20話 桜と一緒に家に帰った。

「……んー」

 

 秘密組織フルピース、諜報部内。

 その局長室にて、諜報部局長、キャサリン・ノーナンバーはうなっていた。

 目の前のデスクには、一枚の書類。

 先だって諜報部を辞めた、とある男スパイの情報をまとめたものだ。


「失礼します」

 

 と。数回扉がノックされ、スーツ姿の女スパイがファイルを持って入室してきた。


「局長。先日の任務に関する報告書を持ってきました」


「ご苦労さま。適当にそこら辺に置いといてちょうだい。あとで確認しておくから」


「今回ばかりは早めにお願いしますよ? 局長の受領印を頂かないと、わたしたちに報酬が振り込まれないんですから」


「わかってるって。溜めこんでる海外ドラマを見終わったら確認するから。安心して」


「ここまで安心できない言葉も珍しいですけど……って、あれ? その書類」


「ん? ああ」

 

 区切って、キャサリンは目の前の書類を手に取った。


「クロウ……じゃない、元ナンバーナインの過去の任務達成率に関する調書よ。前任の局長が忘れていったものみたい。デスクを整理してたら出てきてね。ワタシがここに配属されたのが数年前で、過去のナインの任務調書って見たことなかったからさ。興味深いなあ、と思って眺めてたのよ」


「き、局長……」


「? なに?」


「できれば、ナインくんの名前はあまり口にしないでもらえますか? 失恋の古傷が痛むので……」

 

 あいたたた、と苦しげに胸を押さえる女スパイ。

 別に付き合ってたわけでもないのに失恋とは、これいかに。

 いやまあ、片思いも立派な恋に区分されるのか? とキャサリンが真面目に悩んでいると、女スパイは深呼吸を挟んで話を戻してきた。


「そ、それで? その『彼』の調書を、どうしていまさら?」


「……まあ、大したことじゃないんだけどね」

 

 トクトク、とグラスにウィスキーを注ぎつつ、キャサリンは続ける。


「その彼の任務達成率が、すこしおかしいなと思ったのよ。おかしいというか、違和感があるというか」


「違和感、ですか?」


「全体の任務達成率は10%以下。数字だけで見れば三流スパイなんだけど……戦闘が想定されている任務に関しては、達成率がすべて百%なのよ。諜報部がさじを投げかけてたSSSトリプルエスの難度を誇る任務も、十二歳の若さで軽々とこなしてる」


「と、SSSの任務を十二歳でッ!? フルピースの現ボスですら、SSSを達成したのは三十歳を超えてからだったのに!?」


「すごいわよね、これ。まさにワンマンアーミーって感じ……だから、こんな低い任務達成率にもかかわらず、『スパイ十指じっし』のうちの九番目、『No.009』の地位を与えられていたのね」

 

 戦闘面に特化した軍部に転属していれば、ナンバーワンの座についていたことは間違いないだろう。


「女には弱くても、戦闘には強かったってことね、ナインは」


「うぐッ!? き、局長……だからその名前は言わないでと……うぅ!」


「ああ、ゴメンゴメン」

 

 まったく悪びれた様子もなく言いながら、キャサリンはウィスキーを呷った。

 家政夫らしくエプロンを装着しているであろう野宮クロウの姿を思い浮かべながら、キャサリンは微笑みと共につぶやく。


「でもまあ……これで、あの三姉妹も安全かしらね」


 

     □


 

 夜空からの青白い照明が、朽ちかけの大型車庫内を照らす。

 ここに来るまでに慣らしておいた夜目を開き、俺こと野宮クロウは桜の状況を確認した。

 左頬に透明のテカリが見える。鈴木のヨダレか。押し倒された際の汚れが制服のスカートに付着しているが、それ以外に目立った外傷は見られない。

 というより、いままさにその傷をつけられそうになっていたのか。


(ギリギリセーフ、といったところか……)

 

 会長さんがすぐに防犯映像を確認してくれたのが吉と出た。

 そのおかげで、俺はこの埼宮港に一直線に向かうことができた。

 この運の良さ。俺も、一流のスパイを名乗ってもいいのかもしれない。

 なんてことを考えていると、バタフライナイフを両手に握る鈴木が、信じられないといった風に話しかけてきた。


「か、家政夫? ただの家政夫が、この数の不良をどうやって倒したというのデスか!?」


「いや、俺を見た途端に殴りかかってきたから、普通にパンチで殴り返しただけだけど……」


「ぱ、パンチだけで、あの数を……? 二十人はいたはずなのに……」


「数は関係ない。戦闘に必要なのは対応力だ――それよりも、だ」

 

 目の前の鈴木に歩み寄りつつ、俺は問うた。


「鈴木くん、侍は好きかい?」


「……は? さ、侍?」


「そう、侍だ」

 

 鈴木が手にしているナイフなど見えていないかのように、気にする必要がないとばかりに、俺は坦々と話を続ける。


「日本の道路が左側通行なのは大昔、その侍たちが刀を左腰に帯刀していたから、という一説があるそうだ。右側通行の場合、すれ違いざまに刀と刀がぶつかって、いさかいが起きてしまう。そうした無用なトラブルを避けるために、日本は左側通行を心掛けるようになったのだそうだ――そうした他人への『思いやり』の精神が、ひとつの文化を形作った。思いやりこそが、日本人の根底にあるべき精神なんだ」


「……な、なにが言いたいのデス?」


 

 すこし怒気を強めて、俺は鈴木をにらみつける。

 ナイフの射程に入った。しかし、鈴木は両手で不安そうに柄を握りしめるだけで、ナイフを振りかざしてはこない。この絶好のチャンスを逃していることからも、武器を使用したことのない素人であることがわかる。

 俺はそっと、右手をエプロンのポケットに忍ばせた。


「いいや。刀をぶつけてくるどころか、きみは抜身の刀を振り回してきたんだ。思いやりの精神も忘れてね――到底、許される行為ではない」


「ゆ、許さなかったら、どうするというんデスか!」


「こうするのさッ!!」

 

 瞬間。

 俺はエプロンからある道具を取り出し、鈴木めがけてトリガーを引いた。

 拳銃ではない。

 会長さんから借りてきた主婦の味方――臭い取りにも役立つ、小型の『ファミリーズ』だ。

 ボトルに充填されている液体が、噴射口から霧となって飛び出す。


「ぬ、あがぁッ!?」

 

 思わず怯み、後退る鈴木。

 目ではなく鼻をめがけて噴射したから、まあ失明はしないだろう。

 鈴木の視界がつぶれた、そのわずかな隙をついて間合いを詰めると、俺は彼の右手首を掴み、可動域とは逆方向にぐるん、と回した。

 合気道である。

 スパイ時代に培った技術を使うことはないと思っていたんだが、まさか使う羽目になるとは。


「――が、はぁッ!!」

 

 枯れ木のような身体が宙を舞い、眼下のコンクリートに叩きつけられる。

 カキン、と金属音を立てて、バタフライナイフが落ちた。

 背中からの落下。ほんの数秒は息ができないだろう。

 

 右手首を掴んだまま鈴木をうつ伏せにひっくり返し、背中を膝で押さえつけると、彼の両手首と両足首を『ビニール紐』で縛っていく。

 これもまた会長さんから借りてきたものだ。

 新聞紙をまとめるのに役立つ、主婦必須のアイテムである。


「これでよし、と……」

 

 縛り終えたのち、鈴木の背中から離れると、俺は彼の顔の近くで屈んだ。


「ここに来るまでの間に警察を呼んでおいた。あと五分もしないうちにパトカーが到着するだろう。捜索願には手間取る警察も、殺人未遂の現場にはすぐに駆けつけざるを得ないはずだからな」


「ぼ、ぼくに……ぼくにこんなことをして、許されると思っているのデスかッ!!」


「ん? それはどういう意味だ?」

 

 芋虫のように身体をよじりながら、鈴木は悪辣な笑みを浮かべて叫ぶ。


「ぼくの両親は政治家なのデスよ! テレビに出るような有名な政治家ではないデスが、政界を裏から操ってきた凄腕の政治家なのデス!! そんな両親の愛息子であるぼくに手を出したが最後、この叶画市に住み続けることはできないと思うがいいのデスよッ!!」


「……なるほど、不良を従わせる資金は親から来てたのか」


「警察を呼んだ? そんなもの、簡単にもみ消すことができるのデスよッ!! 両親はぼくを溺愛している! ぼくの頼みであれば、なああああんんでも! 言うことを聞いてくれるのデスからね! クケ、クケケケケケケッ!!」


「あはは。鈴木くん、きみはひとつ勘違いをしているよ」


「勘違い? なにを言っ――、」

 

 ガキン、と。

 鈴木の眼前に、拾ったバタフライナイフを突き立てる。

 武器の扱いは知らないようだが、権力の扱いは知っているのか。

 なら、俺も本格的に脅さないと。


「きみはいま、俺に生かされてるんだ。両親の権力で生き延びられるんじゃない。桜に傷をつけなかったその一点に免じて、俺が生かしてやってるだけのことなんだ――政界を裏から操ってる政治家? こんな島国で天狗になっている政治家なんて、俺が元いた世界ではモブにもならない雑魚だよ。なんの自慢にもなりゃしない」


「ざ、雑魚……!?」

 

 政界を裏から操ってきた政治家と、世界を裏で支えてきたフルピース。

 背負ってきたものの格がちがうのだ。


「葉咲家を叶画市から追い出してみろ。その瞬間、俺がきみの両親を『排除』する。嘘じゃない、これは本気の『警告』だ――優秀な政治家さまの愛息子くんなら、俺の言葉が本気だってことは伝わるよな?」


「……ッ、クッ……!」


「だから、頼むから、もう黙っておとなしくしててくれ。桜をさらった事実だけでも、俺はきみを殺しそうなんだから」

 

 そう言うと、俺はナイフの刃をグッと自分の左手の甲に押しつけた。

 痛みが走り、手の甲から血が飛び出す。

 暴走しそうな感情を、無理やり冷静にするための処置だ。

 ドクドク、と流れ続ける血液を前に、俺の発言が本気であると察したのか。鈴木は恐怖と苛立ちに唇を噛みしめながら、静かに口をつぐんだ。


「ありがとう。助かったよ」

 

 皮肉を込めて礼を言い、エプロンを左手の止血に使うと、ここでようやく、俺は桜の下に歩み寄った。


「すまない。待たせたな、桜」


「…………」

 

 恐怖、驚き、喜び。様々な感情がよぎっていたのだろう。

 桜は筆舌に尽くしがたい表情で、手の拘束を解く俺を見つめていた。


「これでよし、と。どこか痛むところはないか? 桜」

 

 シャツの袖で頬のヨダレをふき取ってやると、桜は困惑した顔で。


「……う、うん、大丈夫……そ、それより、クロウの手こそ……」


「ああ、問題ない。そこまで深くはないさ――お?」

 

 と。ここで。

 波の音だけだった埼宮港に、パトカーのサイレンが響いてきた。

 思っていたよりも早かったな。日本の警察もなかなかに優秀なようだ。

 数台のパトカーは大型車庫の入口で停車。十数名の警官たちが倒れ伏す不良たちを、そして鈴木を拘束しはじめる。

 

 俺は、桜の肩を抱き寄せ、言った。


「さあ桜、家に帰ろう――夕飯の時間だ」


「……、う、うん……うんッ!」

 

 うれしそうにうなずいたのち、桜は俺の胸に顔を埋め、大声で泣き始めた。

 これまで我慢していた恐怖と不安を吐き出すかのように。

 俺は桜の頭をやさしくなでて、穴の開いた天井から夜空を見上げる。

 明日も、いい洗濯日和になりそうだ。

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