灰色世界に君がくれた色彩
吉野玄冬
第1話
「それでは、
「かんぱ~い!」
私と凛はワイングラスを軽く触れ合わせた。中で真紅の液体がゆらゆらと揺らめく。それはまるでルビーのように色鮮やかで綺麗だ。
この日は私の部屋で凛の退社パーティーをしていた。私達は正方形のテーブルを挟んで対面にクッションを敷いて座っている。服装は普段通りのカジュアルな物だった。
凛はグラスの縁にそっと口を付けると、驚きの表情を浮かべた。
「スーッと飲めちゃう……それなのにふわーって良い香りが広がって、舌には色々な味わいが感じられて……何これ、わたしの思ってた赤ワインと全然違う」
「でしょ? あまり赤ワイン飲んだことないって言ってたから、こういうのもあるってぜひ知って欲しかったんだ。上品で渋みも少ない味わいが特徴のピノ・ノワールって品種なんだけど、フランスで名産地のブルゴーニュ地方、その中でも有名な老舗ワイナリーのボトルを選んだんだ」
「お、お高いのでは……?」
「まあ、諭吉はいったね」
「わわわたしも払うからね!?」
「いいよ、別に。今日は凛のお祝いなんだから。私からのプレゼント」
「むぅ……ズルいなぁ、そういうところ」
「それよりほら、温かい内にどうぞ召し上がれ」
「……それじゃあ、いただきます」
凛は手を合わせてから箸を取った。
机の上には料理が所狭しと並んでいる。低温調理器を使った牛もも肉のローストだったり、具沢山のコーンポタージュだったり、真鯛のカルパッチョサラダだったり。どれも私の手作りだ。今日はパーティーなのでコースを意識して、普段よりも力を入れて作った。
「んん~っ! や、わ、ら、かっ!? なのに、お肉の味はどっしり!」
早速、メインの肉から口にした凛は途端にふにゃぁと相好を崩していた。他の料理も手を付ける度に分かりやすくその喜びを示してくれる。私はそんな風に感情をありのまま表す彼女が何より好きだ。
凛はいつもより早いピッチでワインを飲んでいく。その為、食事が終わる頃にはすっかりアルコールが回って、耳から首元まで赤くなっていた。
「はぁ~、しあわせ~」
ワイングラスを両手で抱えるようにして持った彼女は、上気した顔でニコニコとしながら左右に揺れ始める。酔った時は良くこうなるが、見る度にこちらも幸せな気分にさせられた。
凛は残っていたワインを飲み切ると、グラスをテーブルに置いた。
「ね、せっちゃん。お隣行ってもいいかな?」
「……まあ、いいけど」
「やった」
凛はゆらりと立ち上がると、すぐ隣に腰を下ろした。どうしてか体育座りだ。
互いの肩が当たる程の距離。酒の匂いに紛れてふわりと甘い香りが漂ってくる。桃を思わせるフルーティーな香り。それはいつも私の気分を穏やかにさせてくれた。
私はぼんやり宙を眺める彼女の横顔に目が行く。綺麗とも可愛いとも言えるような端正な顔立ち。睫毛が長くて目も大きい。共に視界に入るのは、モデルのようにスラリとしており、女性らしい丸みも兼ね備えたボディーライン。
これだけ近くでそんな姿を見せられると、同性とは言え見惚れてしまう。それ程までに美しい外見だ。少なくとも、私はそう思う。
そんな彼女がポツリと呟く。
「……ありがとね、せっちゃん」
「お粗末様、でいいのかな?」
「それもだけど、他にも色々と。会社を辞める決断だってわたし一人じゃ出来なかった」
「私は何もしてないよ。ただ自分の考えを言っただけ。どうするか選んだのは凛自身」
空間に沈黙の緞帳が下りる。けれど、居心地の悪いものではなかった。
やがて、凛はこちらの肩にコテンと寄りかかって来た。
彼女はもはや呂律もあまり回っていない声で囁く。
「ねぇ、せっちゃん」
「なに?」
「すき」
「…………」
「だいすき、だよ」
私はただ無言で自分のグラスを傾ける。
気が付くと、彼女は横でスースーと寝息を立てていた。
こんな風に酔うと寝てしまうのもいつものことだ。
「ふぅ」
私は大きく息を吐く。そこには紛れもなく安堵の思いがあった。
今の言葉はふと漏れ出ただけで、明日の朝には忘れているだろう。これまでも似たようなことはあった。彼女は酔いが深まると心中をつまびらかにしてしまうタイプらしい。
つまり、今の発言も彼女が秘めていた想いということになる。
正直、そんな風に想って貰えるのは嬉しかった。
だけど、私は凛と友人以上の関係になることは決して許されない。
彼女だけじゃない。他の誰とも。
なぜなら、私の生き方は身近な人間を傷つけるから。人々から忌避される道だから。
「ここらが潮時かな……」
私は一つの決断をする。体感が受け取る情報から目を逸らしたまま、宵は深まっていった。
――その日から私は凛と距離を置くようになった。
◆
私が初めて凛と出会ったのは、お菓子を買いにコンビニへと行った帰りのことだった。
「夜は冷えるようになってきたな……」
時刻は二十二時を回っており、軽装で外に出たことを後悔しながら、マンションの廊下を歩いていた。
すると、私の部屋の隣、表札には『
スーツ姿の女性が扉にしなだれかかって地面に膝をついている。
少し前に引っ越してきたばかりの私は、その女性が隣人なのか分からなかった。面倒なので、訪問しての挨拶もしていない為だ。もし出くわすことがあれば、最低限の挨拶をする程度で良いと考えていた。
しかし、どういう状況なのだろう、と私は首を捻る。
何にせよ、只事ではなさそうなので、私は急いで駆け寄り声を掛けた。
「あの、大丈夫ですか?」
「……あ、ごめんなさい。ちょっと力が抜けちゃっただけなので、すぐどきますね」
どうやら意識はあったらしい。感情が抜け落ちたような顔でこちらを見た彼女は、程なくして無理に笑顔を形作り、壁に手をつきながら何とか立ち上がった。
「救急車、呼ばなくても平気ですか?」
「ああ、いえ……お腹が空いてるだけだと思うので、大丈夫です」
「何も食べてないんですか?」
「ちょっと仕事が忙しくて」
彼女は「あはは」と渇いた笑いを浮かべる。
しかし、私にはその笑いが痛々しく見えた。泣いているように思えた。
ならば、放っておくことは出来ない。彼女を助けなければならない。
それが私という
「ご飯の用意はありますか?」
「いや、ないです、けど……?」
彼女はこちらの発言に疑問を抱いた様子だったが、私はその手を半ば強引に引いて告げる。
「なら、うちに来てください。すぐに用意します」
◆
凛を部屋に招き入れた私は、彼女をテーブル傍のクッションに座らせた。
それからキッチンの前で食事の用意を始める。冷蔵庫や冷凍庫から必要な物を取り出し、電子レンジで温めたり、そのまま皿に盛りつけたりだ。
その間、彼女は壁の一面を埋める巨大な本棚をチラリと見た後は、ぼんやり宙を眺めていた。その様は魂が抜けているようにさえ見えた。
十分程で用意が完了し、テーブルの上に皿を並べていく。
「どうぞ、召し上がれ」
凛の前に並んだのは鶏の唐揚げといくつかの惣菜。どれも数日前に作って小分けに冷凍保存しておいた分や、今日の夕飯に作って明日用に冷蔵保存しておいた分となっている。
「わぁ……」
彼女は自分の前に並んだ食事に細やかながら感嘆の息を漏らした。
こちらが渡した箸を持ちながら両手を合わせる。
「いただきます」
そうして、手始めに唐揚げから一口。途端に彼女はパーッと表情を華やがせた。
「美味しいっ……です」
遅れて隣人の前であることを思い出したのか、丁寧語の語尾を付け加えた。
「量が足りなかったら言ってくださいね。良かったら、お酒も飲みませんか?」
「……いいんですか? そんな至れり尽くせりにしてもらっちゃって」
「気にしないでください。私はしたくてしてるだけです。特にお酒に関しては私が飲みたいだけなので」
「明日も仕事だけど……お願いします」
僅かに悩む様子を見せた後、彼女は頷いた。
私は立ち上がると、キッチンの上にある収納スペースを開いた。
片側には様々な形のグラスが、もう片側には大量の酒瓶が詰め込まれている。
「好きなお酒とかありますか?」
「いえ、あまり詳しくなくて」
「唐揚げなら個人的にはハイボールが合うと思いますけど、どうでしょう?」
「なら、それで」
そんなやり取りの後、私は棚から一つの酒瓶に二つのグラスと、冷蔵庫から
専用のメジャーカップとバースプーンを用いて、もう何度繰り返したか分からない動作でハイボールを作り上げる。
「何だかとても手馴れてますね……」
食事の手を止めてこちらを見ていた彼女は驚きの様子だった。私はグラスを差し出しながらその理由を説明する。一緒に用いた酒瓶も見せた。
「以前、バーでバイトしてたことがありまして。今回はこのシーバスリーガルで作りました。癖が少なく爽やかな味わいなので、飲みやすくて食事の邪魔にもならないと思います」
「なるほど……いただきます」
彼女はこちらが差し出したグラスを受け取り、そのまま口を付けると、すぐに頬を緩ませてホッと吐息を漏らした。
「凄く美味しい……これまで飲んだどのハイボールよりも」
「それは良かったです」
その後、凛はどれも美味しい美味しいと言いながら、食べて飲んでとした。こんなに嬉しそうにしてもらえたなら、作り手としては冥利に尽きるというものだ。
きっと私はこの時から凛に惹かれていたのだと思う。あまり誰かに作る機会がなかったというのもあるが、それ以上に彼女が美味しそうに食事をする姿は魅力的だったから。
やがて、食事を終えた彼女の頬は赤らんでいた。
僅かに身体を揺らしているような状態で、しみじみと呟く。
「わたし、今とっても幸せです」
私はとあることに気がつき、凛にティッシュの箱を差し出した。
彼女は首を傾げるが、そこで自らの異常に気がついたようで、目元に手を当てた。
「あれ、どうしてだろ……どうして涙が……」
凛は意図せず溢れ出てくる涙に戸惑っている様子だった。
彼女のことを良く知らなくても、私にはそれが悲しみを表すものであることを感じ取れた。
私は彼女の傍に寄ると、その手を握った。優しい声音を意識して語りかける。彼女が安心できるように。
「私はあなたの味方です。だから、気を張らなくてもいいんですよ。涙が出るならちゃんと泣いた方がいいです」
凛はクシャリと表情を歪ませると、私に縋りつくようにして嗚咽を漏らした。
彼女は必死に何かを堪えていたように見える。心を摩耗させながら。
だけど、その先にあるのは破滅だ。心が壊れてしまうだけで、何も残ることはない。
彼女がどんな問題を抱えているのかはまだ分からない。けれど、手を差し伸べようと思う。
だって、私は自分にしか救えない誰かを救うことを願い続けているのだから。
「わたし、もうずっとこんな風に美味しいとか幸せだとか思ったことなくて……最近はそれが辛いとも思えなくなってて……でも、今それはやっぱり辛いことだって強く思えて……どうしてこんな風になっちゃったんだろう……」
ポツリポツリと紡がれる彼女の言葉を聞いて思ったのは、少なくとも私の家で食事をしたことが良い影響を与えた、ということだ。自らが異常な状態にあることを気づけないのは最も深刻だろう。その為、私は一つの提案をしてみる。
「もし良かったら、またこうしてうちにご飯を食べに来ませんか?」
「駄目です……そんな迷惑は掛けられません……」
「私が来て欲しい、と言ってもですか?」
「えっ?」
「あまり人と話すこともない生活を送ってるので、こんな風に誰かが来てくれるだけでも嬉しいんですよ」
それは方便でもあり、事実でもあった。誰彼かまわずこんな風に言ったりはしないが。
凛だから、だったのかも知れない。
「いや、でも……」
彼女の表情に揺らぎが生じる。手応えを感じ、私は更に言葉を連ねていく。
「仕事終わりに作るのも大変ですよね。かと言って、コンビニ弁当とかばかりじゃ味気ないですよね。そんな時にでも頼ってくれればいいんですよ」
「うっ……」
「自慢じゃないですが、凝り性なので食事の技術はそれなりだと思います」
「うぅっ……」
「私の用意する食事は基本的に良いお酒もセットです」
「……ご迷惑じゃなければ、またお邪魔させてください」
遂に凛は了承する。気がつけば、彼女の涙は止まっていた。
「ありがとうございます……えーと」
彼女が戸惑った理由を察して、私は告げる。
「改めまして、私は
「あ、わたしは湊川凛、です。二十七歳です」
やはり彼女が隣人だったらしい、と私は今更ながらに納得した。
「近そうとは思ってましたけど、一つ上だったんですね。それならタメ口でいいですよ。呼び方もお任せします」
「あ、それならそうします、じゃなくて、そうするね。雪那、ちゃん?」
「はい。凛さん」
「雪那ちゃんもタメ口でいいよ。年の一つや二つ、大した違いもないし」
「それじゃ遠慮なく。連絡先を交換しようか。事前に連絡を貰えれば、それだけ早く用意も出来るから」
「うんっ」
そうして、連絡先を交換した後、凛は隣の自室に帰って行った。
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