27話 夏海に水分補給をした。
俺に電話してきた教職員の話によると、夏海は食堂での昼食後、午後の講義に向かう途中に廊下で倒れたらしい。
医務室長の診断結果は、風邪。
咳や鼻水などの症状はないが多少熱があり、軽い脱水症状になりかけていたそうだ。
昨日は日曜で、夏海もかなり夜更かしをしていたようだから、寝不足気味というのもあって倒れてしまったのかもしれない。
喫茶店から全速力で叶画大学に向かい、医務室に入ると、付き添ってくれていた夏海の友人たちが俺をベッドまで誘導してくれた。
「夏海……」
目をつむる夏海の顔は赤らんでいて、時折苦しそうに呻いていた。
ベッドの傍に屈む俺があまりに心配そうな表情をしていたのだろう。医務室長が見かねて、この程度なら心配ないですよ、と声をかけてくれた。
ダメだな。スパイの頃、医療知識も多少は勉強したのだが、三姉妹のこととなるとどうにも冷静さを欠いてしまう。
その後。医務室長が、夏海と俺を車で送ってくれることになった。
こうして駆けつけたはいいものの、夏海をどうやって持ち帰るかは一切考えていなかったので、その申し出をありがたく受けることにした。
「ほら、夏海。家に着いたぞ」
「んー……」
帰宅後。医務室長にお礼を告げて別れると、夏海をおぶったまま玄関を開け、ひんやりと冷たい階段を昇っていく。
しかし、夏海は相変わらず軽いな。
以前お姫様抱っこをしたときよりは二……いや、三キロほど重くなっているようだが、夏海の身長を考えるとこれでもまだ軽いほうだろう。
「これから栄養のあるものをいっぱい食べさせてやるからな。目指せ、六十キロ」
「んんー……いやだぁ……」
寝ているはずなのに拒否反応を示す夏海。
乙女の本能だろうか?
『夏海』と書かれたプレートの部屋を開けて、夏海をベッドに寝かせる。
我が家のベッドに帰ってきたからか。夏海の表情が安心したかのように、わずかに緩んだ。
(服を寝巻きに着替えさせたいところだが、それはさすがに無理だよな……)
ここで強引に着替えを敢行したが最後。夏海の身体を見ないようにと目隠しをし、手探りで服を脱がせようとするも、結局は彼女のいけない部分を触ってしまう――という、日本の深夜アニメのようなトラブルまみれの未来が待っていることは間違いない。
家政夫になって一ヶ月、俺は野宮クロウという人間のドジっ子加減を理解しはじめていた!
……理解したくなかったけれど。
「すこし寝づらそうだが……ひとまずこのままでもいいか」
まあ。普通に起きてから着替えてもらえばいいだろう。
夏海の頭をやさしくなでたのち、睡眠のお供にと近くに落ちていたファンシーなぬいぐるみを一体、布団の中に入れてやる。
桜と秋樹のセンスを見てもしやとは思っていたが、やっぱりブサイクなぬいぐるみばかりだった。いや、ブサカワ、というやつだったか。
さておき。
風邪となると、消化にいいものを作ってやらないとな。ここはやはり、日本の定番のお粥を作っておくべきか。盛り付けに最適なオカカと梅干しも、たしか残っていたはず。
そう思案しながら腰をあげようとした、そのとき。
「――クロウ?」
そんな小さなつぶやきと共に、夏海のまぶたが薄っすらと開かれた。
しまった。起こしてしまったようだ。
俺は再度ベッド脇に座り直し、夏海のぼんやりと熱い額に手を当てながら。
「ああ、俺だぞ。気分はどうだ? 気持ち悪くはないか?」
「平気……てか、なんでクロウがここに? あれ……?」
「大丈夫だ、落ち着け。大学で倒れたことは覚えているか?」
「倒れ……あー、そっか。あたし、廊下歩いてたらフッ、と足元が抜けたような感じになって……そっか、あれ倒れてたんか……」
「大学から電話を受けて、俺が迎えに行ったんだ。風邪だろう、とのことだ。熱はそれほどではないが、脱水症状と寝不足が重なってしまっている。今日一日は絶対安静だな。水分補給はできそうか?」
「の、飲ませてくれたら、たぶん……」
「了解した。いますぐ持ってくる」
言うが早いか。部屋を出て早足でリビングに向かう俺。
冷蔵庫に入っている『ポトリスウェット』と、あと『冷えピタピタ』を持っていってやろう。これで熱もすぐに下がるはずだ。
「持ってきたぞ、夏海」
「ん……ありがと」
ベッドの枕元にコップを置き、まずは『冷えピタピタ』を夏海のおでこに貼り付ける。
「つめたっ」
「我慢しろ。これに懲りたら夜更かしは程々にすることだ」
「はーい……へへ、マジでオカンみてえ」
「茶化すな。ほら、次は水分補給だ。コップを支えててやるから、口をつけて飲め」
コップに『ポトリスウェット』を注ぎ、夏海の口元に運ぶ。
が。夏海はコップを数秒見つめたのち、なぜかプイっ、と顔をそらしてしまった。
「嫌いだったか? 『ポトリスウェット』。近所の奥様方から、風邪のときの水分補給はコレで決まりと聞いていたのだが……」
「嫌いとかじゃなくて……ち、ちゃんと飲ませてくれないと、飲まねえから……」
「? こうする以外に、どう飲ませろと?」
「……く、口移し、とか?」
「…………スゥー……」
「な、なーんてな! 冗談だよ、冗談! ちょっとワガママ言ってみたくなっただけで――」
「――了解した」
「別に本気でやってくれるだなんて思って…………え、あ、えッ?」
直後。
俺は手にしたコップに口をつけ、『ポトリスウェット』を自分の口内に流し込みはじめた。
夏海は唖然としている。まるで、俺の行動が予想外だとでも言いたげな表情だ。
口の中に半分ほど溜めてコップを置き、俺は夏海の肩に手を添え、そのまま覆いかぶさるようにしてベッドに押し倒すと。
夏海の唇に、無理やり唇を押しつけた。
「ん、んんんんんーーーッッ!?」
呻き声をあげ、手足をバタつかせる夏海。
俺は両手で夏海の顔を固定し、冷静に口内の『ポトリスウェット』を流し込んでいく。
暴れた拍子に唇がズレ、わずかに水滴が夏海の頬を伝う。
衛生上、あまりよろしくない水分補給の方法だが、こうしないと飲まないというのだから、仕方ない。
ゴク、ゴク、と夏海のか細い喉が音を鳴らす。しっかり飲めているようだ。
「――ぷはぁッ!! あ、あの……く、クロウ、ちょっと待っ――」
制止の声も聞かずに、俺はコップの残りを口内に溜め込み、またも夏海の唇を奪う。
またも目を見開き、驚く夏海。だが、一度目よりはそのリアクションは弱まっていた。
十数秒ほど。唇を繋いだまま流し込み、コップ一杯分の水分補給が終了。
『ポトリスウェット』の甘味と唾液の糸を引きながら、唇を離す。
「な、なんで……? こんな、急に……」
「夏海が大事だからだ」
赤面し、困惑する夏海の上からは離れず、顔先二十センチほどの至近距離で、俺は言う。
正直に言うと、俺はすこし怒っていた。
「夏海だけじゃない。俺は葉咲家の三姉妹全員を大事だと思っているから、こんな常識外れな行動も取れるんだ――夏海は、いつものようにからかい半分だったのかもしれないが、お前は実際に倒れている病人なんだ。健康的ではない、弱った人間なんだ。その病人が自分で水分補給をしないというのなら、口移しだろうがなんだろうが、俺は何度でもしてやる。それでお前たちが健康になるのなら、何百回だって」
「……、……」
「心配したんだ、本当に」
『冷えピタピタ』が貼られた夏海の額に、自分の額をくっつけて、俺は続ける。
目の前の病人よりも、自身の声音はひどく頼りなかった。
「電話を受けて大学に走る途中、ずっと嫌な想像しかできなかった。風邪とはいうが、夏海の身になにかあったらと思うと、気が気じゃなかった……怖かったんだ、お前を失うのが」
「……ご、ゴメン……あたし、ほんとに軽い気持ちで言っただけで……」
「わかってる。俺こそすまない。これはただ、『ちゃんと介護されてくれ』という俺の身勝手なワガママだ。日本語のスラングで、逆ギレと言ってもいい」
「そんな、そんなことねえよ……ありがとな、クロウ。そんなに心配してくれて」
「お安い御用だ」
つとめて明るい声音で言って、俺はようやく夏海の上から離れた。
ベッド脇に座り、夏海がすぐ飲めるようにコップに二杯目を注ぎながら、俺は胸中で叫ぶ。
(やってしまったああああああーーーッッ!!)
二回目!
ムキになって二回目のキスをしてしまった!
している最中は、キスというよりは人工呼吸のような、人命救助の気持ちが強かったけれど、あとから振り返ってみるとただのキスでしかないッ!
甘い! 甘いキスだった!
過激な接触は控えてほしい、とかなんとか釘を刺しておきながら、俺自らその釘を引っこ抜いてしまったようなものだ!
心配してくれてありがとう、なんてことを言ってはいたが、夏海のやつ、実はキスされて怒っているんじゃあ……。
心中の動揺を隠しつつ、コップを枕元に置きながら、夏海の顔色をチラリと窺ってみる。
タイミング良く、あるいは悪く、バッチリと目が合ってしまった。
「……へへ、なに? どした?」
「い、いや、なんでもない」
「なんだよ、いまこっち見てたじゃん」
「見てない! 俺には目がついていないからな!」
「ものすげえ嘘つくじゃん……」
「と、とにかく! 今日一日は絶対安静だからな! あとでお粥を持ってきてやるから、すこし待っていろ!」
「はーい」
お盆を手に取り、早々に立ち上がると、俺は部屋の出口へと向かう。
と。ドアノブに手をかけた辺りで、「あ、クロウ」と夏海が呼び止めてきた。
「ど、どうした?」
「……その、今日一日、クロウにちゃんと介護されるから、あたしのお願いも訊いてくれねえかな? むずかしいお願いとかじゃねえんだ。ほんと、ささいなお願いなんだけど……」
「? それはかまわないが……」
「じゃあ、お願い」
区切って、夏海は布団で口元を隠すと、くぐもった声音で拗ねるように言った。
「さ、さっきみたいな強引なクロウは、あたしにしか見せちゃダメ、だから……」
「え……」
「ダメだかんなッ!」
「り、了解した!」
背筋をピンと伸ばして了承の合図。「で、ではな!」と言い残して、俺は足早に部屋を後にした。
まあ。なんであれ。
ああして大きな声を出せるほどには快復したようでよかった。
しかし。先ほどのお願いは、いったいどういう意味なのだろう?
リビングに向かい、お粥の調理を進めながら考えてみても、一向に答えは出ない。水平思考を駆使しても、これだと言う解答に繋がる気配はない。
「……うーん」
ぐつぐつ、とお粥が煮立つ。
考えすぎて、知恵熱が出そうだった。
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