26話 夏海が倒れた。
「とりあえず、落ち着ける場所に行きましょうか」
黒髪茶眼に変装したキャサリン・ノーナンバーに連れて来られたのは、大道路に面している古びた
風の子院よりも年季が入った店だった。看板の文字がかすれていて、店名はわからない。
赤レンガの外壁に伸びたツタを横目に入店し、窓際の席に向かい合って座る。
「ここはワタシが奢るから、なんでも好きなの頼んでちょうだい」
帽子とサングラスを取り、ソファの上に雑に放りながらキャサリンがそう言うと、程なくして髭をたくわえた五十代ほどの白髪の男性がメニューを取りに来た。店員は彼ひとりのようだ。俺はコーヒー、キャサリンはビールを頼む。
昼間から酒とは、いいご身分である。
いや、そんなことより。
「……なあ、元上司さんよ」
「? なによ、その呼び方。なんか気持ち悪いわね……」
「俺はアンタと話がしたいんだ。申し訳ないが、ここじゃあ落ち着けない」
キャサリンが日本に……叶画市に来ている理由を訊くとなれば、どうしたってスパイであることに触れざるを得ない。
場所を移動し続ける歩行中などの会話ならともかく、店員が常に待機しているこの環境では、そうした言及もむずかしい。
俺の懸念を察したのか。キャサリンは「ああ、なるほど」と得心いったとばかりに背もたれに寄りかかった。
「ワタシの名前を出さないために、そんな変な呼び方してたのね――大丈夫よ。この喫茶店、フルピースの息がかかってる店だから。情報漏洩に繋がるようなヘマをこのワタシがするはずないじゃない。ここでの会話も、外部に漏れることは絶対にないわ。あの店員のおじさまも、元諜報部のスパイだしね。ねー、おじさま?」
キャサリンがウィンクすると、白髪の店員はカウンターの奥で慎ましやかにお辞儀をした。
あらためて見てみると、たしかに店員のガタイは一般人のソレではなかった。少なくとも、五十代にしてはガッシリしすぎている。
筋トレなどではない、実戦で鍛えられた本物の筋肉だ。
「……こんな日本の片田舎に、どうしてフルピース御用達の喫茶店が?」
「誤解してるようだけど、別にこの叶画市だけに店を置いてるわけじゃないわよ? 日本全国、果ては世界各国に、こうしたフルピースの傘下の店は存在するわ。叶画市だけで言えば、同じような店があと四軒あるわね」
「四軒も……それは、知らなかったな。二十年もスパイをしていたというのに」
「知らないのも当然よ。ここは本来、
店員が持ってきたビールを受け取り、グビグビ、とノータイムで呷りはじめるキャサリン。
俺もコーヒーに口をつけつつ、すこしだけ皮肉ってみる。
「俺はスパイとしての一生を終えたから、その存在を知らせてもいいと?」
「それは……」
「光栄だね。うれしさと苦みで、涙が出そうだ」
「す、拗ねないでよ。こっちの勝手な都合でスパイを辞めさせたのは、いまでも悪いと思っているわ……でも、ワタシは諜報部の局長だから、ひとりよりも組織全体を優先しなくちゃいけなくて……だから、その」
「あはは、ジョークだよ。そんな困らないでくれ。ちょっとイジワルしたくなっただけだ。ゴメンな? キャサリン」
「うっ」
わずかに微笑んでみせると、キャサリンが胸を押さえだした。前にも見た光景だ。
ふとカウンターを見てみると、白髪の店員までもがこちらを見て「はぅっ」と胸を押さえていた。なぜお前がうめく。
「あ、相変わらず心臓に悪い笑顔をするわね、クロウは……辞めさせて正解だったわ」
「おいこら」
「ふふ、お返しのジョークよ」
「だから、キャサリンのジョークは笑えないんだって……それに、そのズサンなところもな」
「ズサンなところ?」
雑に放られた帽子とサングラスをくい、と顎で指しながら、俺は言う。
「俺の個人情報をそうして雑にあつかって、他人に見せるような真似はしないでくれよって話だ。まあ、どうせその資料を見ることができるのは諜報部のスパイ……家族のみんなだけだろうから、別に困りはしないんだけどさ」
「ち、ちょっと待って。クロウがなんの話をしてるのかサッパリわからない……いったいなんのこと?」
「とぼけるなよ。こっちに来てるナンバーエイト、片桐ハチバンから聞いたぞ? 野宮クロウに関するファイルが、局長室の机の上にポイッて置いてあったって。それを見て、ハチバンは転職先の葉咲家を知って、俺に会いに来たって」
「…………そういうことね」
直後。
キャサリンの目が、ほんのすこしだけ細められた。
悪い予感が的中してしまった、と嘆くような、それはそんな悲しみと後悔の表情だった。
「ハチバンが日本に向かう前、局長室の椅子が数ミリだけ後ろに下がっていたときがあった。誰も入れないよう扉には鍵をかけていたはずだったのに……おかしいと思ってたのよ」
「き、キャサリン……?」
「ワタシはね? クロウ」
窓外を見やり、暗い声音でキャサリンは続ける。
「昼間から酒も飲むし、物も雑にあつかうズボラな女だけど、仕事に関しては誇りを持って取り組んでる。スパイであることに矜持を持ってる――そんなワタシが、家族の個人情報を机の上に放置するわけないでしょ? それがたとえ、解雇した元スパイの情報であろうとも」
「ッ……それじゃあ、ハチバンはどうやって俺の情報を?」
問いかけはしたが、俺自身、その答えはもうわかりきっていた。
盗んだのだ。
偶然、俺の情報を見たのではない。ハチバンは、スパイの技術を駆使して局長室に忍び込み、わざわざ野宮クロウの情報を入手していたのだ。
その理由まではわからない。一般人となった俺の個人情報に価値などないはずだが……。
(イタズラで局長室に忍び込むだなんてこと、アイツがするはずもないしな……)
そんな分別がつかないほど、ハチバンはガキではない。
「……では、キャサリンが日本に来た理由とは」
「半分はソレが理由ね。どこかタイミングを見計らって、本人に直接問いただすつもり――もう半分は、フルピースの敵対組織の調査のため」
「敵対組織?」
「現役中に聞いたことないかしら? 『アンチフェイス』っていう、スパイ専門組織のこと」
「ああ、噂程度には。なんでも、情報入手のためなら手段を選ばない、かなり過激な集団だとか……」
「スパイの風上にも置けない悪党どもよ」
ビールを飲み干して、苛立たしそうにキャサリンは唇を尖らせる。
「そいつらが最近、活動の幅を広げてきていてね。企業はもちろん、民間からの依頼まで請け負ってるって話なのよ。中には、誰かを殺してくれ、なんてゲスい殺人依頼もあるらしいわ」
「……それはもう、スパイとは呼べないな」
「まったくよ。だけど、金のためにアンチフェイスはその殺人依頼もこなしているんですって――で、そんなアンチフェイスのメンバー数名が、この叶画市に入ってきたっていう
「なにも、局長のキャサリンが出てくる必要はなかったんじゃあ……」
「アンチフェイスの件だけならね。でも、ハチバンの件に関しては、ワタシ以外は担当しちゃいけない。だって、局長室に忍び込まれたのはすべてワタシの責任なんだから。自分の尻ぐらい自分で拭かないと。それに」
「それに?」
「子供の不始末は、親がするものでしょ?」
おどけて言って、綺麗なウィンクをしてみせるキャサリン。
諜報部が家族なら、その上に立つ局長は親というわけだ。
「たしかにそうだな。なら、俺もキャサリンの子供というわけだ」
「そうよー。元気に巣立ってくれちゃって、お母さんうれしいわ」
「肩でも叩こうか? お母さん」
「そこまで年いってないわよ」
そんなくだらないやり取りをして見つめ合ったのち、どちらからともなく笑いだす。
程なくして。笑いをすこし引きずりながら、「でも」とキャサリンが口を開いた。
「ほんと、うちの諜報部は困った子ばかりで大変だわ。ハチバンは言わずもがな、優等生のミヤにまで連絡つかないし」
「ミヤ?」
風の子院に向かう道中、ハチバンも口にしていた名前だ。
「ミヤって、『No,038』のことだよな。連絡がつかないのか?」
「十一月の下旬頃からね。まあ、二週間近く定期連絡がないってだけだし、潜入任務となると一ヶ月連絡なしなんてザラだから、そこまで心配もしてないんだけどね」
「十一月下旬というと、叶画高校の学園祭があった辺りか……そのことを、ハチバンは?」
「どうかしら? 本部内でも『デキてるんじゃないのか?』なんて疑われるぐらい、ハチバンとミヤは仲良しだったからね。任務中だろうと、連絡ぐらいは取ってそうなものだけど」
「そうか……」
しかし。連絡を取っているのなら、あんな意味深な態度は取らなそうなものだけれど。
訝しむ俺をよそに、キャサリンは新たにビールを追加注文して。
「ともあれ。ハチバンはおかしいと思ってたのよね。十一月下旬に別の任務から帰ってきたと思ったら、休む間もなく『日本での任務はないのカ?』なんて言い出してくるし……」
「……待ってくれ、キャサリン」
「ん、どうかした?」
「その言い方だと、まるでハチバンが自ら日本での任務を望んだように聴こえるが……?」
「? その通りだけど? ワタシからは任務を押しつけてないわ。むしろ、任務終わりなんだからしばらく休暇を取りなさい、って勧めたぐらいよ」
「……それも『嘘』、か」
昨夜の深夜の散歩道。ハチバンはたしかにこう言っていた。
〝――まあ、そんな感じの任務を受けちゃったもんだかラ、ボクは仕方なく日本に来たってわケ――〟
思えば、葉咲家に来た理由についても、ハチバンはなぜか言い淀んでいた。
親のキャサリンだけでなく、スパイを辞めた俺にすら隠さなければならない事情があるのだ。
「なに、どういうこと? クロウ」
「……こうなれば、すべて話しておいたほうがいいな」
そうして。
俺はこれまでに気づいた数々の疑念を、キャサリンに語っていった。
ハチバンに関することはもちろん、俺が日常の中で感じた疑問、違和感をすべて伝えた。
監視カメラに関する『あの通知』のことも無論、詳細に。
あらかた伝え終えたのち、キャサリンはその表情を真剣なソレに変えた。
重要な任務にあたる、スパイ局長の顔だ。
「……クロウ、ひとつ頼みがあるわ」
「ハチバンのことなら任せてくれ。俺から直接問いただしておく。むしろ、俺のほうからそう言いだすつもりでいた」
「助かるわ。いまの情報を聞いて、一度本部に帰らなくちゃいけなくなったわ。もしかしたら、ミヤの件もこれで……とにかく、一度帰って整理しないと。アンチフェイスのメンバーは気になるけど、まあ、スパイ十指のクロウがいるなら大丈夫でしょう」
「信用されすぎても困るが……できる限り尽力はしよう」
「充分よ――それじゃあ、またね。クロウ!」
言うが早いか席を立ち、お勘定をテーブルに残すと、俺の頬に軽くキスして、キャサリンは足早に店を出て行った。
日本に来たばかりなのに、もう帰国とは。忙しない奴だ。
頬についた紅い口紅を拭いつつ、わずかに思案する。
(俺も、『あの部屋』を調べておくか……)
この一連の騒動は、十一月下旬――夏海が雷を怖がっていたあの日からすべて繋がっている。
であれば、その疑念の始まりでもあるあの光の元は、調べておくべきだろう。
そんな決意を胸に、俺も席を立ちあがる。
「……え?」
と。タイミングがいいのか悪いのか。店員が音もなく現れ、テーブルにビールが置かれた。キャサリンが先ほど頼んでいたやつだ。
「あ、えっと……キャサリンはもう帰ったので、これはさげてもらえると」
そう言うと、白髪の店員があからさまにシュン、と落ち込んだ顔をしてしまった。
どうやら、この店自慢のビールらしい。
「……いただきます」
席に座りなおして、ビールに手をつける俺。
パァ、と表情を明るくし、カウンターに戻っていく店員を横目に、真昼間の酒を呷る。
キャサリンだけでなく、俺までいいご身分になってしまった。
閑古鳥が鳴いている喫茶店でひとり、ビールをちびちびと飲んでいた、そのとき。
ポケットの中でスマホが震え始めた。着信だ。
グラスを置いて、スマホを取り出す。
着信名は、『叶画大学』と記されていた。
緊急時のことを考えて、事前に三姉妹の通う叶画高校と叶画大学の電話番号を登録しておいたのだ。高校と大学のほうにも、家の固定電話が繋がらないときの予備回線としてお使いください、と伝えてある。
だからまあ、本来こちらにかかってくることは滅多にないはずなのだけれど。
「はい、もしもし」
通話ボタンを押し、口元についた泡を拭う。
学校から電話という、あまりない機会ではあるが、想定しているような緊急事態ではないだろうと、どこか楽観視していた。
だから、通話口からその事実を聞かされた瞬間、俺は動揺のあまりグラスをガタン、と倒し、その場に立ち上がっていた。
「――夏海が倒れたッ!?」
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