28話 ハチバンに懇願された。
夏海を看病した翌日。
近所の奥様方から、近くのスーパーで『タマネギ一個5円』のタイムセールが行われているとの情報を耳にした。こうしてはいられない。俺は家事の手を一旦止め、もはや愛車となったママチャリにまたがると、全速力でスーパーに向かった。
地獄だった。いつもはやさしい顔をした奥様方が、鬼の形相でタマネギを奪い合っていた。剥がれたタマネギの皮がまるで桜のように無数に宙を舞っている。『まったくうちの旦那はよぉ!』と、タマネギとはまったく関係のない恨み節を吐いている方もいた。恨みはいいから、タマネギを買え。
俺は唾を飲み込むと、意を決してその地獄に足を踏み入れた。
結果。32個のタマネギを買うことができた。
金額にして百六十円。まずまずの戦果だろう。
「……というか、使い切れるだろうか?」
買ってから後悔が押し寄せてきたが、まあ、タマネギは日持ちする。オニオンスープやサラダに使用すれば、あっという間になくなることだろう。
そんな風に、タイムセールという甘美なワードに誘惑された自分を脳内で正当化しつつ帰宅すると、家の玄関前に秋樹の後ろ姿が見えた。ちょうど鍵を開けようとしているようだ。
時刻は午後十二時半すぎ。学校が終わるにはすこし早い時間だが。
「おかえりだ。秋樹」
「え? ああ、クロウさん。出かけてたんですね」
「近くのスーパーにちょっとな。随分と早い帰りじゃないか」
自転車を止め、玄関に向かいながら問うと、秋樹は「そうなんですよ」とさも面倒くさそうな声で応えた。
「ついに、待ちに待っていなかった期末テストが始まっちゃったんです。なので、今週一週間はこれぐらいの時間の帰宅になると思います。まあ、午前中に帰れるのはうれしいんですけど……ほんと、テストさえなければなあ」
「なんだ。秋樹はテストが嫌いなのか?」
「嫌いですよー。わたし、桜ちゃんや夏姉みたいに頭よくないので……」
「意外だ。むしろ、秋樹が一番勉強できるタイプかと思ってた。小説もたくさん読んでるし」
「小説をたくさん読んでたから、頭が悪くなったんですよ」
「……ああ」
まあ、小説も所詮は娯楽物だからな。小説を読む=頭がいい、というわけでもないのか。
小説は教養を高めるけれど、成績までは高めてくれない、というわけだ。
「国語のテストとかは、それなりにいけるんですけどね。それこそ、小説を使った問題とかが出てくるので。ネックなのは、小説が役に立たない数学や物理どもでして……」
「まあ、そこは素直に勉強していくしかないな。秋樹さえよければ、勉強に付き合おうか?」
「ほんとですか!?」
「俺も前職の関係で、それなりに勉強してきたからな。高校生レベルであれば、なんとか教えられると思う」
「た、助かります! では、さっそく明日の数学のテストについて教わりたいところがありまして」
「了解した。では、昼飯を食べたら勉強会といこうか」
言いながら鍵を取り出し、玄関の扉を開ける。
今日の家事は中断していた掃除機がけのみだから、午後一時には勉強会を始められるだろう。
このあとの予定を練りながら中に入り、秋樹と共にリビングに向かった、その直後。
ピンポーン、と家のチャイムが鳴り響いた。
タマネギをしまったあと、うがいをしている秋樹を横目に、インターホンカメラで来客者を確認する。
『おーイ。ハチバンだゾー』
玄関先。魚眼レンズに映し出されたのは、銀髪ロリ少女、片桐ハチバンの姿だった。
昨日と変わらぬジャージ姿で、カメラのレンズに片目を近づけている。
『インターホンから通話機能が起動する音が聴こえたから、ボクを覗いてるのはわかってんダー。居留守をやめて、おとなしく出てきなさーイ』
…………。
いやまあ、たしかにインターホンって誰かが応答した瞬間に「ブツ」って音がするけれども。その追及の仕方はさすがに怖い。
どんな物音も見逃さないスパイの職業病だろうか?
さておき。
「……なんの用だ?」
憮然とした表情で応対すると、ハチバンは『にゃはっ!』とうれしそうな声をあげた。
『その声はクロウくんではありませんカ。なんて、リビングのインターホンカメラに近づく足音があまりに静かすぎたから、クロウが出るんだろうなってのはわかってたけどネー』
「足音で俺を判断するな」
先日この家に泊まったときに、リビング内の家具や機器の配置をすべて暗記して、インターホンを押した直後から耳を澄ましていたのだろう。
通話機能の起動音と言い、嫌な判別のされ方である。
「それで? 昨日の今日で、いったいなんの用だ?」
『世間話にも付き合ってくれないノ? つれないなア……まあ、それじゃあさっそく本題に入るけど、正確には用があるのはボクじゃなくて、カナのほうなんだよネ』
「カナ? ああ、風の子院の白峰さんのことか」
ファーストネームで呼び合うほどには、仲良くなったらしい。
まあ。白峰のあの強引な距離の詰め方であれば、嫌でも仲良くなってしまうか。
『うん。その白峰カナが、一週間後にある〝クリスマスパーティー〟の飾りつけを手伝ってほしいから、昨日の付き添いのひとを連れてきてくれー、ってボクに頼んできたのサ。ツリーやら倉庫の重い電飾やらを運ぶのに、男手がほしかったみたいだネ』
「クリスマスパーティーの飾りつけ、か……」
『どウ? 頼まれてくれル?』
「手伝いたいのは山々だが、俺も俺で用事があるからな……」
と。来客者に対してあまりにフランクな口調だったからか。うがいを終えた秋樹が、興味本位でインターホンカメラを覗きに来た。カメラに映るハチバンの姿を目にして、「あ」と目を見開き、俺の肩をトントンと叩いてくる。
本当は。
本当は、いますぐにでも俺に嘘を吐いていた理由、そして局長室に忍び込んで俺の個人情報を盗んだ理由を問いただしたかったが……ここは葉咲家で、秋樹もいる状況だ。
ハチバンへの言及は、また後日にせざるを得なかった。
『その用事って、いまやらなきゃいけないこト?』
「ん? まあ、そうだな。昼飯を食べたら、秋樹に勉強を教える予定があるんだ」
『……それ、夜にズラせないかナ? こっちの用事も、結構大事だったりするんダ』
「むずかしいな。秋樹がもう、とにかく勉強したがってるんだ。いますぐ勉強しないと死んでしまう、とまで言っている。ああ、いまも勉強をやりたすぎてリビングで暴れ回っている! こら秋樹! そこのバナナを食べて落ち着きなさい!」
「完全にゴリラを想定してますよねソレッ」
小声でツッコミを入れてくる秋樹。ちょっとふざけすぎてしまった。
が、しかし。
『お願イ……秋樹も一緒に来てくれていいから、だかラ……お願いだから、ボクと一緒に来てくださイッ!!』
インターホン越しに聴こえてきたハチバンの声音は、そんなおふさけを許さないほど、逼迫したソレだった。
突然の叫び声に、呆然と見つめ合う俺と秋樹。カメラを見てみるも、手で塞いでいるのか、真っ暗になっていてハチバンの表情が確認できない。
泣いているのではないか。
先ほどの叫びは、そう思ってしまうほどに悲痛な響きだった。
「く、クロウさん。わたしは別に、勉強会は夜にズラしても……」
「……そう、だな」
ここまで必死になって懇願されては、断ることはできない。
「わかったよ、ハチバン。その飾りつけ、俺たちも手伝わせてもらおう」
『ッ……ほんト!? ああ、ありがとウ……ありがとウッ!』
震えた声で感謝を告げるハチバン。
それほどまでに必死な理由も、やはり、ここでは問いただすことはできなかった。
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