邯鄲の枕 上

吹紗來 渚

邯鄲の枕 上

姦しい有象無象の群衆の中、ボクは歩いている。


世界は不平等だ。全ての事柄が均等ではない。時間は平等と言うが、今を生きることに必死な人間は自分の好きなことに割く時間も労力も持ち合わせていない。所詮はカーストだ。人が人である事。学校でどれだけ道徳を教えようが、どれだけ正しき人間性を謳おうが結局、人間の本質とは何かを蹴落とす事で自分の地位を引き上げる"獣"だ。


「獣…所詮は獣だな」


自嘲気味に笑う。


獣の中でも1番に醜い。環境を守ろうと言うが、1番に汚すのはヒトだ。生物の生態系を1番に歪ませたのはヒトだ。何かを犠牲にしなければいけない性を持つものが、その犠牲を出さないようにしようとする。


「何も悪くないじゃないか…」


そうだ。犠牲を出すことは何も悪くない。


科学技術はその犠牲、リソースの上で成り立つ。日々を謳歌出来るのも、裕福な暮らしを営むことが出来るのも、そのリソース故だ。


ヒトは、その裕福さを体感すると抜け出せない。なのにそれを維持したままで環境保全をしようとする。


…なんて傲慢なんだろう。


その傲慢さ、それがボクが醜いと感じる理由だ。しかもそれが傲慢であるとは露ほども感じない辺り始末が悪い。


その大嫌いなヒトという生物であるボク自身にもかなりの嫌悪感を抱く。だからボクは自分を好きになれない。でも、彼はどうなのかな?


「彼は、好き…なのかな?」


ふと、気になって彼に電話をしてみる。


コール音が3回、それで彼は電話に出た。


「どうしたんだ?珍しい。君から電話をかけてくるなんて」


「…今から話がしたい。何処にいる?」


少しの間がある。そして彼が今何をしているかもわかっている。だからおよそ彼が現在どのような表情を電話越しに浮かべているか容易に想像がつく。


どうせ、苦笑いを浮かべているんだろう。


「今からか。悪いな、仕事だ。次の講義で今日は終わりだ」


「なら、その講義を受けよう。久々に君の授業を聞きたくなった」


「はぁ…まぁ、"先生"が来てくれれば生徒もやる気が出るのかね?」


ボクはそれに何も言わずに通話を切る。そして、彼の仕事先、ここからさほど遠くもない、更には大した学もない芸術大学に向かった。











萃芸術大学、そこの文芸表現学科に彼は講師として勤めている。この学校の偏差値はそれほど高くはないが、こと文学に関してはそこらの大学よりもかなり内容の濃い授業をしている。物語論、解釈学などはどのような大学よりも深く学ぶことが出来る。然し、ボクはその大学で習う内容に興味はない。本当に興味があるのは彼だ。夏目 遙真という人間だ。


その興味の対象である遙真が講義をしている教室の扉の前で、ボクは1度深呼吸をする。そうしてドアノブを捻ってドアを開けた。


初めに視覚に入ったのはある男の横顔だった。


蛇のような目付き、然しどこか人に安らぎを与える優しそうな顔。身長は比較的高く、スラリとしているがそこにひ弱さは微塵も感じない。顔つきは真剣だが何処か気だるさが滲み出ている。暗い茶色の髪質は柔らかくストレートで、前髪を少し横に流している。


彼が夏目 遙真だ。


次に映るのは教室の風景。


静かな教室にいる全ての目線がボクに集まった。全員が、キラキラと瞳を輝かせる。それが、ボクには眩し過ぎて目が眩む。


「…じゃあ、特別ゲストの東雲先生を迎えて、講義を続けようか」


遙真はいつもの笑顔で講義を再開する。彼の講義で生徒がざわつく事は少ない。彼は話すテンポ、間のとり方がとても上手い。そして生徒の関心を確実に得る。そう、彼は昔から人に物事を教えるのが上手かった。


その講義をぼうっと聞き流す。この分だと、時間が余りそうだ。


彼の黒板に書いている字は本当に綺麗だ。トメ、ハネ、払い。字のバランス。全てが見易い。このような高水準の講義を受けられる生徒はさぞ幸せものだろう…まぁ、本人達はそんなこと微塵にも思ってないだろうが。


「…これで今回の講義は終わりだ。時間は10分近く余った。東雲先生、前へどうぞ」


ボクは遙真に億劫だと目で伝えるが、悪意あるその笑みに溜息をつき前へ出る。


「貸し1だ」


「なんでだ」


苦虫を噛み潰したような顔で遙真が言った。彼は貸しの恐ろしさをよく知っている。だからこその表情だ。


ボクは少し大きめな声で言った。


「誰か、質問はあるか?…ボクと遙真の色恋の質問は受け付けない。時間の無駄だから」


すると、すぐに手が上がる。


「よし、そこの眼鏡をかけた髪の長い女」


顔は端整で、瞳は少しタレ目気味。漆黒に濡れた髪を肩まで伸ばしていて、それが彼女の白絹のような滑らかで無垢な肌を強調させる。


ボクは、それを心底美しいと感じた。その美しさは春紫苑のような…野に咲く花のような、そんな印象だ。


彼女はすっと立ち上がり、ボクに問いを投げかける。


「東雲先生。私は夏目漱石さんの小説をよく読んだりするのですが、他にも読んだ方がいい小説はありますか?」


「…君は夏目漱石についてどう思う?」


すると少し考え込んで、こう答える。


「文章がとても上手くて引き込まれるような作品が多くて、尊敬しています」


その解答にボクは笑顔でこう答えた。


「そうだな。確かに文章はとても上手いな。然し、完成度は低いとボクは思う。芥川龍之介の作品を読み漁ることを提案する。そして、しっかりと違いを比較すればいい。今、ボクが言う言葉が分からなくても読み比べれば分かるさ」


それでこの時間は終わった。チャイムが鳴り、遙真が解散と言えば彼らは休憩を…


そう考えていたが、雪崩のように生徒がボクの元へ来る。ほんの少し先の未来を見越してボクは遙真に助けを求めるべく目線をやるが彼は知らん振りで壁に身を預けていた。むしろわざとらしく持っていた本を読んでいる振りをしている。


(遙真ぁ…覚えてろよ!)


ボクは涙目になりながら生徒の問いに心を無にして答え続けた。







「ホントに傑作だ。あそこまで笑えたのは高校以来だ」


ほんとに楽しそうにそう言ってくる遙真を睨みつけてボクは紅茶を口にする。


あれから次の講義の始まる10分間。質問責めにあった。どれもこれもくだらない質問で答えるのもしんどいので途中から適当に流すことが多くなった。だが、多分真面目に回答していないことはバレてはいないだろう。


尚も笑い続ける遙真は笑いながら質問してくる。


「なんで途中から流し始めた?ちゃんと答えてあげればいいものを」


そうだった、こいつの前では隠し事が難しい。あまり表情に出ないボクの内心ですら、容易く暴く。昔から、全く変わらない。


「…まだ、人間観察は続けてるのかい?」


「当然、楽しいぞ?そして飽きない。最高の娯楽だ」


本当に変わったヤツだ。ボクが言うことでもないのかもしれないが、変人だ。ボクもそれなりには人間観察というものをするが、遙真のそれは全く違う。ボクが分かるのは性格、そして趣味ぐらいまでだ。だけど、遙真はそこから生活リズム、職業まで言い当てる。


「本当に変わってるな。遙真は…」


「君に言われたくはない。で、今日わざわざ呼び出した理由を聞きたい」


自分も忘れかけてたそれを、あぁ…と思い出しながら、彼に話した。


「…という訳だが。遙真、君はどう思う?」


ひとしきり、話終えて彼に尋ねる。


「どう思うって、何が?」


困り顔で彼は聞いてくる。


「つまり、東雲先生は人間は傲慢な獣だ。という結論を出したが、俺がそれについてどう思うかってことを聞きたいってことか?」


ボクは無言で頷く。あと、少し気になることが出来た。


「なんで、ボクの事を先生って呼ぶ?」


「そりゃあ、立場の違い…だな。俺はたかが大学の一教員で、君は高名な小説家だ」


「意味がわからないよ。それは答えになっていない」


「はぁ…正直言うと恥ずかしんだよ…この歳にもなってね」


赤面する遙真を見て、ほんとにそうなのかと気になった。


「何が恥ずかしい。昔のように真冬と呼んでくれればいい」


「ドヤ顔で言われても対応に困るな…じゃあ真冬。俺が考えた事を言おうか」


それにボクは少し息を飲んだ。彼はオンオフが激しい。本気になると目付きが変わる。


「まず、人は犠牲無くしては生きられないそれは正しいと思う。だからこそ、その犠牲を少なくしようとするんじゃないのか?」


「それは人には出来ない」


「なんで、そう断言するんだ?」


「人はリソースを消費する。その消費に見合った成果を出す。なら、環境保全を謳うよりもそのリソースをより効率的に使用できるように考えるべきだ。効率と削減は違う。今の人間には削減をすることは出来ない」


「そうだな、それも正しい。然し、削減したリソースでやりくりすることはそんなに難しいのか?一人一人が少し気をつければ何とかなるんじゃないか?」


ボクは呆れた。遙真は楽観的なのか?


今使用しているリソースの効率だって決して良いものでは無い。なのに、それを削減して更には今と同じ生活を営もうなど妄言だ。仮に、世界の人口も同時に少なくなるなら、それも現実味を帯びてくるものだが…


そう考えながら半眼を遙真に向けるが、彼はいつも通りの笑みを返す。何を考えているのか、読みづらい。その飄々とした態度もまた気に食わない。


「君は、本当にそう考えているのか?」


彼は悩む、それを分かっていたから考える時間を与える。その間に一緒に頼んでおいたモンブランに手をつける。私は甘味が好きという訳では無いが別段嫌いではない。特にこういう込み入った、小難しい話をする時には紅茶などの飲み物とセットで食べたい。


一通り、頭の中で自分の考えが纏まったのか彼は口を開いた。


「そうだな。俺は君とは違う。君のように人を嫌いではないし、寧ろ好きだと思う。だからみんなで省エネをしようと言うならするし、今の学校のボランティア活動も進んで参加してきた。だから真冬のようにそういうことを考えることもなかったから、いざ聞かれると答えが出ないものだ」


その答えとも呼べないものに、ボクは少し懐かしさを覚えてこう返す。


「そうだね。遙真は博愛主義に近い思考をしているからね」


「なら真冬は偏愛か?」


「いや、ボクはただの人間嫌いだよ。偏愛なら、一部の人を好きになることもあり得るだろう?」


遙真は笑顔で、それでいて見透かすようにボクを見る。彼は分かりづらい。表情から思考を辿ることが難しい。でも、それがボクにはなにか物言いたげな目をしていると思ったので、聞いてみた。


「なんだい遙真。何か言いたいことがあるなら言えばいいじゃないか。浅い付き合いでもないだろう?」


「…なら、なんで俺とずっと…高校時代から付き合ってくれてるんだ?」


なんだ、そんな事か。


ボクはため息混じりにこう言った。


「それはボクと遙真は同じだからさ。価値観や考え方が違えど、君の書いていた世界とボクの書いている世界が酷似しているからだよ」


「回りくどいな、つまり気が合う…でいいんじゃないか?」


ボクは遙真のその簡潔にしようとする思考に少しふくれながらこう返した。


「本当に…君は日本人かい?それでは曾祖父も泣くというものだ…風情も無ければ奥ゆかしさも足りないぞ」


「真冬はその逆だろ…寧ろ、分かったことを褒めて欲しいな」


そう言って、互いに席を立ち遙真は会計へ。ボクはそのまま店を出る。溜息を彼がついたのを最後にボクは意識の外へと追いやった。










彼女は昔から本当に自由…もとい身勝手だ。


自分が気に食わないと思えば他人にそれを直せと強要し、効率が悪いと言って授業をサボったり。有り体にいう問題児だ。でも、そんな彼女を俺は尊敬した。憧れた…そして、諦めた。






高校入学。新しい制服を着て登校する。


嬉々とした表情を浮かべる他の学生。服の着こなし…新品の服を着た、俺と同じ新入生達。


俺は流し目にそれを見ながら校門をくぐる。そこに大きな桜の木がある。この学校の名物とも呼ばれている八重桜だ。その下のベンチで女子が座って本を読んでいる。


彼女はセミロングの美しく、深い漆黒の髪を風に棚引かせる。それが舞い散る桜と相まって仙女のように俺は感じた。顔は童顔だが、目はつり目で凛とした雰囲気を放っている。何より俺が気になったのはその表情だ。


他の生徒のように喜ぶでもなく、だからと言って不安がる様子もない。敢えて言葉にするなら、くだらない。そんな所だろうか。


俺はそんな彼女に声をかけてみることにした。彼女のような人間は今まで見てきたことがなかった。それで好奇心が疼いた。それだけ。


「なぁ。何をしているんだ?」


その言葉に顔を上げる。約2秒、俺の顔を凝視して今度はよく澄んだ青空に目を向けて、こう言う。


「…智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」


彼女はそこで止める。俺はそれがとても気持ち悪く、だから思ったことをそのまま口にする。


「あんたは、この世は生きづらくないのか?」


「真冬…東雲 真冬。好きに呼んで。あんたじゃ誰が誰か分からない」


それは答えになっていない。そう俺は思ったが、少し考えればあぁ…と納得した。この質問に意味は無い。


(人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう…)


つまり、彼女が言いたかったことは…

「さっきの質問は愚問だったな。もう一度質問だ。真冬、そんな狭苦しい世界で…君は何をする?」


彼女は空から目線を俺の目にしっかりと合わせる。そして、先程とは違う明確な意思を感じる力強い瞳でこう言った。


「ボクは小説を書く。ボクが、ボクのために書く。ボクだけの世界を、ボクしか理解のできない世界を書く」


俺からすればそれは孤独だ。とても悲しく、淋しい。そう感じるが、そうじゃない。彼女は淋しいなんて感じていない。多分、彼女は理解されない。彼女と同じ目線で語れる人は何処を探しても見当たらない。彼女の語る世界は1人で完結している。この世界とは全く異なる。俺達が他の人と助け合い、協力するなら、彼女は1人で物事を解決する。解決できないことは仕方ない。そういうものだと妥協するだろう。そこに他人というものはなく、常に自分だけ。生まれた時からその世界で生きる者に孤独という概念はない。


「…悪いけど、今真冬が見ている世界は人の世じゃない。俺からすればその場所が人でなしの国だ」


彼女は驚きに目を丸くする。そして、立ち上がって、憐憫を帯びた目で一言。


「君も同じだろ」


そして、彼女はその場を後にする。ひらりはらりと舞い落ちる桜の花びらが重なって、その後ろ姿があまりにも遠く感じた。でも、それに手を伸ばせば届く。そういう確信もあった。だからこそ俺は…


「今、決めた。お前を1人にはさせない。お前より、もっといいもん書いてやるよ!」


大声で叫ぶ。


彼女は予期していたように振り返り、そして儚げな笑みで一言、こう呟く。


「待ってる」








「…………はぁ」


懐かしい夢を見た。


真冬は昔からあーいう性格だ。そして、天才だ。

今日は土曜日だ。俺は二度寝をする前に現在の時刻を確認する。


3:19分、早起きもいいところだ。


俺はなんの迷いもなく瞼を落とした。


意識の落ちる瞬間、あのふわりとする体の感覚。疲れていればいるほどにあの快感が強くなる。前日、真冬と会ったお陰でより疲れが溜まっている。彼女は他人のことを考えない。故に付き合う側にはそれなりの負担がのしかかる。昨日の会計のあと、彼女はそそくさと帰ろうとするが斜めがけのショルダーバックを椅子に忘れていたので、俺が急いで届けようと店を出ると、もう彼女の姿は見えなくなっていた。電話をかけても出ない。それもそうだ。バックに携帯が入っていた。


そこから1時間。彼女が行きそうな場所を手当たり次第に探し回って真冬を見つけた時は多分俺は涙目になっていただろう。


兎に角、彼女といると苦労が絶えない。


そんなことを考えているうちに、ウトウトと意識が落ち始めた。


そのまま意識の無くなる寸での所で電話がかかる。


(何時だと思ってんだ…こんな常識のない時間に電話をかけてくるのはあいつしかいねぇよ…)


俺は電話を取り、切る。


するとまた電話をかけてくる。さすがにイラつくが、出なければ彼女は永遠とかけ続けるだろう。


俺は面倒臭いが睡眠の邪魔をされたくもないので通話に対応する。


「真冬…今何時だと思ってる?」


「なんで切った?」


「あのな、一般人はこんな時間に電話をかけても普通は出ないんだよ」


「でも、君は電話を切った。そういう事だ」


どういう事だよ。その言いたいツッコミを飲み込んで、聞く。


「昨日十分話したろ。次はなんだ」


「夏目 遙真先生。共著の依頼だ」


俺はその言葉が聞き間違いでないか、その瞬間に何回も脳内確認する。


(共著…共著か…)


何度確認してもしっくりと来ない。特に、真冬からそれが提案される事に違和感がある。


真冬は1人で完結している。逆に言えば彼女は1人だからこそ美しく、幻想的で儚い。そんな印象を与える小説を書ける。現に彼女の最高傑作とも呼べる小説は今まで読んできたどのような純文学とも違った。


純文学は現実を書くもの。そして如何にしてそれを表現するか。


彼女は例に埋もれず、その作品は私小説だった。だが、彼女の体感する世界は普通ではない。彼女が体感した事。つまりは現実のはずだ。なのに泡沫の夢でも見ているかのような不思議な感覚に陥る。読めば読むほどそれが現実か、非現実か分からなくなる。そして惹き込まれる。


その世界を俺が書くことは出来るか?無理だ。仮に真冬と全く同じ感性を持っていたとしても不可能だ。俺にはそれを言葉にする技術はない。あのように表現出来るほどのセンスも持ち合わせていない。


だから、俺は彼女を天才と称する。


俺は溜息をつきながら質問する。


「真冬は純文学を得意としているだろ?俺とは合わない。他の作家を頼れ」


「ボクは君に依頼する。君じゃなきゃダメだ」


その声にどこか切なさを感じて、俺は溜息をつく。


「分かったよ…明日、いつもの喫茶店で13時。そこで話し合おう」


俺はそう言って会話を切り上げる。だが、彼女はそんなことは関係なくそれを聞いた途端に通話を切った。


「ほんとに自分勝手だ…」


そこからは又、昔の夢を見るのだった。










「…そろそろ時間かな…?」


ボクは四徹目の怠い身体に鞭を打ち、デスク用チェアから立ち上がる。


いつも通り、遅めの朝食に程よく焼き目の付いたトーストと牛乳、そして蜂蜜のたっぷり掛かったヨーグルト。


トーストはサクッとした食感が好きだ。然し、今日は焼きが少なかったのか好ましい歯ごたえは無く、芳ばしさも少ない。


牛乳は仄かに甘く、口当たりが良い。トーストと合わせるにはこれ程良いものもない。だが、今日はトーストの仕上がりが今ひとつだったので、牛乳の良さもいつもほど感じない。


ヨーグルトはいつもよりも美味しく感じた。というのも今日は蜂蜜の量をかなり増やしたので疲労の溜まった身体にはちょうど良かったのだろう。

朝食を済ませ、今の時刻を確認すると11:05分だった。


朝にシャワーを浴びるのを忘れていたので今から浴室に向かう。昔は髪が長かったので乾かすのは手間だったが今は短い。俗に言うベリーショートヘア。ボーイッシュな髪型だ。


遙真に見せた時、なお一層…と言われたが大事なところから後が聞こえなかったので何を言いたかったのか分からない。でも、その髪型も十分似合っているとの事だ。…興味はないが。


湯浴みも終わり、髪も乾かしてもまだ12時前。いつもの喫茶店に着くまで家からだと徒歩30分程度だ。


遙真と買い物に出かけた時に選んでもらった特に変わった所もない薄手の白いワンピースにジーパン、そして白いニットキャスケットを被る。遙真と会う時によく着るいつも通りの服装。


それでまだ時間は12時を少し回った程度。ボクは黒いスニーカーを履いて、バックに財布と携帯を入れて家を出る。


セミの鳴き声と強い日差し、そして纒わり付くような暑さ。暑苦しいが、夏が嫌いなわけではない。特にこの季節の緑は鮮やかで美しい夏の風物詩だとボクは考える。若々しい彩度の高い緑…若菜色から、山などで良く見ることが出来る深碧。鮮緑や場所、時期にもよるが織部も楽しめる。植物以外にも澄んだエメラルドグリーンに染まる海で楽しい一時を過ごす事もまた、夏の風物詩と言える。


そう考えながら歩き続ける。ボクの経験則では、遙真は間違いなく遅れる。ボク自身暇なのもあるのだが…遙真の住むマンションへと向かう。


(時間にルーズな遙真ならまだ寝ているだろうな)


今日の天気は四徹した身体にはかなり堪える。ジメジメとした湿気と燦々と照らす太陽が確実にボクの体力を奪っていく。ゆらゆらと揺れる視界が疲労から来る視覚異常なのか陽炎なのか、その区別もつかない。


歪む視界に吐き気を覚えながらボクは歩き続けた。いつもより遠く感じる道を延々と歩き、ようやくマンションの前へと辿り着く。ここからはエレベーターを利用して816の部屋番号のある8階へと向かえばいい。


エレベーターに乗る。8階を押して扉を閉める。エレベーターの上昇する時の力、慣性力。物理は苦手だから合ってるかは解らないが…いつものなら下に引っ張られていると表現するのに今日は上から無理やり押さえつけられるような感覚があった。体調の善し悪しで感じ方が変わる。感じたことが変われば言葉にする時にさらに明確に変化する。それがとても面白い。


そして、今度は内臓がふわりと浮く感覚がある。無機質な音声と共に扉が開き、到着したことがわかる。開いた扉から入り込む日差しが強くて目が眩む。


「…このエレベーターの電気をもう少し明るいものに変えた方がいい」


ボクは不愉快だとそのエレベーターに舌打ちして816号室に向かう。言っても、エレベーターから出て左、そこから2個目の部屋。そこが遙真の住む816号室だ。


インターホンを鳴らす。だが、予想通り出ない。つまりはまだ寝ているのだ。


ボクは溜息をつき、玄関のドアを目一杯蹴る。次に大声で


「遙真ぁ!起きろぉ!」


と叫んだ。


すると中からガサガサと荒々しい物音とともに鍵の開く音がする。


「あぁ…真冬…中に入れ。あと近所迷惑だ」


寝癖のついた髪の毛、だらしのない寝間着、半分落ちた瞼と目やに。


「眠そうだね」


そう言いながら彼の家にお邪魔する。


前と同じく、潔癖症を思わせる程の埃の無さと几帳面に整理された本棚。必要な家具以外を排除した部屋は合理主義を感じさせる。


彼は大きな欠伸をしている。そして、気怠げにインスタントの珈琲を二人分入れてボクに渡す。


珈琲の落ち着く匂いがする。そしてボクはその香りが好きだ。インスタントと豆を挽いて一から作るものは香りも風味も全く違う。とりわけ品の良い香りと味わいを持つのは後者だが、個人的に前者も中々に良い。大衆的で鼻に馴染んだものは時に莫大な感覚資料を与えてくれる。


ボクは猫舌な事もあり、出来たての温かさを楽しむことは出来ない。それが歯痒い…出来たての温かさを想像するだけで体感…経験できないのは生殺しだ。


…あれ?


ボクは唐突に気になったことを遙真に訊ねる。


「…遙真。さっき起きる時凄い物音が鳴ってたけど、何をしたんだい?」


彼は珈琲を口に運びながら苦笑いを浮かべている。


「ベットから落ちた。真冬があんな起こし方をしなければ良かったんだがな」


「それは悪い事をしたね。でも、遙真も悪いだろう?なんで予定時刻に起床する」


「ただでさえ日々面倒臭い講義をして疲れが溜まっているんだ。なのにあんな時間に起こされて…」


ばつが悪そうにそんなことを言うが、こっちだって四徹してるんだ。そんな慢性的に溜まった疲れとは比べることすら烏滸がましい。ボクの方が心身ともに摩耗して今にも擦り切れそうだ。そも、あれだけの質の良い講義、面倒臭いと感じる人間の行えるものでは無い。


「…なんだよ真冬…俺悪いこと言ったか?」


「あぁ言ったよ」


そう言って少し説教しようかと立ち上がるとふわりと体が浮く…もとい力が抜けた。視界は真っ暗になる…


そこでボクの意識は深く落ちていった。












「…寝てた…いや、気絶かな」


まずは体を起こしてぐるりと周囲を確認する。


本当に何も無い質素を通り越して気が変になりそうな部屋。色は白の単色。それで囲まれた部屋は刺激がない。人が正常に生きるためには刺激が必要だ。刺激を得ることの無い人間は人生をつまらないと判断する。この部屋は実につまらない。毎日毎日この部屋で目覚めるのだと思うと寒気がする。


この部屋にはベッド、毛布…つまり寝具と時計以外に何も無い。強いて言うなら入り込む日差しぐらいだ。


「…遙真、病んでるのか?」


すると部屋の端にある扉が開き、溜息をつきながら入ってくる。


「失敬だな。何も病んでないだろ」


そう言ってお茶を渡してくる。


「そうか?十分に病んでるよ遙真は」


ボクはそのお茶を飲みながらぶっきらぼうに答えた。


朝から牛乳しか飲んでいないので喉がカラカラで、それをわかり易く伝えるなら乾物だろう。それが一番伝わりやすい。


そんなボクにとってそれはただの麦茶でも様々なものを与えてくれる。


「…ありがとう」


心からの感謝に彼はとても申し訳なさそうに頭を下げる。


「悪い…お前の顔色が悪い事に気付いていればあんな事にはならなかったのに…」


ボクが倒れた事に対する謝罪か、否だ。何故なら遙真は何も悪くない。勝手に徹夜して、勝手に疲れを溜め込んで、そして意識を失った。原因は全て自分にある。彼が謝っている理由はボクの事を考えず自分の方が疲れることをしていると言う発言だろう。


然し、それは謝らなくても良い事だ。ボクが普段どんな生活を送っているのか知らない彼が自分の方が疲れているという発言をしてしまうのは仕方の無いことだ。


わざわざ口に出して謝罪するという事はそれでも謝りたいということだろう。


ボクは遙真にお茶の入っていたコップを返して、すっかり忘れていた今日の本題を切り出す。


「…共著。引き受けてくれるかい?」


「その前に真冬。1つ聞きたい。何作掛け持ちしている?」


「6作だよ。それがどうした?」


「…そうか。なら共著は無しだ」


遙真は呆れたとでも言うように溜息をつく。


彼のその言葉に耳を疑った。彼なら引き受けてくれると思っていた。だって…


「君は…高校時代の約束。忘れたのか?」


「そんなことはどうだっていい…兎に角今はダメだ」


「そんな…遙真!君はボクとの約束を破るというのか!?なんで…!」


『真冬。お願いがある。共著をしよう。君がいいと思う時でいい。俺達2人しか出来ないような最高の物語を書こう』


あの日、あの桜舞う木の下で交わした約束を、今なら…今ならば出来ると…今なら過去最高の傑作を作れると確信して声をかけた。なのに…なのに…


「君には心底失望した。小説を書かなくなったばかりか、約束の一つすらまともに守れない人間と…一緒に物語が作れるものか…!」


ボクはベッドから立ち上がりそのまま遙真の家を出ていった。








昔、ボクと遙真は高校で小説を書いていた。互いに自分の書いたものを見せあってここはこうした方がいいだとかこの表現は凄いだとか、そんな風なことをしていた。


そのうちにボクらは書いた小説を新人賞に応募してみようという事になった。


どのジャンルの新人賞に応募するのか、そう言う話し合いをした。彼は大衆小説の部門がいいと言っていた。だが、ボクは純文学に応募したいと言い意見が割れて少し言い争いになったが彼は面倒臭そうに承諾した。


結果はボクが最優秀賞。彼が佳作だった。


然し、その評価は妥当ではない。


彼の作品はどう読んでも純文学ではない。大衆小説だった。…いや、それも違うのかもしれない。それは彼が決めることだ。


ボクの書き方は至って普通だ。大衆小説などと比較するなら回りくどい表現だと言われても仕方ないと思う程度の言い回し、難解で読むのが苦痛になるような、そんなチープなものだろう。


だが、あれは違った。あれは物語性が高い。そして遙真の特色も出ている。遙真の書く世界の住民は鮮やかだ。美しく、輝く宝石。人物の感情が如実にこちらに伝わる。そこで複雑に絡む人間関係が読み手にその物語がノンフィクションであると錯覚させる。それほどの完成度と表現力を持ち合わせているが、彼は純文学というジャンルに限ればあまりにも才能がなかった。


普通に読めばそれはただ、完成度の高い物語小説でしかないのだ…普通に読めば。


ボクは読んでて、何処かに違和感…引っ掛かりを覚えた。あれはよく脳裏に残っている。


(あれ…これは、なんだろう?)


彼は最高傑作と宣った。普段の完成度のままで…それが違和感を確信に、より堅固なものとした。


それは男女の恋愛物語、遙真が得意な系統。綺麗で甘美、それでいてほろ苦い。様々な感情の渦巻くそれは彼の力を1番と言っていいほどに発揮出来るもの。代名詞と言ってもいい。


違和感は読めば読むほど強くなる。そして、読み終えて確信する。これはある一点において、並の純文学を超える。


彼はなんと中の登場人物ではなく、その世界そのものを1人の人物とした時、悲しいほどにリアルで、苦しいほどの絶望を与える。


彼の応募作品はどこまでも現実的だ。なのに、最後に登場人物のハッピーエンドで終結した。それがボクには腑に落ちなかった。勿論、恋のライバルや手助け役もいて、それぞれ幸せな最後を迎えていた。だけど、文章の端々に疑問を抱くような表現をしていた。ヒロイン視点で話が進んでいるのに、まるで他人の事を話しているのかとでも思うような言い回しをしている。そのような言い回しの理由を理解した時、体の底から怖気立った。


…そんなこと、そんな表現…およそ人間に出来ることではない。彼は間違いなく「天才」だ。逆立ちしても彼には敵わない。


彼は言った。そして、走り去った。


ボクはその彼の言いたかったこと、その小説から読み取った事を理解した時、形容し難い胸の圧迫に苛まれ、暫く目の前の世界は歪んで見えた。今までの既知は崩れて混沌とした醜い裏側を覗いた。綺麗だと思っていた夜の街のネオンは気味の悪いほどの甘ったるさで、爽快感のある炭酸飲料は全身を舐め回されるような、まるで爽快ではない。


ボクにとってあれは言うなれば良くない薬、ドラッグだ。


そんな天才的な作品が佳作?有り得ない。最優秀賞は彼のものだ。


それを選考委員会に言いに行っても全く取り合ってすらもらえなかった。


歯痒い…本物の天才が書いた小説が大したセンスのないボクの書いたものより下という評価を覆せないことが苛立たしい。


だから、結果的にボクが最優秀賞だが、本当に凄いのは彼だ。


なのに今、彼はその才能を発揮する事をやめて教職に就いている。それはいい、遙真がやりたかった事がそれならボクがとやかく言う必要は無い。

本当に問題なのは、彼がした約束を彼自身で反故にしようとしているという事だ。


ボクはやりたい事、したい事に対する怠惰を嫌う。欲しい物はどうやったって手に入れる。

彼は、物書きが本当にやりたい事ではなかったのだろう。


我を忘れて遙真の家を飛び出してきて、どこへ向かうわけでもなく歩き続けた。


高層ビルが並び立つそれは昔も今も変わらずジャングルのようだなと中身のない感想を抱く。

瞳が濡れる。何故だろう…今のボクでは考えても分からない。


拭って今度は空を見る。もう暮れだ。深紅の日が地平の彼方へ沈み込む。街並みは黄昏色に染まり、混沌とした中に美しさがある。然しその美しさは儚さの中に莫大な悲愴感を内包しているような気がして空っぽな笑みが零れる。


「定番なら、ここで曇天の空。又は土砂降りの雨だろう…」


情景描写というものが現実で起こるなら、それは毎日が大雨や曇り空になる。快晴なんて望めないだろう。


そして、この程度の皮肉しか出てこない程病んでるのだろう。


暗くなり、煌びやかに彩られたその街並み。空に浮く3日月に薄い雲がかかる。だが、それは今の心情を表すには程遠い、幻想的で優美な光景だ。


美しく整った景観だ。視覚としてそう認識してもボクは素直にそれを受け取る事が出来なかった。ボクには目の前の風景が虚飾に満ちていて、一皮剥けばそこに凄惨な地獄が広がっているように感じた。


「あぁ、やっとわかった。ここが楽園の果てだ」


…いつだって約束を破った者が罰を受けるわけではない。この世には欺瞞と不条理に満ちている。それを文明の進歩によって得た技術を用いて飾り付ける。それがボクには恐ろしく傲慢なことに感じた。


空の月にかかっていた薄雲はいつしか無くなっていた。先程まで霞の中にただ悠々と佇んでいただけの三日月が、その姿を晒す。


ボクは、嗚咽をもらしてそれをただ眺めた。












どうやら俺は真冬の機嫌を損ねたらしい。しかも、あれ程に怒りをあらわにする真冬は見たことがない。


「はぁ〜…言い方が、悪かったか…」


正直、自分でも思ったのだ。明らかに誤解を招く表現をしてしまった。


俺はあくまでも彼女を思っての発言だ。そして、どう考えてもあれ別の受け取り方が出来るとい思えない。問題は、その次だ。


『そんなことはどうだっていい…兎に角今はダメだ』


これはダメだ。この言い方は俺からの約束を勝手に破った、蔑ろにした。そう受け取られても仕方の無い言葉だった。


だからと言って、その発言が間違いだったとも俺は思っていない。適当に流してみようものなら間違いなく彼女と共に執筆することになっていただろう。それは、彼女の仕事量を増やすという事だ。そうすれば彼女がまた倒れてしまうかも知れない。


昔の彼女の生活リズムはとても整っていた。だが、今は違う。俺から見ても彼女の生活は良いものとは思えない。それが仕事だから仕方が無いとは言え、ハードワークがすぎている。


「………よし、電話しよう」


俺は思い切って彼女の担当編集者に打電することにした。


真冬の担当編集者は真冬とはある意味真逆と言っていい性格だ。真冬は基本自己中心的な思考、しかも歯に衣着せぬ物言いをする。他人に対して気に食わないと思う点はすぐに指摘する。


彼女は環境に適応するのではなく環境を作り替えることで今まで生きてきた。然し、彼女の担当編集者はそうではないのだ。彼女は一言で言うなら適応型。環境にすぐに馴染んでしまう。そして、それは真冬とは相性がいい…いや、良過ぎると言うべきか…


(初めからそんな気がしてたんだ…)


正反対の性格だが、相性が悪いわけではない。ただ、真冬の性格、自分のやりたい事を優先させる性格を促進させてしまう。そうなれば自身の体調なんて気にしない。執筆活動をいつまでも続けるだろう。


それに対して、彼女は何を思うのか。それも聞いておきたい。


コール音。1回で応答する。相変わらず反応が早い。


「やー、いい天気ですねぇ〜」


電話を挟んでも尚美しい、軽やかで澄んでいる。けれど何処か落ち着きのある声。


俺は窓から空を眺めながら見える風景を皮肉混じりに伝えた。


「そうか、お前にとってのいい天気は朱色に染まり、かつ昼でも夜でもない半端な空模様の事を言うんだな。よく理解したよ」


彼女がどこにいるのかは知っている。そして、今俺がいる場所とはさほど離れてはいないので天気は変わらないだろう。


窓から見えた空は不気味な程に赤い太陽で、それが地平の彼方へ沈み込む。それを追いかけるように、又は空いた空間を埋めるように夜が段々と空を静謐に染め上げていく。然し、太陽はまだ沈まず夜もまた、完全には侵食しきれてはいない。これを半端以外に受け取る事が俺には出来ない。


その太陽の西日が部屋に流れ込む。橙に壁が染まり、テーブルに置いた赤い林檎が照らされてより一層、瑞々しく目に映る。


俺は太陽を紅い果実と‴誤認‴する。


そう、誤認だ。誤った認識、然しその瞬間は本当にそう思った。赤く紅く熟れた果実だと思ったのだ。


そんな事、小学生でもわかる。有り得ない事だ。講義中にでも言おうものなら間違いなく笑われる。失笑されるだろう…いや、嘲笑の方が正しいかもしれない。


さりとてそれが一概に悪いとは思わない。特に、俺や真冬はそうだ。


持論だが、小説家は嘘を書くものだと俺は考えている。純文学も私小説とはいえ、やはり全てが事実というわけではない。どこかしらにフィクションが含まれている。物語小説なんて、1から10までフィクションだ。


フィクションは嘘である。


このような考えで今まで生きてきた。そして、俺は嘘というものを拒絶する程に嫌う。だから、俺の手掛けた小説は出来るだけ現実に近づけようと努力した。


努力して、努力して、また努力した。然し、自分が書いてきて成功だと思ったのは1作だけだ。それも所詮佳作止まりでほとほと自身の才能のなさに反吐が出る。


だが、真冬は違う。彼女の私小説は幾ら現実味がなくともそれは本当のこと、実際に彼女が経験した事だから事実なのだ。だから、彼女の小説に俺は心の底から憧れた。


そして彼女の執筆速度は異様だ。驚く程に早い、それも俺が知ってる中で彼女は高校卒業…つまり、18歳から8年間で既に80冊以上の小説を仕上げている。1年で10冊、1ヶ月で約1冊のペースだ。


勿論昔からこうだったわけではない。高校卒業するまでは早くても半年かそれ以上の制作期間があったのだ。今のペースがどれだけ異常かよく分かるというものだ。


それについてどういう考えをしているか、通話相手の担当編集者、不知火 麗羅に聞いてみる。


「なぁ麗羅、あんた真冬の執筆ペースどう思うんだ?」


「早いですよね〜、親のコネで高校卒業の新卒で編集者になる前から親の仕事を少〜し手伝ってたんですけど正直、いつ倒れるか不安ですね」


「倒れたぞ、ついさっき、俺の家で」


「へぇ、東雲先生は今どこに?」


その声は先程までのやんわりとした、子供を諭すような口調ではなく冷徹で酷薄な口調に変わる。


「知らないよ。怒らせたら俺の家から出てったきりだから」


「東雲先生を怒らせるなんて、どんな事を言ったんですか」


彼女は問い詰めるように言う。尋問と言っても差し障りのない緊迫感を通話越しからひしひしと伝える程に感情のない、威圧感のある声。真冬の作品は私小説で全てが事実である性質上、機嫌が悪くなると顕著に作品に表れる。立場的に、彼女の機嫌次第で作品の出来に問題が出る事が怖いのだろうか?どうだろう。俺は昔から麗羅の思考は読めない。解りづらい、ただ難しいのだ。これが女心なら本当に難解な生き物だなと思う程に。


「まぁいいでしょう。あなたの尻拭いは私がしておきます…で、何用ですか?」


何用、はて?もう用事は済んだような…否、あった。麗羅に真冬の執筆ペースに関するお願いをしておくべきだった。


「真冬の仕事量を減らせないか?」


「う〜ん、難しいですねぇ〜。だって、真冬ちゃん自身で決めた事ですし?自分で作った仕事みたいなものですし、なんなら〆を破る事もしないですし〜」


その言葉から真剣さを感じる事は難しいが基本的に麗羅は丁寧に、柔らかに、オブラートに包んで伝える。彼女とは古い付き合いだが、昔からこうだったわけではなく変わったのは中学に上がった頃ぐらいか…それまではもう少し粗暴な言い回しをしていた。


今回の場合は『私は言われた仕事してるだけで、彼女が勝手にやってるだけだから関係ないしなんなら興味もねーよ』と、昔の彼女風に言うならこのような具合だ。


俺はため息混じりに聞き返す。


「つまり、関係ないって言いたいんだな」


「いえいえ、そんな事ないですよ〜?だって、彼女の出す成果はとても高い。そんな彼女が倒れたりしたらどれだけの損失を会社に出すか分かりませんし〜…そういう事ですか。分かりました。こちらも気をつけるようにしましょう」


彼女はそう言って一方的に通話を切った。


胸中でため息をつく。


何故自分の周りはこうも変わったのばかりが集まるんだ。


苦悩の尽きない日々に辟易する。そもそもの話、大学に行って教師免許を取得して…何故教師になった?いや、まずなんで教師免許を取った?俺は何になりたかった?


自分が何を目指していたのか、終着点を見失った時に原点を…と歩いてきた道を振り返る。だけど、そこに答えがあるとは限らないものだ。どこまで遡ればそれが分かるのか、それすらも分からないことが多い。


…何故ならそういうものは大抵とてもくだらないものだから────


思い出せないのに、郷愁の念が胸を圧迫し、締め付ける。俺はそれが何だかとても苦しくて、辛くて…思い出すのをやめた。













はぁ、眠い。


私は夏目 遙真という人間からの通話を切って、すぐに東雲 真冬の所在を調べた。


幸い、携帯を持ち歩いていてくれたお陰で特に焦る必要は無いことを確認した。然し、問題は彼女、真冬ちゃんにある。


彼女はとても可愛らしい見た目、完璧に造られたような造形美。あれが神様の作った作品なら、世界中がスタンディングオベーションで称えてもおかしくない。それほどまでに整っている。凛々しい瞳にどこまでも深く黒い髪を短く切りそろえられており、ちょんとした鼻に小さめの口元、顔は童顔で本当に人形と見紛うような美しさと可憐さを兼ね備えた女性だ。


時間は8月の為、外の薄明るさが不安を募らせる。時刻はもう7時を回っているのだ。


心配だ…彼女を襲いに来るような輩が居るかもしれない…そんな事になれば…


私は少し身震いする。そんな完璧な見た目の女性である真冬ちゃんに変な気を起こした人間が近づいてしつこくナンパなんてした時は…間違いなく事件沙汰になる…


遙真から聞いたことがある。高校の時、文化祭に来た別の高校の生徒に真冬ちゃんはナンパされたらしい。だが当の本人は人間というものが嫌いな上、法律を軽視している事もあり、高校生は痛い目を見た。具体的にはパイプ椅子で頭部を殴打されて脳震盪。酷ければ頭蓋骨にヒビが入っていた可能性もあったらしい。


結果、真冬ちゃんは3ヶ月の奉仕活動。2週間の特別指導の罰を受けた。下手をすれば裁判沙汰になりかねなかったのでこの程度で済んだのは運がいいと言うべきだろう。


…ここでの問題点は真冬ちゃんの性格、もとい法律などの規則に対する認識だ。


私が思うに彼女の中では自分が正しく周囲が間違っている。こういう考え方なのだろう。


…この考え方、思考方式は危険だ。


私はその危険性を十分に理解していたつもりだったが、認識が甘かったようだ。


私が1度だけ見た夢、それを不意に思い出した。


東雲 真冬が顬に銃口を当てて笑顔で引き金を引く…そしてそのまま奈落の底へ落下する。それを止めることも出来ずにただ呆然と眺める私…


…考えるのはやめだ。今は疲れた体を休めるべく、お風呂とご飯と睡眠を…


そう言って私はバスルームへ向かう。


OLと対して変わらない服装。ネイビーキュロットとボウタイブラウスを脱ぎ、下着のホックを外す。そのままプリンになった髪を洗い、少し痩せた体の汚れをしっかり落とす。次に疲れを癒すように浴槽で少しくつろぐ。


久しぶりの夏目くんからの電話。少し嬉しかった。


彼が普段何をしているのかは知っている。きっと、成功している。何せ、彼は才能がある。教師というものに対する適性がある。でも、私はそれよりももっと適性があるものを知っている。


1度、彼に聞いたことがある。『なんで作家諦めて教師になったの?』と、すると彼は『理想と違っただけだ』と儚げな笑みを湛えて答えた。


その時は正直勿体ないと心から思った。何故なら高校生が新人賞とは言えど佳作だ。しかも当時の様子を知っている私からすればそれは凄い結果だと思う。それはお父さんが真冬ちゃんの作品と遙真の作品を必死に吟味して、他の人とも議論して決まった。実際ならそんなに悩みはしない。新人賞なんて、芥川賞や直木賞と比較すれば対して重みがある賞ではない。無論、これからの作家人生を左右するだけの価値を秘めてもいるが…でも、それだけ悩むような高い完成度の作品を二人とも仕上げたのだ。だから私は遙真が教師になる時、勿体ないと思った。


…けど、考えてみれば作家にならない理由もまた浮かび上がってくる。


その自分の推測から鑑みるに彼が目指した作家の理想と自分とのギャップに辟易したのかもしれない。


だって彼にとっての小説は現実と切っても切り離せないもの、彼の性格は何を考えているか分からない、掴みどころのない人間だけど嘘はつかない。いや、つけないと言うべきか。


だから作家になること、小説家になることを諦めたのかもしれない。


「少しのぼせた…」


私はそのままお風呂から上がり、髪を乾かして一応真冬の所在確認をしておく。


どうやら自宅に戻っているらしい。


「ふぅ…疲れたし、ご飯はいいや」


ここ最近不摂生な食生活を続けている。お陰でやつれるに近い痩せ方をしているので、自分でもちゃんとした規則正しい生活を目指しているのだがどうにも上手くいかない。編集者本来の仕事はさほどしんどくはないが、真冬ちゃんの担当になると本来の仕事だけじゃ足りない。+‪αの俗に言う残業のようなものをするようになる。


最近同期から聞くのだが、どうやら私は普通の人の4倍以上働いているらしい。


その話を思い出して苦笑いを浮かべる。


「ハズレくじ引いたのかな」


彼女以外の担当に着いていない私はそう思った。それも入社早々のご指名だった。


「寝よ…」


そうぼやいて2階のベッドに向かい、そして倒れ込む。


近頃はずっとそうだ。自分にとっての癒しがお風呂とこのベッドでの睡眠。昔は好きだった読書だって自ら読もうとは思わない。


やりがいは感じる。達成感もまぁ…ある。でも何故か、父のように笑顔で仕事をする事が出来ない。


父の仕事している姿が本当に楽しそうだった、だからこの仕事をしたいと心から思った。だけど今はどうだ?楽しいのかすら自分でわからない。


早く寝る方がいい、これ以上は本当に苦しくなるから…


暗い部屋で瞼を落とす。それだけで強烈な睡魔が到来する。


私は、何も考えずそのまま意識を落下させた。









「ん…」


目が覚めた。自然な目覚め。いつもの様にアラームに意識を引っ張りあげられるのではなく自らの力で浮上させる。アラームで起きる時に感じる倦怠感も、自分で目覚めれば全く感じない。むしろ清々しくもある。


体をゆっくりと起こし、近くに置いてあるデジタル時計を見る。10:37分。


「…」


とりあえず、遅刻だ。


会社に連絡を入れようとため息混じりに携帯を探す。然し、見つからない。携帯アラームもセットしているのでバイブレーションでそのまま落下したのかと床も探すが、全く見当たらない。


「あぁ…昨日持って上がってないのか」


確実に怒られる。それは当然。社会人になって時間も守れないのははっきりと言って終わっている。


私は急いで下のリビングへ向かう。


階段で躓き少しヒヤリとした、そのまま段差を踏み外せば大怪我を負うところだが焦りがそれすらも些末な問題と片付ける。


リビングで携帯を取って画面を点灯させた時、そこに1つのメールと着信履歴があった。送ってきた相手は同じ、それも予想外の人からだ。


『君の寝坊はボクのせいにしておいたから、起きたらボクの家に来い』


なんとも言えない罪悪感に苛まれながらいつもの仕事着に着替えて家を出た。









「今日はどうした?疲れてるならそう言えば休ませてもらえるだろう?」


彼女は執筆の片手間に聞いてくる。


そうなのかもしれない。普通なら。


普通の編集者というのは複数の作家を担当している場合が多い。然し、例外はある。例えば1人で大量の作品を掛け持ちし、それをアシスタント無しで異常な速度で仕上げてしまう作家など。


1人で複数人分の作品量を誇る彼女に当初は複数人の編集者を彼女につければいいと考え、実際それで7人の編集者を彼女の担当とした。然し、彼女の与えてくる仕事量と性格が相まって担当を下ろして欲しいという編集者が次から次へ続出した。


今思えば彼女は試していたのかもしれない。


過去に彼女は自身の作品を「潔癖」と皮肉っていた。それは暗に自分の作品を誰にも触れられたくないという意思表示であり、その完璧主義に等しいまでの彼女の創る世界を土足で踏み荒らしそして汚してくる者たちに酷い憤りを感じていたのだろうか。


私は彼女に質問した。


「東雲先生はなぜそこまで私に気遣ってくれるんですか?」


これは率直な疑問。「なぜ私をアシスタント兼担当編集に抜擢したのか」という内容でも聞いた。


「言ってなかったか?遙真の推薦だからだ」


「夏目くん?」


予想の斜め上の回答に私は心底驚いた。


彼女は手を止め、ゆっくりとこちらへ振り返る。心無しか顔に笑みを浮かべ、続けた。


「ボクの元へ来る編集者は皆、気に食わなかったんだ。これは互いにという意味でだ…何故だと思う?」


「編集者は先生の無茶な要望に初めはそれなりに答えていたと聞いています。なら、段々辟易してきたのでしょう。先生は人のこと考えないから」


私の回答に頬を膨らませながら彼女は言ってくる。


「なら、ボクが気に食わない理由は?」


「推測でしかありませんが、先生は編集者の人達に文学的理解力を期待していなかった。そしてその予想通り、先生のお眼鏡に叶う人がいなかった?」


「正解だよ」


意を得たりと彼女は頷く。そして心底嬉しそうに彼女は言ってきた。


「麗羅、君は良くも悪くも物書きの才能は皆無だ。なのに、なんでボクのアシスタントが務まると思う?…それは、別の才能は麗羅は持ってるからだ。それはなんだと思う?」


彼女はデスクに置いたコーヒーカップに口を付ける。そして一呼吸置く、理由は私に時間をくれているのだ。私が記憶を漁り、発言の意味を理解し、自分で答えを見つける為に。


「……すみません。わからないです」


「当然だな。それは有り体にして才能ではない、才能と認識されない。然し、ボクや遙真からすればそれは凄い才能なんだ」


「それはなんですか?」


「…秘密。言わないさ、こう言うのは自分で気付けたときにどうするかを考えるのが大事だ」


「そうですか」


彼女が私にここまで話してくれるのは珍しい。その事実が私に少しの不信感を与える。機嫌がいいのとは少し違う。どちらかと言うと辛い時、誰かと話したいと考えてしまう心の弱った状態。それに近い。


私は話を聞きながらそう考えていた。昨日の今日だ。人間は強くない。感受性の強い人間ほど弱いものだ。まだ少し引き摺っている、そんな気がしたが、彼女の話し相手になってあげるのが今、1番の選択だと思う。


「先生は、今までで1番凄いなと思った人、才能があるなと思った人はいるんですか?」


「いっぱいいる。三島由紀夫とか、ボクは凄いと心から思ったさ」


「あ〜、先生らしいですね」


私は苦笑いを浮かべた。そして彼女は無邪気に可愛らしく笑う。私は今まで生きてきて会って来た人にいるか?と聞いたら彼女は分かった上でそう答えた。


「…そうだね、やっぱり遙真かな。ボクより凄い才能を持ってるよ」


少し辛そうに答える。これは多分昨日の事を思い出してだろう。


彼女は天才だ。それは彼女の名を知ってる人なら皆口を揃えてそう称する。その彼女がここまで言う夏目 遙真という人間。然し彼はまだあまり名を知られていない。世に出た作品はあの1作だけだから、それだって彼女の作品の元に置かれてしまえば霞んでしまう。普通の人にとってあの作品は難しすぎた。


あれは、ある意味では曾祖父と同じ失態と言って違いないと私は思う。方やただただ難解な文章で物語性を損なった小説、方や美しい文体と細部まで丁寧な心理描写、両者に共通するのは真の意図が伝わる相手が本当に限られるということ。


私は何故かそれを悲しいと感じた。


「…麗羅、君は本当に優しいな」


「急にどうしたんですか?」


彼女は微笑み、私にこう伝える。


「彼は伝わらないのを前提であの作品を書いたんじゃないかって、最近思うようになったんだ」


驚愕に目を剥く私を置いていくように彼女は続ける。


「言うなれば童話と同じ、あれは意味が分からないうちは美しい恋愛小説で分かってしまえば途端にホラーに変わるんだ」


それを聞いて納得する。確かにそうなのかもしれないと感じる。でも、まだ思考は追いついていない。自分の理解できない領域で物事が進む感覚。


「そして、その手の作品を手がける人間は有り体にして捻くれ者なのさ」


そう言って、彼女はまた作業に戻った。私はその言葉の意味を言葉としてしか理解できなかった。


そこから体感としてかなりの間沈黙が続いた。今、頭の中を整理する時間としてこれを使っているがまだ分からない。彼のその作品、言わば彼自身とも取れるものを感覚で理解するのが正解なのか、もう少し理詰めに考えた方が良いのか、それは今の私には到底推し量ることの出来ないものだった。だが、これは考えなければならない事だ。でも、その答えは単純明快なものだと言うのも何故か分かってしまう。


私は彼の難解な作品の奥底に触れたいと真に願いながら、それに触れることの出来ない歯痒さに悶々とした。


「今日は呼んでおいてなんだが、する事は特にないよ。休んでもらって構わない」


その言葉で思い出す。


「そう言えば先生、提案なのですが先生の掛け持ちしている作品のうち、全部を一時休止するというのはどうでしょう」


訝しむような目で彼女は見つめてくる。


彼女の、東雲 真冬の生きがいと言って差し障りないものを奪うに等しいこの言葉に。


「…麗羅、言っている意味は分かっているのか?」


少し怒気を孕んだ言葉に私は少したじろぐ。然し、今の彼女がしたい事はたくさん掛け持ちした作品を手がけることなのだろうか?私は違うと感じた。


「真冬ちゃんは、夏目くんと共著をしたいんでしょ?なら、それぐらいの条件はのんでよ」


「…麗羅、君は聞いたのか?なら話は早いな。遙真がやりたくないと言ったんだ。ボクは強制しない」


随分と話が拗れている気がする。怒らせてしまったと彼は言っていたが、実際どのように怒らせたのかは聞いていない。


「彼は、なんて言ったの?」


「共著は無しだ」


その端的な言葉に私は眩暈を覚えた。


(そりゃ怒るよ…私だって怒るし)


彼女はなお一層怪訝な顔をする。今気付いた、私は呆れ笑いを浮かべていたようだ。


彼女は、少し疲れていたんだろう。それで答えを急いだ。それで彼女には珍しい言葉の取り違えが起きたのだ。逆に彼は言葉足らずだった。普段からよく人を見ている彼が、彼女の状態に気付くことが出来なかったこと、今回のすれ違いはまとめればこんな所だろう。


「真冬ちゃん、昨日夏目くんから連絡があったの。仕事量を減らせってね…これってさ、彼なりに心配してくれたんじゃないかな?」


彼女は黙ったまま下を向く。彼女は気付いたんだろう。その過去の行いに対して今の彼女が何を考えているのかは私には分からない。でも、きっと後悔してると思う。だからこそ私は彼女に、友人として、もうひとつ苦言を呈する事にした。


「真冬ちゃんさ、夏目くんの事あんまり分かってないよね。彼が自分の為に行動する事って少ないんだよ。彼がやりたくないって理由だけで貴方の提案を無下にするような人じゃないの」


「分かってるよ…」


それにまだ続きを言おうとしたが、前髪に隠れた瞳が濡れているのを見て、私はこれ以上の言葉を控えた。


分かってる。真冬ちゃんはもう分かってる。自分のとった軽率な言動が如何に彼を心配させたかをこれでよく理解した。だから、次にかける言葉は仕事として、ビジネス的な言葉遣いで聞いた。


「真冬先生。もう1度聞きます。掛け持ちしている作品、一時休止してもよろしいですね?」


「構わない。話はそれで終わりか?麗羅」


「えぇ、私はする事がありますのでここで失礼させていただきます」


私はそのまま会社に向かう。どうやって編集長を言いくるめるか、それだけを今は考えればいい。今の彼女なら夏目くんと何か言い争いになる事はないだろうから、私は彼女達が作業のしやすい、何の心の枷もないような環境を作ることにだけ必死になればいい。


昨夜のような倦怠感はもうない。寧ろ体が心做しか軽く感じる程だ。


そんな、軽やかな足取りで私は彼女の家を後にした。








「遙真、もう1度言う。共著の依頼だ」


「なら、作品はどうなる?真冬のしている作業はどうする?」


電話越しに聞こえる声はとても落ち着いている。その発言内容や声の抑揚から感情が伺えない。プラスチックのような味気なさ、冷たさを感じた。


ボクはそれを普段なら恐れていたかもしれない。何故なら人が怖いから、自分以外の人間が何を考えているのか分からない事が怖い。でも、今は違う。彼はきっと心配しているんだ。ボクの事を心配してくれているから、そういうことを聞く。正直お節介だけど、今のボクにはそれがとても暖かく感じた。


それに少し吹き出した。


「どうした?何かおかしい事を俺が言ったか?」


「遙真のも言葉文字通り受け取るととても冷たいけど、ボクはそれが暖かいと感じたんだ。おかしいだろう?人は目の前の事実をそのまま受け取らず、1度自分のフィルターに通すんだ」


「真冬の言うことはいつも難解で理解に苦しむけど、そこら辺は普通の人より人間らしくていいな」


「遙真は人間らしさはなんだと思う?」


「感受性だろ。まぁ、俺の場合は人と機械で比較するんだけどな。もっと言うと動物と機械だ」


それに素直に感心した。だからこそ聞き返してみる。


「じゃあ、遙真の言う獣と機械の違いを聞こうか」


「さっき自分で言っただろ?機械は事実を一つの視点からしか認識しないが、獣はそれをフィルターに1度通すんだ。中でも人間は何種類もフィルターを持ってるから自分でその事実をあらゆる視点から認識できる」


「へぇ、でもそれは人間らしさとは言わないだろう?少なくともボクはそう思う。だってそれじゃ人と獣に差異がない」


彼は電話越しで高笑いした。そして端的に。言い放った。


「違いなんてないだろ。所詮は猿だ。真冬は自分が動物じゃないと思ってるのか?」


その言葉に驚いた。彼がそういう事を言う人とは露ほども考えていなかった。彼は昔から全ての人に平等だから、そして親切だから、人の事をそう思っているだなんて考えられなかった。一方で納得する自分もいた。全てに平等ということは全てに対して執着していない、つまりどうでもいいから対応が変わらないという事でもある。


「なんだ君は、まるでニヒリストのようだよ?」


「今更か?」


多分、本人はキョトンとした顔を浮かべている事だろう。


長い付き合いだが、今分かった。彼があんな小説を書く理由が分かったがその事実があまりにも悲しくて、辛くてボクは泣きそうになる。


「遙真。嘘が嫌いなら、自分を偽るなよ…」


「いつ俺が偽った?」


ボクはそれには答えずに、一方的に話題を変えた。


「作品は一時休止した。君との共著に専念する為だ。明日、時間はあるか?」


「午後の3時からなら空いてるな。いつもの喫茶店でいいか?」


分かったと端的に伝えてボクは通話を切り、ボソリと独り言を呟いた。


「背伸びするからだろ…」


彼の世界の捉え方はボクよりも変わっている。全てに興味を持たず、全てを自分の中で無意識に『無意味』と定義付けしている。遙真の捉える世界は全てモノクロで色がない。いや、それこそ本当に虚無の中で生きてきたのかもしれない。通常の人間ならそんな世界にいては多分生に意味を見い出せない。つまりは死を選ぶだろう。人は刺激を無くしては生きられない。彼はいつからかは知らないがそういう世界にいつまでもいつまでも、今でも囚われている。


ボクは目を瞑り、その光景を夢想した。


自分以外に何も無い、寧ろ自己すらも曖昧になる深淵の海に沈み続ける。そこは音もなく色もなく、本当に何も無い虚無の海。狂いそうになる、壊れそうになる。既に慄えが止まらない、怖くて怖くて仕方がない。でも、何が怖いのかも分からない。何も無いのに何に恐怖を抱くのか、それが分からない。もしかしたら答えは『無い』のかもしれない。


ゆっくりと目を開く。見慣れた景色、特別なものなんて何も無い自分の部屋。それですら鮮やかで、美しい。この景色を見られる自分が幸福で仕方がないとすら思ってしまう。


悠久、そんな言葉が似合う程永く目を瞑っていた。それが体感なのか実時間なのか、ボクは確かめようと立ち上がる。


カーテンを開くともう日が落ちようとしていた。

この夕焼けはどんな色で映るんだろう。遙真はどのようにこの景色を捉えているのか。


ボクの捉えている世界なんて、普遍的なものでしかなくて、本当の天才は見ているものから全く違うのかもしれない。


でも、それは果たして幸せなのだろうか?私にはそれが酷く寂しくて淋しくて、シンと凍える程の冷たさを受けても誰も助けてくれない、分かち合う事も出来ない悲しい世界にしか見えない。


「悲しいけど、悲しくないんだろうな」


昔、彼が言っていた言葉を思い出す。そして、皮肉混じりに心中でこう呟く。


(君のいる場所の方が余程人でなしの国だ)









「麗羅、流石真冬の扱い方を心得ている」


俺はそんな独り言を呟いた。


殺風景な自室に夕陽が射し込む。それが段々と部屋を侵食していく。それを横目に眺めて、立ち上がって寝室に向かってベッドに横たわる。


無感動。何も感じなくて、なんとも思わなくて、いつからそうなったのかすら分からない。ずっとそうだ。昔からあらゆる事柄に好奇心を向ける事が出来なかった。いや、子供の頃は出来ていた。曾祖父の書いた小説を嬉嬉として読んでいた頃。あの独特の世界観、作品毎に違った表現を求め続ける研究熱心な姿勢。そのどこか学者じみた文章の中にチラりと顔を見せる耽美的な表現。不器用で、天才ではないと言う人もいるけど俺の中では曾祖父の書いた小説がその時は一番好きだった。惹かれていた。そして、そのような小説を書ける曾祖父を心の底から憧れた。


全てが好きだったわけではない。中には芸術性だけの内容のよく分からないものもあった。それでも俺は憧れていた。


でも、憧れは毒だ。希望も毒だ。心の拠り所になるものなんて大抵は毒だ。中毒になってるから依存する。その依存によって得られた夢や願いはやがて破滅をもたらす。特に憧れや希望が強ければ強いほど、夢と願いは肥大し恐ろしく増幅されて身の丈を容易く超える。そしてその身の丈に合わないものを求めてもそれが手に入る事はない。


夢は、願いは、必ずしも叶うものでは無い。当然だ。自分の許容範囲を超えてしまったものをどうしてできると思えるのか、夢を叶えられる人間は全て身の丈にあった願いということだ。それが分からないから人は過ちを犯す。


それが分かってからというもの、俺はどうやら抜け殻のようだ。


でも、失った…否、自ら捨てた憧憬を思い出させてくれた人間が1人いた。彼女は俺と同い年で変わり者だった。憂いを帯びた瞳の奥に鮮やかで美しい何かを隠していて、それに少し、何故か身がすくんだ気がした。今ならわかる。あれは世界を写していた。ありのままの美しい世界を写していた。それが、堪らなく怖かったのだ。


でも、それを怖いと同時にまた憧れてしまった。以前抱いていた夢も同時に思い出した。これは今思えば痛恨事だ。あんな事を考えなければまだ、マシだったのかもしれない。


彼女に感化された俺はかつての曾祖父に見せた小説を容易く上回ったと思う。当然、年端もいかない幼年に書いた文なんて稚拙で短絡的、見せるに値しないものでなぜ見せていたのかすら分からない。それを上回るのなんて容易だ。でも、俺は比較した。何せ、それ以外俺は小説を創作する事が無かったからだ。


でも、俺はそれを読んで呆れた。ほとほと自分の才能の無さに反吐が出る。何だこの表現は、この世界観は。下らない絵空事を綴った文は俺の心を締め付け、責め苛んだ。その時から薄らと実感していた。


そこで辞める事も出来たが、それを引き留めたのは彼女だ。


自分本位な彼女に俺はズルズルと引き摺られるように物書きを続けた。後に出来上がる俺の中での完成作以外は全部惰性で続けた下らないゴミの山。そして、その惰性と共に与えられた虚無を抱えている時間は恐ろしく長く感じた。あの作品の制作期間は構想を決めてから5ヶ月、構想まで含めれば10ヶ月。完成したのは10月、そこからは誤字添削をただひたすらに続けた。出したのは3年生に上がってすぐの頃だったか、その前後だった気がする。と、するなら俺が長いと言っていた期間は5、6ヶ月程度、普通の高校生なら長いなんて感じないだろうに、余程つまらない高校生活を続けていたらしい。


でも、それは置いておいても、あの作品は自分の中で完成してしまった。あれが本当に自分の作品なのか疑わしくなる程の完成度。でも、それより不可解なのは何故、あの作品にあそこまでの鮮やかな色彩が生まれたのか。あれは、何なのだろうか。


たまに読み返し、懐古の念を心に抱いてもその頃に色の付いた生活を送っていた記憶なんて一切ない。だから、不思議で仕方ない。


気が付けば、部屋に光は無くなっていた。


体を起こして窓際へ、空を見上げると雲が月を隠している。その雲がゆっくりと、緩慢に流れていく。段々と部屋が照らされていく。明るい光ではない、包み込むような、柔らかで嫋やかな光。


「月が綺麗ですね、か。ジジイの感性はどうなってんだろな本当に…」


呆れながら部屋の電気を点けて夕餉の支度をし始めた。








「で、共著のジャンルは決まってるのか?」


「それを相談する為にこうして話し合いに来たんだろう。何を言ってるんだ遙真は」


カップを持ち、紅茶を飲みながらそんな事を言う。


「…何も思いつかないぞ」


「はぁ、今はいいだろう。そのうちアイデアは湧いてくる」


次点で彼女は頼んでいたモンブランに手を伸ばした。冷たく刺々しい言葉とは裏腹にデザートを食べてる時に見せる表情は普通の女の子と何ら変わらない。


それを口に運びながらそう言えばと質問してきた。


「君はなんでそう暗いんだ。最近特にだ」


「暗いか?いつも通りだぞ?」


「嘘だな。自分でわかっただろう?君は相も変わらず下らない事に囚われすぎなんだ、遙真」


確かに、その節はあると思う。でも、それは他者から見ての下らない事。自分から見た時には必ずしも下らない事だとは限らない。主観と客観はかなりの齟齬が出る。正しい正しくないではないのだ。自分がどう思うかと他人がどう思うかは全く別物で、思想や経験などから出される結果なら当然同じような思想、類似した経験をしてこなければその答えは一致しない。


真冬と俺とじゃ、価値観も経験も持って生まれてきたものも違う。


「まぁ、真冬にはそう見えるかもな」


そんな風に流す様にした。彼女は不快だと顔に書いていたが、わざわざそれを口にする事は無かった。代わりにでてきた言葉は物凄く建設的なものだった。


「こんな辛気臭い話をしていてもアイデアは湧かないな。取り敢えず純文学にするのは確定として…」


「いや、ちょっと待て。なんでそれが確定してるんだ。ブランクと経験を考えろよ、真冬は普段から書いてて言うなればプロだから問題ないとは思うが、俺には問題があるぞ?」


「問題ない」


彼女は断定した。そして澄まし顔でこう続ける。


「寧ろ何故遙真がそう言っているのかが分からないな」


それが嘘でも皮肉でもなく、純粋にそう思っている事が分かった。だが、断言出来る理由が分からない。俺には才能がない。彼女のように見ている幻想的な景色をありありと表現する事は出来ない。なんせ、俺の見ている景色に色なんてない。そんなプラスチックのように冷たくて味気ないものをどう表現すればいいのか分からない。更には今まで書いてこなかった。それはあまりにも大きいブランク、技術はもう錆び付いてろくに振るうことも許されない。


「いいや、ないさ。俺に真冬のように上手く書く才能はない」


「あぁ、ボクのように書くなんて無理だね。断言出来る。でも、なんで遙真はずっとずっと他人と比較してるんだい?」


その言葉に俺は返す言葉がなかった。何故、俺は他人と自分とを比較し続けているんだろうか。俺は人と比較する為に、比較して上に立つ為にしてるのか?いや、そうでは無いはず。なら尚のこと分からない。


カチャリ、彼女が紅茶の入っていたカップを置いて答えを端的に述べた。


「自分の思った通りのものを書けてないからさ。他者と比較するのは、自分が本当に書きたいものを書いてないからだ。だから、満足しない。出来ない」


「…その通りだと思うよ。でも、俺だって何を書きたいのか分からない。自分が見てる世界なんて書いても面白くないからな」



彼女はクスリ…と口角を少し上げて笑った。不意に取ったその仕草は美しさと可憐さを両立させると同時に少しの狂気と普遍的な恐怖の入り混じる表現し難いものだった。そう、魅了と同時に畏怖するような、強いて一言で表すなら狂気的な妖艶さだろう。


気味が悪いと小言を言うとすぐにムスッとした表情に戻った。そちらの方がある意味彼女らしいと思ったが、そうでは無いとも思った。多分彼女はどのような物でも着こなしてしまう。幸福や絶望、喜怒哀楽、全ての物を完璧に着こなすだろう。さっきの笑い方だって、ある意味耽美的なものであったしこの推測は凡そ正しいと思う。


「なんで笑ったんだ?」


「遙真は分かってないだけさ。で、どうする?ジャンルを変えるかい?」


その凛々しい瞳に迷いはない。この後俺が何を言うのかも凡そ分かっているとでも言いたげな瞳。


「別にそれで構わない。どうせそう言うと思ってたんだろ?」


「まぁね、比較的長い付き合いだからね。遙真がなんて言うのか想像つくんだ」


「なんだ?メンタリストか?」


「違う、そろそろ本気で怒るぞ?」


俺はそれに笑いながら頼んでいたコーヒーを飲んだ。まだ、ほんのり温かい。でもかなり冷めている。あんな他愛のない会話でも時間は過ぎる。誰でも均等に時間は過ぎる。その普遍的な事実は然し、主観と客観によって擬似的に否定される。


人間は非論理の心に論理性を求めた、論理性とは言わば他者と共有出来る絶対的な指標だ。心は、比較には決して使えない。その事実にいち早く気が付いたから論理性、数字が生まれた。


この指標は言うなれば物差しだ。物事を推し量るならまずは物差しを用意しなければならない。この物差しは人が正確に物事を共有する為に生みだした遺産。然し、おかしな事に使われない事があるのだ。使った方がいいに決まっているというのに、だ。


その代表例が時間だ。人によって体感する時間は変わる。時計という物差しが存在するというのに体感時間で推し量る。この事実は即ち人の心の優位性を証明している。人は折角作り出したものを使わずに人に伝えるのだ。しかもこれは主観で人によって変わるものだ。それを共有しようとする。それはつまりそれを伝えて共感して欲しいのだ。この物差しを使用しない共感は時に論理性よりも評価される。


それを有効的に利用する仕事が小説家であったり芸術家であったり…俗に言うアーティストだ。


俺に、それはあるのだろうか。


彼女があると言ったものが本当にあるのだろうか。俺には分からない、分からないから…彼女を信じた。


「わかった。純文学で構わない。然し、純文学で共著なんてできるのか?」


「まぁ、普通は難しい。と言うよりボクの考えてるものは純文学であるのかすら怪しい」


「なんでもいいんだが、それは雑把すぎるんじゃないか?」


彼女は美しい顔に笑みを浮かべた。その繊細な笑みは微笑にも見えるが俺には子供のような可愛さと無邪気さを感じた。それはただただ純粋な、穢れを知らない無垢と言うある意味芸術的な力強さがあり、またそれ故の脆さと儚さを同居させた。


昔、真冬のそのような表情を見た事がある。その時の作品を思い返せば小説、文学の普遍的な構成要素を根底から覆し、彼女の持つ独創性と叶う事の無い儚さをこれでもかと発揮させたものだった。理解するまで何十年かかるか分からないその難解かつ複雑、それでいて耽美的な小説は真の意味で純文学であると言える。


逆に言えばその異常とも言える天才の本気に付き合わされるわけだ。とても荷が重い、俺が付いて行ける領域に彼女はいないだろう。


俺がそのような不安を抱いているなんて露ほども考えていなさそうな目の前の天才はこう尋ねた。


「遙真は何故いつもそうなんだ。禿げるぞ」


前言撤回。彼女は興味無さげに見えて実によく人を見ている。


よく見ている彼女を騙す事は俺にとって造作もない事だが自分のポリシーに反する上、バレた後が怖いので適当な笑みを繕って聞き返す。


「なんで禿げるか真冬は分かるのか?」


「分からないよ」


興味無さげに言い、バッグから紙とペンを取り出す。


「まず構成なんだが、特に決めてない」


「は?」


「そしてあらすじだが、これまた決まってない」


呆れて声も出なかった。


いや、正直分かってはいた。彼女が現時点でそこまで考えてはいない事なんてここに来る前から分かってはいたのだ。それを含めて"話し合い"だから。


これは少し回りくどく説明されそうだから、分かりやすくするようにこちらから促した。


「じゃあ真冬はどういう風に作りたいんだ?」


「ボクと君とで同じ風景、生活を…自分のみたままの世界を書く。雑把に言えばそんな感じだ」


「それじゃあ共著にならない」


「確かに、ここで止めたなら共著じゃないな」


不敵な笑みを浮かべる真冬、その真意は分からない。だが、それを考える必要は無いと言うことだけは分かった。


「君は、純文学を書くことは出来ないと言ったな?君自身本気でそう思っているのかもしれないけど、それは間違いだ。今の君の視界、世界、認識する全ては一つだけかい?ボクにはそうは思えないんだ。何せ、君は2つの世界を認識しているんだろう?」


「よく分からない。回りくど過ぎるんだ。つまるところなんて言いたい?」


「………はぁ、見た方がはやいかな」


会計だ、そう言って椅子から緩慢に立ち上がった。その動作から感じられる凛々しさと雅さが彼女の気品を高めた。然し、裏腹に言葉や普段の行動からは先の印象は一切見受けられない。寧ろ粗暴という言葉が1番似合う。本来の彼女がどちらであるのか、それは分からないがどちらも本来の彼女でありその相反する2つの性質を重ね合わせるが故に彼女の持つ美しき狂気を存分に発揮できるのでは無いか?普通というものでは到底着こなせないその服すらも彼女なら似合ってしまう、そんな風に感じるのではないのだろうか?


彼女は可愛らしく首を傾げてこちらを見て一言。


「…呆けた顔をしている。急に馬鹿になったか」


やはり口を開けば粗暴な面が顔を見せるようだ。









日が落ち始めた。その夕焼けと打ち寄せる波に美麗さを感じると同時に何処となく物悲しさを覚えた。それは昼の喧騒と盛った熱気が嘘のように思えるほどで、そこにあるのはただの静謐と頬を撫でる冷ややかな潮風。自分の後ろから宵が迫る、それがこの冷たさをより一層強めた。


体温が奪われる、何処までも閑静な風景。完全に日が落ちればここは彼岸に変わるだろう。俺という生が消え失せ、周りは悲愴と離別を感じさせる赤花に覆われる。


その終局的な美は悲しみや喪失感を与えはするが決して悪いものでは無い。何故なら同時に安寧も与えるからだ。


彼女はこの景色を眺め、微笑みながらこう聞いてきた。


「遙真、この空はまるで人の抱く淡く儚い理想で、煌めく星はそれを叶える道標のように思えないかい?」


「真逆だ。俺には彼岸にしか見えない。周りには夥しいリコリスの花が咲いているようにすら思える」


そう言ってみて逆に俺は笑ってしまった。なんだ、そういう事かと腑に落ちた。


「でも、そうだな。俺の思った景色も真冬の言うように明るいものなのかもしれない」


「君のあの言い様だと、とてもそうには思えないけどね」


「昔、リコリスを見た時に俺は情熱的で可憐な恋する乙女っていうような、そんな印象を受けたんだ。歳を重ね、様々な知識を得て、彼岸花という言葉を知ってからはそんな事を感じることは無くなったけど、今でこそ思う。俺のあの感性は間違いじゃなかったんだなって」


真冬は驚いた顔をして、ふっ…と笑うとこちらを向いて真剣な眼差しでこう言った。


「想うはあなた一人」


その言葉に少し動揺し、顔を赤らめてしまう。それこそ先の純粋無垢な乙女を体現したような彼女の発言に一瞬、本当に一瞬だけ完全に心を奪われてしまった。


そんな俺の心情など気にも止めずに次へ進める。


「曼珠沙華の花言葉の1つさ、他にも情熱などもある。君の感性は驚く程正しくて、豊かで、とても鮮やかだ。それでいてモノクロの暗い一面もしっかりと認識し表現出来る」


「鮮やかや豊かって言う意味が全くわからない。真冬にそう言われるほど自分が美しい世界を見ているとも思えない」


「いや、君は自分で表現に花を挙げただろう?しかもあんなにも美しく鮮やかな花を挙げた。それにあの花は燃えるような赤だ。とびきりいい色をしている」


その言葉は静寂と夜に、流麗に響いた。俺の心に浸透し、溶けて混ざるようなそんな不思議な感覚を与えた。


(また、同じ過ちを繰り返すのか?)


そうだな。


(愚かしい、十分に辛酸を舐めただろう?)


その通りだ。


(何故、お前には才能がないと分からない)


分かってる。とうの昔に分かっている。俺は、俺の才能を信じない。天才と認めた人間を信じる事にしただけだ。






その顔は何処までも晴れやかで清々しい。


それを見られただけでもここに来る意味があったとボクは心からそう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

邯鄲の枕 上 吹紗來 渚 @envy_LIME

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る