05話 三女の秋樹は読書家で照れ屋だった。

 夏海の部屋を出てリビングに戻った俺は、晩酌の缶やツマミの袋を片付けると、名誉挽回とばかりに保留していたシンクの水垢取りに入った。

 三姉妹をサポートする家政夫にもかかわらず、次女さくらをズブ濡れにした挙句、長女なつみをも辱めてしまった……まさか、初日で二度も失敗するとは。


「元スパイが聞いて呆れる……」

 

 スパイ映画の『ジュテーム・ボンドリン』のように、スマートにはいかないらしい。

 ボヤきながら蛇口を止め、シンクの掃除は終了。

 気付けば、時刻は午後九時半を回っていた。

 すこし廊下に出て耳を澄ましてみると、風呂場からのシャワー音は聴こえなくなっていた。桜はすでに風呂を上がり、二階の自室に戻ったようだ。


「部屋の案内……は、いまさら頼めないか」

 

 俺が寝泊りする部屋は桜が案内してくれる予定だったが、あんなことをしてしまったあとではそれも気が引ける。

 自分で探すしかない、か。

 

 先ほど、夏海を運んだときに確認した限りでは、二階の部屋数は五つ。そのうちの三つに、三姉妹の名前を記したプレートが飾られていた。

 残りの二つの部屋には『冬子』と『しげる』と書かれたプレートが、それぞれかけられていた。冬子は当然母親として、茂とは他界した父親の名だろう。

 まさかその父親の部屋を借りるわけにもいかず……となれば、二階は三姉妹の領域、と考えておいたほうがよさそうだ。


「一階の空き部屋を探すか。この広さなら一部屋ぐらい空いているだろう」

 

 つぶやきつつ、俺は手荷物を持ち、一階の散策を始めた。

 



 

 これだけ広いとなると、三姉妹を守るためにも、家の中に監視カメラを仕掛ける必要があるかもしれない。

 なんてことを考えながら、空き部屋を探すこと数分。

 薄暗い廊下の先で、ぼんやりと明かりが漏れていることに気付いた。

 わずかに扉が開かれているそこは、最後に覗こうと思っていた一室だった。予定を変更して、光に群がるのようにその一室に向かう。


「おお……これはすごい」

 

 そこは、書斎だった。

 扉を開くと、一メートルにも満たない目前に、何列もの本棚が整然と並んでいるのが見える。圧迫感を覚えるほどのソレは、まるで図書館の一画を切り取ったかのようだった。

 室内は十二畳、いや十四畳ほどだろうか?

 所狭しと並べられた本棚には、小説や絵本、果ては図鑑までもが陳列していた。

 これだけの量を、若い三姉妹がそろえられるとは思えない。

 とすると、これは亡くなった父親の書斎か?


「――だ、誰ですか?」

 

 ふと。本棚の影から怯えるような声が聴こえたかと思うと、ひょこっ、と三女の秋樹が顔を覗かせてきた。

 秋樹は、恐怖をまぎらわすかのごとく一冊の小説を胸にぎゅう、と抱いていた。


「俺だ。家政夫の野宮クロウだ」


「あ……く、クロウさん、でしたか……」

 

 俺の姿を確認すると、秋樹はわずかに安堵した表情を見せる。

 が。本棚の影から出てきてくれる様子はなかった。

 採用時のあのうなずきを見るに、家政夫になることは認めてくれたようだが、いまだに警戒心は持たれているらしい。

 

 いや、まあこれが普通の反応なのだろう。

 桜と夏海が異常に人懐っこいだけなのだ。

 自分の家に他人が住むとなれば、むしろこれぐらいの警戒はして然るべきである。


「すまない。明かりが漏れていたから、すこし気になって入ってしまった。色んな本が置いてあるんだな」


「父が遺してくれた書斎なんです……く、クロウさんも、本がお好きなんですか?」


「ああ。知識は得がたい宝だからな。いくら詰め込んでも、損することがない。そして、知識は生活を豊かにしてくれる種にもなりうる」

 

 スパイ活動の中でも、本好きのターゲットと会話を合わせるときに役立ったしな。


「し、至言ですね」

 

 ススス、と秋樹の身体が半身だけ本棚から出てきた。

 同じ本好きの匂いを察知し、警戒を緩めてくれたのかもしれない。

 なんか、日本に伝わる『天岩戸あまのいわと』の話のようだ。


「秋樹はどんな本が好きなんだ? その胸に抱いてるのは、日本の小説のようだが」


「す、推理小説が好きです……これは、『東頭改革とうとうかいかく』さんっていう若いミステリー作家さんの、『パズル・ウォー』っていう小説です」


「ほう。どんな内容なんだ?」

 

 本好きの対処法はただひとつ。

 本に関する質問をすることだ。


「あ、あの、えっとですね」

 

 ついには身体をすべて出し、秋樹がトトト、とこちらに歩み寄ってくる。

 なんだか小動物みたいだ。

 岩戸が開き、世界に光が戻った瞬間である。


「世界の全システムが『ファイアーパズルウォール』っていうシステムに挿げ変わった、いわゆるディストピアものなんですけど、システムを統治するAIがバグを起こして殺人を犯していく、というお話なんです――ディストピアもの特有のファンタジー感がありながらも、現実に即した推理を展開していくせいで、そのファンタジー感もひっくるめて現実なんじゃないかという錯覚に陥るんです。まるで、そのディストピアが隣に存在しているかのような」


「ふむふむ」


「いまわたしが読んでいる第二章では、『水平思考パズル』が出てきているところなんですが。ご、ご存知ですかね? 水平思考パズルって」


「もちろん知っている。『ウミガメのスープ』だろ?」

 

 有名なシチュエーションパズルだ。

 なにより、水平思考はスパイに求められる思考法のひとつでもある。あらゆる状況を想定、対処できるようにするため、柔軟な思考を身につける必要があるのだ。

 まあ、いまはもうスパイでは(以下略


「そうですそうです! よくご存知ですね!」

 

 同志を見つけた、とばかりに興奮気味に近づき、こちらの顔を見上げてくる秋樹。

 その黒縁眼鏡の奥の瞳は、うれしそうにキラキラと輝いていた。


「わたし、これがどうにも苦手で……この作中に出てくる問題も、いまだ解けずにいるんです。普通に読み進めれば答えがあるんでしょうけど、すぐに答えを見るのは、なんか悔しくて」


「根っからのミステリーマニアだな。作家の挑戦は受けて立つ、という精神なわけだ。ちなみにどんな問題なんだ?」


「えっと……『男性Aが自宅で横になっていると、突然、窓ガラスが何者かによって割られました。けれど男性Aは怒らず、むしろ割った人物に感謝していました。さて、それはなぜ?』といった問題ですね」


「……なるほど」

 

 水平思考パズルは、解答者が出題者に対して質問していき、推理して、外堀を埋めるようにして答えを導き出すものだ。

 出題者はそれに対し、イエスかノーだけで答えていく。

 秋樹はその質問を見た上でも、答えにたどりつけていない、ということなのだろう。

 この程度なら、質問を見ずともわかりそうなものだけれど。


「答えは、『部屋にガスが充満していて、男性Aは死にかけていたから』、じゃないか?」


「……え?」

 

 呆気に取られたような顔をしたのち、秋樹は素早く本を開き、答えを確認しはじめる。

 数秒後。静かに上げられた秋樹の表情は、驚愕のソレに変わっていた。


「せ、正解です……く、クロウさん、すごいです!」


「よかった。なんとか面子めんつは保てたみたいだな」


「頭がやわらかいんですね! わたしは、昔から頭が固いので羨ましいです……どうしたらそんな風に柔軟な発想ができるようになるんですか?」


「企業秘密だ」


「そんな、教えてくださいよ! すこしだけでいいですから――、あ」

 

 と。無邪気に教えを乞い、秋樹が俺のほうにさらに詰め寄った、その瞬間。


 むにゅ、と。

 ふたつのやわらかな感触が、俺の腹部に当たった。


「ひぅ」息を吸うような声をもらし、秋樹が慌てて後ずさった。ぷるぷる、と身体を震わせながら、ぱくぱく、となにか弁解しようと口を開閉している。

 その顔は、病的なまでに真っ赤に染まっていた。

 ほんのわずかな接触でこうなってしまうとは。秋樹は極度の照れ屋らしい。


「あー……大丈夫だ、秋樹。落ち着け」


「あ、ああ、あの、わたし……す、すみませんでしたッ!!」

 

 俺がフォローするよりも早く、とんでもない速度で書斎を後にする秋樹。

 先ほどの熱弁から、根っからの読書家だと思っていたが、運動もそれなりに得意なようだ。


「またやってしまった……」

 

 まさかまさかの、三度目の失敗。

 三姉妹と俺は、相性が悪いのだろうか……?

 これはもう、明日にでも解雇されてもおかしくないのでは……、とすこし真面目に心配しながら書斎を後にすると。


「――あ、クロウ!」

 

 廊下で、寝巻き姿の桜に声をかけられた。

 お風呂上りであることを示すように、その頬はほんのりピンク色になっている。


「やっと見つけた。こんなところにいたのね。なにしてたのよ?」


「いや……まあ、これから泊まる部屋を探そうとしていたら、書斎を見つけてな。すこし見学していたところだ」

 

 秋樹が俺に胸を押し当てたことで照れてしまい、逃げ去ったところだ、なんて言えるはずもない。


「そうなんだ。約束してた部屋案内してあげようと思ったのに、無駄になっちゃったかな?」


「案内してくれるのか? 桜をあんなビショビショに濡らしてしまったのに?」


「語弊がある言い方しないで! ――さっきも言ったけど、誰でも失敗はあるものだし、気にしてないわよ。私のほうこそ、お尻蹴っちゃってゴメンなさい」


「そんな、謝らないでくれ。元はと言えば、濡らした俺が悪いのだから」


「そう? それじゃあ、おあいこにしよ?」

 

 そう言って、にへら、と桜は頬を緩ませる。

 こんな憎めない顔をされたら、誰だって口にする答えはひとつだ。


「ああ、もちろんそれでいいさ。ありがとうな」


「えへへ。こちらこそー。ささ、お部屋に案内しますわよー」

 

 おどけながら、踵を返して部屋案内を開始する桜。俺も遅れて、その後を追う。

 と。その中途でのことだった。


「そういえばさ、クロウ」


「どうした? 桜」


「さっき、秋樹が涙目で書斎のほうから走ってきて、そのまま二階にあがっていったんだけど……原因、なにか知ってる?」


「ッ……、い、いや……俺は、なにも……」


「ふーん……そうなんだ、へえ……」

 

 暗殺者もかくやといった冷徹な眼差しで、俺を睥睨してくる桜。

 その、あまりの重圧に堪え切れずに俺が自白を始めたのは、それから数分後のことだった。

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