10、憎しみの対象
ひっく…ふぇ…ひっく…ぐす……。
自分より年上の、大人の女性が泣いている。先ほどから絶えず嗚咽を続けており、口からは意味をなさない言葉しか出てこない。涙で滲んでしまったマスカラのせいで、目じりが黒く汚れていた。
ここは火社町ある商店街に店を構える、レトロな喫茶店だ。目の前には昨夜の丑の刻参りを行っていた茶色のショートカットの女性がいる。彼女の向かいの席に、七瀬と明石は二人並んで座っていた。
店内はモダンなジャズのBGMが流れている。カウンターで渋い白髪のマスターが手挽きのコーヒーミルを回しているきりで、明石たち以外の客はいない。
七瀬は女性が泣き止むまで待とうとしているのか、ブラックコーヒーを優雅にすすっている。明石はアイスティーをストローでかき回しながら、昨夜の出来事を思い出していた。
「おやめなさい」
七瀬の言葉に振り返った女性は、驚愕のあまり目を見開いた。
「なっ…誰よアナタ達!その恰好…学生がどうしてここにいるのよ!」
暗く静かな森に、ヒステリックな声がこだまする。彼女の叫び声に動じることなく、七瀬は柔らかな笑みを浮かべた。
「僕は七瀬の者です。この神社の者に頼まれて、あなたを止めに来ました」
明石と話すときには別人のように、優しく丁寧なしゃべり方だ。七瀬の名前に、女性がぴくっと反応した。やはり七瀬は有名なのだなと、明石は場違いにも感心する。
「丑の刻参りは誰かに見つかれば、もう成就することはありませんよ」
ことさらゆっくりと、幼子に言い聞かせるように告げる。
すると大きく開かれた女性の瞳が潤みだし、雫となって眼のふちからこぼれだした。呪いが失敗した悲しみか、人に見られた羞恥なのか。今、彼女の心はいっぱいいっぱいに違いない。
「それとも僕らを殺しますか? 見た者をすべて殺せば、儀式は続行可能です」
僕ら、という複数形にそれまで黙って見守っていた明石は、おい、と小さく声をかける。勝手に一緒にしないでほしい。
七瀬は、その美しい面差しで、彼女をじっと見つめた。二人が見つめ合ったまま、三十秒ほど無言のまま時が流れた。
「こ、高校生を……こんなイケメンを……」
ぶわっ、と一気に女性の瞳から、大粒の涙が流れ始めた。
「殺せるわけないぃぃぃぃ」
ついに堪え切れずに子供のように泣き出した。
七瀬は彼女の肩を優しくさすりながら、「大丈夫ですよ」と声をかける。
「僕があなたの力になります。今日はもう遅いから、後日ゆっくりとお話しましょう」
改めて会う約束を取り決めて、今夜は帰るように促した。女性が神社から去るを見届けて、明石たちも家に帰った。
二日後、夕暮れの喫茶店に明石と七瀬はやってきた。奥のボックス席に座って待っていると、カランとドアの開く音が聞こえて彼女が入ってきた。今日はばつの悪そうな顔をしながら。夜の時とは違い、グレイのスーツを着ている。平日の夕方だから、仕事帰りなのだろう。
マスターに飲み物を注文してから、いざ本題に入ろうとしたとき、彼女は泣き出してしまったのだ。
明石はそれまであまり見る機会のなかった女性の涙を見て、落ち着かない気持ちになる。どうしていいかわからずおろおろしていると、泣きじゃくる彼女の前に七瀬がすっとハンカチを差し出した。綺麗にたたまれた皺のない青いハンカチ。
(さては、こいつモテるんじゃ……)
自分と違いスマートな行動に、明石はさらにいたたまれない気持ちになった。彼女はハンカチを受け取ると、濡れた頬をぬぐう。
「ありがと。……ごめんなさいね……ひくっ……取り乱してしまって……」
しゃくりあげながらも、なんとか言葉を紡いでいる。
「いいえ。丑の刻参りをするほど、許せないことがあったのでしょう? 僕でもよければ話を聞きますよ」
よくとおる美声で女性に話しかける七瀬は、外見と相まってまるで王子のようだ。実際は呪術師だけど。
彼女は目の前に置かれているカフェラテを一口飲んだ後、軽くひと呼吸してから話し始めた。
「わ……わたし、新藤奈美といいます。保険会社の事務をしています。……わたし、会社の上司と付き合って3年になるんです。だけど、その人、奥さんがいて……」
ふ、不倫だ。
明石はこの前テレビで見た昼ドラを思い出した。ドロドロとしたディープな大人の世界……。頬が熱くなっていくのを感じた。
「夫婦仲はとっくに冷え切ってる、離婚するつもりだ、って言ってたんです。だからわたし、彼と再婚できるんだと思ってました。でも、ある日、彼の奥さんが会社に乗り込んできたんです」
ヒッ、まさに泥沼の修羅場に小さく悲鳴を上げた。事実は小説よりも奇なりってやつだ。
「結局、不倫していることがバレてしまったんです。でも、わたしはちょうどいいと思いました。慰謝料を払うことになっても、彼は奥さんと別れてくれるって思いました。……でも違った」
窓から差し込んでいた日がだんだんと弱くなってくる。日は沈んでいき、夜が近づいてくる気配がする。奈美のカフェラテはとっくに冷めてしまっている。
「奥さん、妊娠してました」
一度止まったはずの涙が、また溢れ始めている。赤く腫れている彼女の目が溶けてしまうんじゃないかと心配になった。
「全部嘘だった。結局、子供がいるから別れられないって言われて……。わたしだけ奥さんに訴えられて、百万払いました。会社でも皆から無視されて、居づらくなっちゃって…」
ほんとに、馬鹿ですよね……と、七瀬に借りたハンカチで目元をぬぐっている。
「それは…大変な目にあいましたね」
「ひどい男っすよ! 奥さんがいるのに、どっちつかずで奈美さんに嘘ついて」
胸の奥から熱い怒りが沸き起こってくる。明石には彼女ができたことはないが、いつか恋人ができたがその子のことを大事にしたいと思っている。硬派な男に憧れているのだ。
「だから、その男を呪ってたんですね!?」
呪われて当然だと思った。もはや俺たちは止めない方がよかったのではないか、と憤る明石とは反対に、きょとんした顔をした。
「……いえ?」
「え? じゃあ誰を呪ってたんですか」
明石の問いに奈美はクスっと笑った。
「奥さんですよ。決まってるじゃないですか」
「お、奥さんの方ですか…?」
「はい。あの人がいなくなれば、彼はわたしのところに戻ってくるだろうと思うんです。奥さん、少し神経を病んでいるんですよ。だから彼、見捨てられなくて……あの人がいなくなれば……」
話し続ける奈美の笑顔に、身体の内臓が冷える思いがした。高校生の明石にだって、その男がクズだということはわかるのに、奈美はまだ男を愛しているのか?
「そんな男、もうやめた方がいっすよ! もっといい男いますって!」
励ましのために言ったのだが、奈美からきつくにらみつけられた。
「子供になにがわかるの?」
怒っている女性は怖い。明石はとたんに何も言えなくなり口をもごもごととさせている。そこで突然、七瀬が体をぐっと前にのり出して、奈美の手を握った。
彼女の顔は瞬時に赤くなっていく。
「奈美さん、あなたの愛情深いところは素晴らしいと思います。しかし、僕もあの神社から依頼を受けています。丑の刻参りはもうやめてください」
ぎゅっと手を握ったまま、七瀬は灰青の瞳で奈美を見つめる。ぽーっと頬をそめた奈美は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい。見つかって…しまいましたし……」
先ほどの明石への対応と比べて天と地ほどの差がある。イケメンの力は偉大だな。というか、七瀬って絶対自分の顔の良さに気づいている。
「せめて西にある縁切り神社にいってください。あそこは力のある神社ですから、きちんとお参りすれば、あなたにとって悪い縁を切ってくれるはず」
「!…七瀬さんが言うなら、本物ですね。私行ってみます!」
「もし…どうしても呪いたくなったら、僕のところに依頼に来てください。とっておきないの呪(まじな)いをかけますから」
「はい! ありがとうございます!」
奈美の顔はすっかりと晴れやかに輝いている。
窓の外はすっかり暗くなっていた。そろそろ出ましょう、と七瀬が言うと、奈美がせめてこれだけでも、と伝票をもってお会計をしてくれた。
店を出たところで奈美はもう一度深々と頭を下げて駅のほうへと去っていった。
明石たちは家に帰るべく、歩き出した。自分には縁のなかったヘビーな話を聞いて、どっと疲れが押し寄せる。隣の七瀬を見ると、終始浮かべていた営業スマイルがすっかり消え、無表情になっている。
「いいのか? 縁切り神社なんか紹介して」
「あの神社は『〇〇が別れますように』とかかれた絵馬がご万とあるからな。彼女も満足するだろう」
「いや、そうじゃなくて、やばいんじゃないのか?」
「……縁切り神社は本来、悪縁を切る神社だ。彼女の場合、切られるのは不倫男との縁だろう」
そういうことだったのか、と明石は胸をなでおろす。最後にちゃっかり仕事の営業をかけていたが、やっぱり七瀬はいい奴なのだ。
「でも見られちゃいけないのに、俺たちに見られちゃったわけじゃん。奈美さん大丈夫なの?」
「儀式、というのはより作法にのっとっているほど力を持つ。丑の刻参りには本来の正装がある。白衣に神鏡を身に着け、一枚歯の高下駄を履き、女なら櫛を口にくわえる。そして五徳を逆さにたてローソクを3本明かりをともしたものを被る…」
「ホラーだな」
「一応白い服にしたみたいだが、彼女は普通の私服だったろう。まあそんな恰好をしているのを見られたら、即通報されるがな」
ククク、と王子の微笑みとは正反対の悪魔の笑いをしている。
「女って怖いよな……」
しみじみと喉の奥から吐息とまじりながら言葉が漏れた。
「ああ。だからあの五寸釘の位置だったんだな」
「ん? どういうことだ?」
「藁人形に刺してあった釘の位置だ。普通は心臓か頭に刺す。人間の急所だからな。でもそれより下、腹の部分だったから、なぜだろうと思っていたんだ」
「腹? 腹だって別に……」
――奥さん、妊娠してました。
奈美の声がよみがえる。
「ハァ……。もう俺は結婚に夢が持てなくなってきたよ」
ガックシと肩を下ろし、うなだれてしまった。結婚できるつもりなのか、と七瀬が驚いた顔をしたので軽く殴る。
「分かんねえなぁ…。人を呪いたくなる気持ちなんて」
「――君は人を呪い殺したいと思うほど、憎んだことはあるか?」
「そりゃムカつくこととか、悲しいこととかはあったけど」
呪い殺そうと思ったことはないなぁと、明石は呑気な声を出した。
「お前はあんの?」
軽い気持ちで訊き返したのに、七瀬からの返答はない。突然、黙りこくってしまったようだ。しばらく反応がない美形の祈祷師をいぶかしんで、明石は「七瀬?」と顔をのぞき込んだ。
いつもの呆れた表情がそこにはあった。
「君の、感情の機微に疎く鈍感なところは、仕事を手伝ってもらうには適任だよ」
と嘲笑してくる。お前、絶対馬鹿にしてるだろ!と明石は七瀬にタックルを決めた。仕返しのつもりだったが、体格差のせいかびくともしなかった。
夕闇の中を歩く二人の少年の背中を、街灯だけがぼんやりを照らしていた。
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