【Web版】元スパイ、家政夫に転職する

03話 次女の桜を濡らしてしまった。

　海外の、ましてやフルピースの施設で十五年間暮らしてきた俺にはわからないが……葉咲家の一軒家は、日本の一般家屋の中では比較的大きいほうだと感じた。

　豪邸と呼ぶには庶民的すぎるけれど、一般家庭の家にしては豪華すぎる。そんな家だ。

　外観から見た限り、土地は軽く百坪を越えているだろう。

　家屋内の間取りも、窮屈に感じる箇所が見当たらない。広々でゆったりとした設計になっている。

　家具などのインテリアも洒落（しゃれ）ていて、まるでデザイナーズハウスのような雰囲気を醸（かも）し出していた。

（冬子の努力の賜物か……）

　女手ひとつでこんな大きな一軒家を持ち、あまつさえ子供三人を育てているのだ。冬子の仕事の辣腕（らつわん）ぶりは、火を見るよりも明らかだった。

　この広さなら、掃除機をかけるだけで二時間はかかるだろう。

　冬子が家政夫を雇ったのは、だから、三姉妹を守る意図のほかに、純粋に家事を手伝ってくれる人間がほしかったからなのかもしれない。

　そう――つまり、なにが言いたいかというと。

　家政夫とは本来、そんな家事手伝いをしてくれる人間のことを云うのだ。

　決して、うら若き少女と一緒にお風呂に入るような人間を指して使う言葉ではない！

「俺は動かない、ここを一歩も動かないぞ！」

「なんでここまで来て抵抗すんのよ！　ほら、いいから入りなさいよ！」

「グッ、十五年鍛え続けてきた俺を引きずる腕力……！　桜、只者ではないなッ!?」

「わ、私が怪力みたいに聞こえるじゃん！　そんなに力強くないもん！」

　などと供述しながら、桜容疑者は俺の右腕を両手で鷲掴み、強引に風呂場に引きずり込もうとするのだった。

　秋の鈴虫が鳴き始めた、午後八時。

　夏海と秋樹が夕食中なのだろう。リビングからカレーのいい匂いが漂う中。俺と桜はふたり、風呂場に繋がる脱衣所で一進一退の攻防を繰り広げていた。

　なにかの聞き間違いだろうと思い、案内されるがままにここまで来てしまったけれど、まさか本当に風呂に入ろうとするとは！

　まだ十六歳だというのに、なんていかがわしい！

　いやまあ、海外では十六歳といったら、それはもう色んな経験をしてしまう年齢だけれど、日本の十六歳はもっと慎ましやかだと聞いている！

　俺の本分は家事手伝いだが、この辺りの倫理観も教育せねばなるまい！

　と。そんな家政夫魂と共に、脱衣所に踏みとどまらんとする俺を力強く引っ張りながら、桜が「とにかく！」と苛立ちまじりに口を開いた。

「実際に入らないと、大事な『お風呂掃除』の説明ができないでしょッ！」

「……風呂の掃除、だと？」

「え――、うわッ!?」

　抵抗する力を弱めた瞬間。拮抗する力をなくして、桜が後方に大きく傾いた。

　俺はすかさず駆け寄り、倒れかけた桜の後頭部と腰にサッ、と手を回して受け止める。

　できあがったのは、仰向けになった桜を、俺が上から覗き込むという……一国の王女にキスをせがむ王子のような姿勢だった。

　いや、まあそれはそれとして。

「桜。風呂の掃除が、大事な話なのか？」

「嘘でしょ!?　このポーズのまま話を進めるのッ!?　どんだけシュールなのよ――もう、いいから戻して！　受け止めてくれてありがと！」

「どういたしまして」

　言いながら、体勢を戻して桜を立たせる。

　怒りながらも感謝を忘れない辺り、桜の倫理観は正常のようだ。倫理観というか、道徳心というか。

　まあ。真っ赤に染まった桜の顔は、どう見ても正常ではなさそうだけれど。

「それで、なんで風呂掃除が大事なんだ？　桜」

「普通に話を戻してきた……うちは、三人姉妹でしょ？　三人もいるとなると、お風呂に入る回数も増える」

「？　当然だな」

「だから、その分お風呂が汚れるのも早いのよ。二日お風呂掃除をサボれば、排水溝に髪の毛が詰まって水が溜まっちゃうレベル」

「ふむ……となると、一日一回は洗っておきたいところだな」

「そうなのよ。でも、この広さでしょ？」

　呆れ気味に言って、桜はこれまた広々とした風呂場内を見渡した。

　浴槽は五、六人は入れるほどに大きく、シャワー台に至っては三つもそなわっている。

　昔、日本の仁侠映画で出てきた銭湯のコンパクト版のようだ。

「三人で曜日ごとに分担して掃除するにしても、時間がかかりすぎちゃってね……これを掃除するとなると、ひとりで大体一時間は取られちゃうのよ」

「風呂掃除に一時間は長いな」

「でしょ？　でも、お風呂は毎日の癒しだから、綺麗に保ちたい――そこへやってきたのが、救世主のクロウってわけ」

「なるほどな。これはたしかに大事な話だ。俺にまず、風呂掃除の手順や注意事項を伝えようというわけだ」

「理解が早くて助かるわ。と言っても、家政夫のクロウに説明することなんてほとんどないだろうけどね。期待してるからねー？」

「……任せておけ」

　あまりにも急な転職だったため、ハウスキーパーとしての技能を一切磨いてきていないことは、いまは黙っておこう。

　追い出されちゃうから。

　……いや、いいのだ。これから学んでいって、三人にバレないほどの成果を挙げれば、オールオッケーのはずである。

　たぶん。

「じゃあ、まずは洗剤の場所を教えとくね。このシャワー台の下に、一通りそろってるから。洗うためのスポンジとかも、大体ここにあるからね」

「ふむふむ」

　桜が屈んだのを見て、俺もその隣で屈みこむ。

　その際、左手をなんとはなしにシャワー台に置いたのがマズかった。

「あ」

「…………」

　左手に触れたなにかがクイッ、と上げられたかと思うと、桜の頭上に暖かなお湯が降り注ぎはじめた。

　家政夫の技能をまったく持っていない俺でも知っている。

　これは、シャワーだ。

　暖かい、シャワーだ。

「あの、すまない。手が当たってしまって……」

「……い、いいわよ。誰でも失敗はあるものね。うん、大丈夫よ……」

　俺がシャワーを止めると、震え声でつぶやきながら桜は髪をかきあげた。

　怒っていらっしゃる。

　一国の王女さまが、静かにアングリーしてらっしゃる。

　ここは、これからの家政夫生活を円満なものにするためにも、なにか機嫌のよくなる言葉をかけないと！

「桜！」

「なに？」

「その透けた水玉のブラジャー、とてもよく似合っているぞ！」

「いますぐ出て行けええええええぇぇぇーーーッッ!!」

　ケツを蹴り上げられ、勢いそのままに風呂場を追い出される俺。

　なんてこった！　褒めるべきは下の下着だったか!?

　直後。バタン！　と扉が閉められ、シャワーの流れる音が聴こえはじめた。

　いまは十月下旬。濡れたのならすぐに風呂に入るのが正しい判断か。

　あれだけ広い浴室なら、濡れた服もそこら辺に置いておけるしな。

　俺は扉越しに「すまない」ともう一度謝罪したのち、トボトボと脱衣所を後にした。

　まったく、我ながら先が思いやられる。

　肩を落としながらリビングに戻ると、そこには夏海の姿があった。

　三女のアキの姿はなかった。二階の自室にでも戻っているのだろうか？

　夏海は、リビングのソファに寝転がりながら、バラエティ番組を見ていた。近くのローテーブルには、日本の発泡酒とツマミが置いてあった。

　完全にくつろぎモードである。

　となればもちろん、夕飯は食べ終えたのだろう。キッチンを覗いてみると、カレーをよそっていたであろう食器がシンクに積み重ねられていた。

　よし。先ほどの失敗を帳消しにするためにも、ここではじめての家政夫業をこなしておくか。

　そう思い、ワイシャツを腕まくりして洗い物に取りかかろうとした、そのとき。

「お、クロウじゃねえか。桜はどしたん？」

　俺の存在に気付いた夏海が、ソファの背もたれに顎を乗せつつ、そう話しかけてきた。

　俺は蛇口をひねり、カチャカチャと洗い物をはじめながら。

「風呂に入っている。俺の不手際で服を濡らしてしまってな……申し訳ないことをした」

「あちゃー。まあドンマイドンマイ！　そんな日もあるさ。それに、服を濡らしたってことは、桜の濡れ透け下着も拝んだんだろ？　どうだったよ？」

「しっかりとした性格の割に、存外子供っぽい色合いの下着を着けていたな……って、なにを言わせるんだ」

「アハハハ！　そこまで暴露しちゃうんだ！　おもしれえなあ、クロウは！」

「まったく……こう見えて俺は仕事中なんだ、夏海はテレビでも見てゆっくりと――」

「――クロウってさ」

　ふと。

　からかう語調が変わったかと思うと、夏海はどこか面映そうにこう訊ねてきた。

「彼女とか、いるん？」

「いや、いないが？　できたこともないな」

　即答すると、夏海はわずかに目を見開いて。

「マジで？　じ、じゃあ、結婚とかも……？」

「もちろんしていない。ずっと、転職前の仕事にかかりっきりだったからな。恋人を作る余裕などなかったよ」

「そうなんだ……へへ、じゃあ、チャンスはアリアリだな」

「？　なんの話だ？」

「あたしらの話さ――なあ、クロウ。洗い物はもういいから、ちょっとこっち来いよ」

　そう言って、夏海は発泡酒の缶をこちらに見せびらかすようにして振ってきた。

　その表情は、ひどくうれしそうなソレだった。

「お姉さんと一緒に、楽しい楽しい晩酌をしよーぜ」