い脚と胴体をバネにして、ぽんぽんと跳ねるように動く。
ちょうど隠れるところを目撃したのだ、と思った琥太朗は、意気揚々とそのドアに近づいた。まずは耳をつけて中の様子を確認し、隙間からそっと覗き込む。職員の姿もなければ、コロもいない。
小柄なコロは、段ボールでも棚でも、簡単に隠れられる。きっとまたお得意の技を使ったのだろうと、足音を殺して室内に入る。
カーテンのかかった棚があった。誰もいないはずなのに、端がほんの少し揺れていた。ついさっき駆け込んだに違いない。
いきなり開いて驚かしてやろうと、笑いを堪えて近づく。慎重に手を伸ばし、カーテンをつかむと同時にぱっとめくる。
「コロちゃん、見ーっけ!」
――誰もいなかった。下の段の空いた部分に、バスケットボールが一つ転がっていた。
「……あれ?」
「ぶぶぶぶぶぶぶ!」
言葉を話せないコロ唯一の声が、背後から大きく聞こえた。どん、と背中に飛び乗る。
「うわあ」
倒れ込み、けらけら笑う。
「ぶぶ」
満足げに一声上げたコロは、ポーンポーンと跳ねて通路を奥に向かった。角を曲がる。
「あ、待って」
慌てて追いかける。掲示された「立ち入り禁止」の文字が、コロには見えていない。
追いついて抱き上げた琥太朗が、戻ろうか進もうか迷ったのは一瞬のことだった。足音を殺して前進を始める。
「探検」しよう。ただ遊ぶより、リスクがあったほうが楽しいではないか。
通路には人影も物陰もなかった。ところどころ左右にドアがあり、いつ誰が出てくるとも知れない。このころにはやんちゃのレッテルを貼られていた琥太朗は、大人に怒鳴られたり引っ叩かれたりするのも経験済みだった。
誰かに会ってはいけない。しかし会わないのもつまらない。すぐに、どこかの部屋に入ってみたい欲求に駆られた。
「どこにしよっか、コロちゃん……」
そっと腕の中の頭に聞く。コロははしゃいで、短い手をばたばたさせた。
二〇キログラムはある体を抱き疲れた腕から〈研究所産〉がするっと抜け落ちる。コロは近くのドアに飛びついた。すると、たいていは鍵がかかっているはずの扉が何の抵抗もなく開いた。
明かりの点っていない室内は、棚で埋め尽くされているようだった。その棚の間に迷わず駆け込むコロ。
一瞬ためらった後、琥太朗も後を追った。ドアを閉め、壁を探って明かりを点ける。今まで暗かったということは、室内に人はいないはず。
「…………ッ」
うわッ、という悲鳴さえ声にならなかった。棚に並んでいるのは、人体の一部や奇形の生き物が詰められた瓶だった。
そしてその中身は生きていた。皮膚も頭蓋骨もない顔や、球体に目と口が反対についたような顔なんかが、一斉に侵入者に目を向けた。
「……コ、コロちゃん……」
さすがに気味が悪い。早く退散しようと、視線を伏せてコロが逃げ込んだ方を探す。
「……アッチニイッタワヨ……」
近くの瓶からかすかな嗄れ声が届く。
「ど、どうも……」
恐縮して頷くと、あちこちからくすくす笑いが起きた。遠くから「コッチダヨー。オイデー」という、男の不気味な叫び声も聞こえた。
「コロちゃん……」
恐怖を押し殺して探索に専念する。しかし小柄な友人はどこに隠れたものか、なかなか見つからなかった。
ドアの開く音がしたのは、数分後のことだった。
まずい、と思った。所員に見つかったら、たぶんひどく怒られる。琥太朗はそっと身を屈めて、爪の代わりに歯の生えた十二本指と、人の皮膚をまとったアンコウの瓶の間から様子をうかがった。
人影は二列向こうを通っていった。よく見えないが、白衣は着ていない。背格好の近い知り合いは思いつかない。
頭上の瓶が軽い笑い声を立てた。慌てて、人差し指を唇に当てて見せる。トカゲと猫とハリセンボンをミックスして目玉を八個足したような顔がにやにや笑っていた。
「騒がしいな……」
落ち着いた女性の声に、琥太朗は緊張する。
「誰かいるのか?」
問いかけに、瓶が一斉に答え出した。
「イルヨ」
「イナイヨ」
「ムコウ」
「ココダヨー」
「シラナイ」
「シッテルケドオシエナイ」
「コッチコッチ」
「モウイナイヨ」
「ドコニイルノカナア?」
「ソノビンノナカニイルヨ」
「ソッチニイッチャダメ」
「スグウシロダヨ」
……笑い声と泣き声と囁き声と怒鳴り声が、林の中で聞く暴風のように渦巻く。
「黙れ」
怒気を含んだ女性の声が一喝した。途端にしんとなる。
琥太朗は耳を澄ました。コロが床を跳ねる音が聞こえないものか……。
しかし何も聞こえなかった。革靴か何かの硬い足音だけが室内に響く。
琥太朗は物音を立てないよう気を配りつつ、隣の列に移動した。
……いた。コロだ。一番奥の棚の前でじっとしている。
あいにく、女性の足音もそちらに向かっているようだった。様子を窺いつつ進みながら、琥太朗はここで見つかった場合のペナルティを想像した。
たぶんこの部屋は、研究所の所員以外が入っていい場所ではない。出くわした相手にぶん殴られるのと、親に言いつけられるのは必至だろう。それは、母親が泣いて謝るのとセットのはずだ。
――見つからなきゃいい。
悪さをするとき、琥太朗はいつもそう思った。そして大抵はうまくやれた。今回だって、相手より先にコロを回収して退散するだけだ。
「オーイ!」
突然、向こうの方で太い声が呼んだ。琥太朗がドキッとして立ち止まるのと同時に、女性の「なんだ?」という怪訝な呟きが聞こえた。
「オーイ!」
もう一度呼ぶ。女性は念のため、そちらを見に行くことにしたようだ。靴音が遠ざかる。
今のうち、と駆け寄った。
「コロちゃん、帰るよ」
小さく囁いて胴体に腕を回す。と、コロが見つめていたものがわかった。
棚の一番下、大きな瓶に入っていたのは、コロと同じく手足のない人間だった。コロと違うのは、爛れた苔色の肌に覆われている点だ。半開きのまぶたから覗く濁った瞳、緩んだ唇からはみ出た舌。
――腐ってる。
そう理解した瞬間、背中を冷たいものが這い上がった。意識せず「グウッ」という声が喉から漏れる。
胃も跳ねるようだった。苦い液体がこみ上げるのを押さえて、再度抱き上げようとする。
「ぶぶぶぶぶぶ」
コロは抵抗して首を振った。
「見つかっちゃうよ」
「ぶぶ、ぶぶ」
胴体と頭しかない体がポン、ポンと跳び上がる。何を思ったか、その勢いで瓶に体当たりをした。
「ダメ!」
思わず大きな声が出た。重い瓶がわずかにぐらつき、中の人の髪が揺れる。
瓶が倒れて中身が飛び出す想像をした頭からは、もはや所員に見つかって怒られる心配などは消えていた。必死に手を伸ばす。しかし全身がバネのようにすばしっこい友人を捕まえるのは容易ではなかった。
「……もう!」
一瞬、焦りと恐怖に苛立ちが混じったときだ。何かが自分の両脇から伸びてコロの胴体をつかんだ。
――え?
それは金色に光る、長い人間の両手に見えた。
「ぶぶぶ、ぶぶー!」
無理矢理床に下ろされたコロが不満の声を発する。
驚いて後ろを振り返る琥太朗。予想に反して、そこには誰もいなかった。
再び前を向いたとき、腕は消えていた。戒めを解かれたコロも、改めて体当たりの体勢を取っている。
「こら、メッ」
慌てて転びつつコロを押さえる。
「ぶぶぶーぶぶー!」
「どうしたの……」
そのときようやく、いつもと違うコロの様子に気がついた。これほど興奮しているのは初めてだ。よく見れば目尻に光るものが浮かんでいる。
瓶の中の人が目に入る。さきほどはてんでの方角を見ていた両の黒目が、今はコロに向けられていた。
「――生きて――」
またコロが腕から抜けた。俊敏に一歩跳び退り、助走をつけて高くジャンプする。
「やめッ――」
瓶が壊れる、と思った琥太朗の喉から引きつった悲鳴が上がる。
一秒後、コロは瓶と接触する寸前で止まっていた。阻止したのは、少女の細い腕だった。
「ぶぶ、ぶぶ」
空中でコロが体をよじる。二〇キログラムはあるその体を軽々と両手で持っている少女。
「いいかげんにしろ」
怒っているのかいないのか、冷たい口調で諭す。
十四、五歳だろうか、黒地に赤の差し色が入った地味とも派手とも取れるワンピースを着ている。まっすぐな長い黒髪。ちらりと光るイヤリング。
少女はコロを抱えたまま、冷静な眼差しを琥太朗に向けた。
「ここで何をしている、
「……探検」
正直に答える。その目は怯えても恥じてもいなかった。見つかったからといって素直に降参する気などさらさらない。捕まったなら、次は逃げおおせる方法だ。
「怒られる筋合いなんかないよ。鍵がかかってなかったんだ。入って何が悪い」
「ずいぶん勝ち気だな」
幼い子どもらしくないと思ったか、少女が眉間に皺を寄せる。
「お互い様だろ」
挑むように唸る。両者とも視線を逸らさなかった。片方は隙を突こうとし、片方は隙を作るまいとしてだ。
睨み合いが続いた。先に表情を変えたのは少女の方だった。訝しげに眉を歪ませる。
「その金の頭……小僧、以前にも会ったことがないか?」
「え?」
記憶はすぐに蘇った。
「あ……グライダーのお姉ちゃん?」
琥太朗の声が一段上がった。あどけないとしか言いようのない表情を浮かべる。
「急に子どもらしくなったな……」
少女は眉間の皺をより深くする。
「お姉ちゃん、ひょっとしてずっと入所してるの?」
「いや――」
「僕、よくここに来るんだ。今日も検査で……でも待ってるのに飽きちゃったから……」
同情を誘う、か弱い口調になった琥太朗に、少女はため息で応じる。
「無駄だぞ。悪ガキに手心は加えん。……ひ弱な子どもが、この部屋の奥まで入って来られるもんか」
「チッ」
投げやりになった一瞬を突かれた。宙に浮いた自分の足に気づいて初めて、少女に抱え上げられたのだと知る。
「下ろせよ、
「面倒をかけるな」
訴えを無視して出口に向かう少女の動きは、小さいとはいえ人二人を抱えた負荷を感じさせなかった。華奢な体型に反してよほど力持ちのようだ。
「ん?」
歩きながら、少女が声を漏らす。
「ん?」
琥太朗も同じ問いを返す。
「いや、何でも――。そうか」
一人、少女は何かを納得したようだった。
扉の外で二人は解放された。着地しづらい放り出し方をしたのはわざとだろう。それでも空中でうまくバランスを取り問題なく着地したコロと対照的に、琥太朗は尻からどさッと落ちた。
「いててて……」
「ふん、軟弱だな」
同情を引く作戦は効果がないと悟り、すぐに立ちはだかる「敵」を見据える琥太朗。
少女は初めて、薄い唇に笑みを浮かべて見返した。
「面白い子どもだな。〈研究所産〉かと思ったぞ」
「――どうして、違うってわかるのさ」
少女はちらっと、琥太朗の左手首に目をやった。その先にあるのは、コイン型のチャームが付いた革紐のブレスレットだ。
「え?」
疑問符を無視して、少女は再び部屋に入った。扉がしまり、それきり出てこない。
「――お咎めなしってこと?」
尻をさすりながら立ち上がる。何事もなかったかのように、辺りを跳び回るコロ。
「――戻ろっか」
急に気が抜けた琥太朗は、それまでの勝ち気が嘘のように、よろよろとおぼつかない足取りで来た道を辿り始めた。
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