閑話(上) 夏海は雷が苦手だった。
声を発することは許されない。
そもそも、声を発することは物理的にできない。
だからこそ、適任だ。
□
十一月二十七日、金曜日。
雨が降り出しそうな曇天模様の下。あくび交じりに起床した俺は、枕元のスマホを手に取った。時間を確認するためだ。
そこで、ある通知が来ていることに気づく。
この家に来て、初めて目にする通知だった。
「……なるほどね」
小さくつぶやき、布団から起きあがると、いつもの服装に着替えて自室の襖を開けた。
廊下を歩きながら、位置をあらためて確認しておく。
リビングに向かうと、スマホと入れ違いにポケットからエプロンを取り出し、装着した。うん、我ながら手慣れた動作だ。
キッチンに到着後、さらに慣れた手つきで料理を始める。シェフとまでは言えないが、なかなかサマになってきたのではないだろうか。
三つの弁当箱を用意し、料理を詰めていく。十二月も間近となって寒くなってきたから、保冷剤はいらないだろう。
無論これは、この家に住む三姉妹の弁当だ。
「おはようごじゃいます……」
午前六時二十分すぎ。葉咲家三姉妹の末っ子、三女の秋樹がリビングに現れた。
目が半分閉じている。やっぱり朝は弱いようだ。
「んん……おはよう」
「はよーっす……」
その数分後。次女の桜、長女の夏海が、ほぼ目を閉じたまま次々とリビングに入ってきた。
勝手知ったるなんとやら、というやつか。家具にぶつかることなく、ふたりはテーブルについた。
その様子は眠りながら歩いているようだった。
器用すぎじゃない?
さておき。
「まったく……ほら、お前ら。まずは目覚ましに水を飲め」
コップの水を手渡すと、くぴくぴ、と飲み干していく三姉妹。ひな鳥の姉妹のようだ。
弁当を三つ包み終え、朝食をテーブルに用意すると、俺は濡れた手をエプロンで拭きながら廊下に出た。
三姉妹が朝食を食べている最中、一階洋室にある掃除機を手に取り、家中を掃除していく。
洗濯物を先に回しておくのもアリだが、今日は雲行きが怪しいからな。すこし様子を見てからにしよう。
なんて効率的な家事のこなし方。
その手際の良さは、まるで熟練の家政夫のようだった。
自分で自分を褒めていくスタイル!
三十分程度で掃除機をかけ終え、リビングに戻ると、朝食を食べ終えた夏海がソファで腹を出して二度寝していた。
うん、なんというか、夏海らしい。
呆れながらも夏海に毛布をかけてやっていると、テーブルでお茶をすすっていた桜が「そうだ」となにかを思い出したかのように口を開いた。
「クロウ。今日は私と秋樹の晩ご飯はいらないからね? 夏姉の分だけ作ってあげて」
「どこかで食べてくるのか?」
「学校にみんなで泊まるのよ。学園祭が明日と明後日、土日にあるからね。泊まりがけて準備進めて、今夜中に劇の小道具とか衣装とか、完成させちゃうつもりなんだ」
「なるほど、そういう理由か……しかし」
「大丈夫よ、『そっち』の心配は」
俺の懸念を先読みし、桜は続ける。
「先生たちも、あれからすごい警戒してくれてるし。あんなことはもう起きないと思う。私と秋樹も、先生の側を離れないようにするつもりだから。そうよね? 秋樹」
桜が隣を見やると、秋樹はこくこく、と力強くうなずいた。
……まあ、夕暮れの帰り道でもなし。人の多い学校であれば、誰かにさらわれるという事態も起きにくいか。
今朝気づいたアレも、特に害意はなさそうだし。
俺は数秒ほど思案したあと。
「……了解した。そういうことなら信じよう。先生方にもよろしく頼むと伝えておいてくれ」
「わかった。ちゃんと伝えとくね」
「ところで、桜は白雪姫の劇をやるとして……秋樹のクラスはなんの出し物を?」
「ふぇッ!? わ、わたし?」
「そういえば、私も聞いてなかったわね。なにやるの? 泊まり込むってことは、それなりに
俺と桜の視線が、同時に秋樹に向けられる。
読書好きな秋樹のことだから、好きな小説の展示ないし説明会とかだろうか?
いや、その程度なら泊まり込むようなことはしないか。
と。
「あ、あの、わわ……わ、わたし、朝から準備がありますのでッ!」
視線に堪えかねたのか。秋樹は顔を真っ赤にし、ぐるぐると目を回すと、素早くテーブルを立ち、脱兎のごとく二階にいってしまった。
残された俺と桜は、思わず互いを見合い。
「……いかがわしい出し物、とかではないだろうな?」
「それはさすがにないと思うけど……でも、秋樹おっぱいデカいからなー」
「おっぱいとか言うな」
「でもでも、都会のほうでは『JKリフレ』なんてものもあるらしいよ? 女子高生がおじさん相手に膝枕とかしちゃうんだって。違法なお店では、お金を払えば胸も揉ませてるって」
「そ、それは都会の話だろ? 叶画市はそこまで都会とは言えないし、ましてや内気な秋樹がそんなこと……」
「まあ、それもそっか。第一学園祭だしね。そんな出し物は、そもそも許可が下りないと思う」
「そうだろそうだろ」
「だけど……秋樹って、意外と大胆なときがあるからさ? もしかしたら、なんてね」
「それは……」
観覧車でのまたがり。恋愛小説の指南。
心当たりがありすぎて、思わず口をつぐんでしまった。
「おっと、そろそろ私も支度しないと! それじゃあね!」
お茶をぐいっ、と飲み干して、桜も二階にあがっていってしまう。
俺はひとり、唖然とした表情でテーブルの食器を片づけ、洗い物を済ませていく。
…………。
……いかがわしい出し物では、ないよな?
信じてるぞ、秋樹……!
なんて。娘を持った父親のような心境で朝の家事をこなし、桜と秋樹の登校を見送ると、時刻はすでに午前八時半を回っていた。
いい加減、ソファで眠るアイツを起こさないと。
「おい、夏海」
「ん……あい? どうした、クロウ……あたし、まだ眠いんだけど」
「もう八時半だ。大学はいいのか?」
「今日は休講」
「……それを早く言ってくれないか。夏海の分の弁当を作ってしまったではないか」
「いいじゃん、お昼に食べるよ。だってあたし――」
「弁当が大好き、なんだよな。前にちゃんと聞いたよ」
「へへ、そのとーり。だから寝かせて……」
スヤァ、と静かに目をつむり、小さな寝息を立て始める夏海。
俺は呆れのため息をひとつ。毛布をかけなおしてやると、風呂掃除に向かう。
屋根と雨を叩く雨音が聴こえてきたのは、それから三十分ほど経ってからのことだった。
「おお、雷か」
窓外が光ったかと思うと、ゴゴゴ……、と大気を震わせる地鳴りのような雷鳴が轟いた。
洗濯物を後回しにしといてよかった。先に洗って干していたら台無しになっていたところだ。
そうして。
雨の音色を聴きながら風呂掃除も終え、せっかくだからと普段やらない家具の裏の埃取りも済ませてリビングに戻ると、先ほどまで熟睡していた夏海がちょこん、とソファに体育座りをしていた。
毛布を肩にかけたまま両膝をぎゅう、と抱き、ひどく縮こまって座っている。
「なんだ、起きたのか。夏海」
「あ、ああ、まあな……実は、そこまで眠くもなかったし」
「? とてもそうは見えなかったが……」
「そ、それより、クロウの仕事は終わったのか?」
「大体はな。あとは夕飯の買い出しに行きたかったんだが、この様子だと無――」
「無理無理! 絶対無理だぜ! だからおとなしく家にいたほうがいいって! マジでッ!!」
「……まあ、言われなくてもそうするつもりだが」
必死な夏海の反応を訝しみつつも、キッチンのほうに足を向ける。
買い出しに行けないとなると、冷蔵庫のありもので夕飯をなんとかしなければ。
なんて考えながら歩いていると。
「…………」
トトト、と、なぜか夏海が後をくっついてきた。
立ち止まって振り返ると、夏海は「?」と小首をかしげてくる。
いや、首をかしげたいのはこっちなんだが。
「なにか用か? 夏海」
「べ、別になんでも?」
「……そうか」
視線を戻し、冷蔵庫の前に向かう。
夏海も冷蔵庫の前に来ていた。
「……夏海、傍にいられると動きづらいんだが」
「そ、そんな冷たいこと言っていいのか? あたしは一応この家の家主だぞ!」
「利用できる中で最高の権力を行使してきた……まあ、それじゃあ邪魔にならない程度に距離を取ってくれ」
「わ、わかった――、ぴぇッ」
ピカッ、と雷光がリビングを照らした瞬間、夏海が俺の左腕にしがみついてきた。
両眼を必死につぶって、ぷるぷると全身を震わせている。
遅れてやってくる雷音を聴きながら、俺は訊ねてみた。
「夏海。お前もしかして、雷が怖――」
「――くねえけどッ!? 雷が怖いとか、そんな小学生じゃねえんだから!」
「いや、でもその反応は……」
「こ、これは……そう! なんか寒いんだよ! ほら、冷え性だっつったろ? それが急に悪化して猛烈な寒気をもよおし――、ぴゃッ」
ガガガーン! と一際大きな雷鳴が響いたと同時に、今度は俺の腹部に抱きついてくる夏海。
すると。開けていた冷蔵庫内部の明かりがフッ、と消えた。
いまの雷で、停電してしまったようだ。
見ると、テレビの待機電源も、固定電話のランプも消えている。
夜の停電なら一瞬でわかるんだが、こうした明るいうちでの停電はすこし確認が必要なのが難点だ。
「どうやら停電したみたいだな。まあ、そこまでひどい落雷でもなかったようだし、そのうち復旧するだろう」
「ほ、ほんと……?」
不安そうな声でつぶやき、夏海が身体を震わせながら、涙目でこちらを見上げてくる。
……もう強がる気力もなくしたようだ。
「ああ、すぐにでも復旧するさ。だからもうすこしだけ我慢――、ッ」
その直後。
またも雷光が走ったかと思うと、縁側の窓外で、なにか別の光が視界に入った。
雷ではない。シャッターでもない。
なにかが『反射』したかのような、それはそんな光だった。
「……気のせいか?」
「く、クロウ……」
と。夏海のそんな涙声に、俺は視線を縁側から眼下に戻した。
「すまない。どうした? 夏海」
「こ、怖くねえよ? 怖くねえけど……い、一緒にトイレ行ってくれね? じ、実はさっきから行きたくって……」
「ああ、トイレだな。わかった。一緒に行こう」
「あ、ありがと……ううぅ、なんで雷なんてもんがこの世にあんだよぉ……」
ぶつぶつと恨み言をつぶやきながら、夏海を介護するようにしてトイレに連れていく。
その後。昼すぎに雷雨が止むまで、夏海はずっと俺の傍を離れなかったのだった。
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