第9話 優しい温もり

 台所に女性が一人立っている。

火にかけられた鍋からは、甘辛い香りがする。

小皿に少し取り分け、味見をする。


「うん、これでよし!」


(ガチャ)


すると玄関の方から、ドアが開く音が聞こえる。



女性は持っていた小皿を台所の上に置き、机の上に用意していたバスタオルを手に取った。


「おかえりー!雨すごかったでしょー。」


玄関には、川にでも落ちたのではないかというほど全身を濡らした美緒みおが立っていた。


「美緒!あんた、どうしたの?」


彼女が心配したのは、ずぶ濡れな美緒の姿よりも、今にも泣き出しそうな美緒の表情の方だった。


彼女は持っていたバスタオルを美緒の頭に被せ、優しく拭き始めた。


「大丈夫?先お風呂入りなさい。」


彼女の優しい声に、今まで我慢していた何かが突然ぷつりと切れた。


「お母さん…。うっ…お母さぁん…」


その瞬間、美緒の両目からは大粒の涙が溢れんばかりに流れ出した。

そのまま倒れるように彼女の胸に飛び込む。


「うあぁ…ああああ…」


まるで赤ん坊のように泣き叫ぶ美緒を、彼女はそっと背を叩き、抱きしめるだけだった。



 カーテンの隙間から、日差しが差し込む。

壁に立てかけてある鏡の前で、制服姿の美緒が立っている。

昨日泣いたせいで、目は少し腫れていた。


階段を降りると机の上には朝食が並んでいた。


「おはよう!ご飯食べなさい!学校遅れるわよ!」


「うん。…ありがと!」


いつもと変わらない朝。


うん…。何も変わらない。


いつも通り、学校に行くだけ。




 教室に入ると、まず西宮と目があった。

西宮はすぐに目を逸らしてきた。

美緒はそのまま何もなかったかのように自分の席についた。


「美緒ー!おはよー!」


「おはよう千鶴ちづる。」


「大丈夫?顔むくんでるよ?」


「えーなにそれ、悪口ー?」


「ちーがうよー!心配してんのー!」


「なになにー?なに騒いでんのー?」


愛美まなみ詩織しおりが教室に入ってきた。


「てか、美緒!あんたその顔どした?」


「ほんとだ!目ぱんぱんじゃん!」


「もう…うるさいなぁ!」


「「あはははは!」」


大丈夫。

いつも通り。いつも通り。




 「1限目から移動教室かー。」


「教室けっこう遠いもんね。」


詩織と美緒が並んで廊下を歩いている。

すると美緒は、前方に大智の姿を発見した。

大智はまだ気付いていない。


「あ、ごめん詩織!私忘れ物したから教室戻るね!」


「あ、うん。わかった!」


急いでUターンする美緒。

走って教室へ向かう。

それに気づき、大智は視線をそちらへ向けたが、すでに美緒の姿はなかった。


教室に戻ると、沢野だけが残っていた。


「あ…」


反射的に声が出る。


「えーっと…忘れ物、忘れ物…。」


独り言を呟きながら机の中身をあさる。


「何かあった?」


沢野が話しかけてきた。

まさか話しかけてくるとは思っていなかった美緒みおは驚いた。


「え?」


「いや別に、話したくないんだったら無理して言う必要ないけど。」


そう続けた沢野は教科書を手に取り、教室を出ようとした。


「なんかね…自分でもよくわからないんだ。」


沢野は足を止めた。


「自分が自分じゃ無いみたいっていうか…そもそも何が自分みたいなのかも分かんないし。」


沢野は教室の外を見つめている。


「自分はいいと思ってても、他の人はそれを良く思わないっていうか…なんて言うか…」


あれ…?わたし、何言ってんだろう。


「あー、ごめん。何言ってるかわかんないよね。あはは…。」


由乃よしのさんは…」


「え?」


「由乃さんは…もっと自分の気持ちに正直になってもいいと思う。」


自分の気持ち…。


「他人のこととか、自分がどうとか、考え過ぎじゃない?そういう生き方って…窮屈きゅうくつだと思うよ。」


窮屈きゅうくつ…か。


涙が溢れそうになったが、それを必死で堪えた。


「うん!そうだね!沢野さんの言う通りかも」


「かもって…ただ私の考えを言っただけだから気にしないで。」


そんな沢野さんの優しさに、私はまた助けられた。


「ありがとう。沢野さん!」


沢野は何も言わずに教室を出て行った。




『雨のせいで冷えていた体は、優しい温もりのおかげで少し温まった。』

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る