虹を見にいこう 第1話『3LDK 駅徒歩5分』
なか
Chap.1-1
「ただいまー」
都営新宿線三丁目駅を降りて、東新宿方向へ徒歩五分。僕が今年になってから住み始めたマンションはちょっと特徴的な繁華街の外れにある。
「おかえりなさ~い」
廊下の向こう、リビングから気だるいシャガレ声が聞こえてきた。声の主が誰なのかすぐにわかって、大あくびをしているその顔が思い浮かぶ。昨夜も遅くまで飲み明かして、土曜の一日を無駄に過ごしていたに違いない。
(そんなことよりも!)
と革靴を脱ぎ捨てると、僕は声の聞こえたリビングではなく、廊下の途中にある洗面所に大慌てで飛びこんだ。まだまだ我慢できる……大丈夫、と駅のトイレをパスしたものの、わりとのっぴきならぬ状態になってしまったのだ。
スーツのベルトに手をかけながらトイレの戸を勢いよく開け放った。
「わ、チャビ! カギかけろよ」
洋式便座に座る、丸まるっとした物体が僕の声に「ん?」て顔を向けた。
「ああ、いっぺいくんか。おかえりなさい」
マイペースな声があがった。その手に握られた携帯ゲーム機からピロピロと電子音が漏れている。
「ボクはもう済んでるから。ハイどうぞ」
とスウェットズボンをズリ上げながら便座を譲ってくれた。
「ゲームをするなら、自分の部屋かリビングでやれって」
「うん、ちょうどいいところでやめられなくなっちゃって」
たはは、と穏やかな声でニッコリとする。いろいろと言いたいことはあったけれど、もう便意もガマンの限界で、童話に出てくるクマのように緩慢な動きのチャビを追い出すようにしてトイレの戸を閉めた。
今、トイレにいたのは通称チャビ。本名は知らない。このマンションで共同生活をしている同居人のひとりだ。みんながチャビ、チャビと呼んでいるので、自然と僕もそう呼ぶようになった。どうやら英語の『チャビーピギー』が由来らしい。可愛らしい子豚さん、くらいの意味かな。
間一髪、ギリギリセーフで用を足し終え、フウと額の汗を拭いながらトイレを出る。大きな洗面台にはハブラシが五本。見事に一本ずつ色が違う。まるでレインボーカラーのようだ。ちなみに僕のハブラシはオレンジ色のやつ。だいぶ毛羽立ってきたし、そろそろ買い替えどきかも。オレンジ色が特段好きなわけじゃないけれど、自然と色で誰のハブラシか識別するようになったので、また同じ色のものを買ってこなきゃなあと思う。
手洗いうがいもして、スッキリ、サッパリ。朝の高原のように爽やかな気分で、足取りも軽くそのままリビングへ向かった。
「お~、一平。おかえりなさい。休日出勤、お疲れさま」
リビングに入る手前で、キッチンから声をかけられた。キッチンへの出入り口は、今僕が立っている廊下側とリビング側の二つがある。廊下側の出入り口からは、食器棚が邪魔をしてガスレンジがある奥の方は見えない。そこからヒョイッと丸メガネをかけたタカさんの顔が覗いた。フライパンを握りながら、こちらに顔を向けているようだ。
「客先まわるの一個キャンセルになっちゃったんですよ。おかげで早く帰ってこれました。僕の夕飯あります?」
「んー、あとひとり分くらいは増量できるかな?」
「よろしくお願いします!」
了解! て返答とジャーとフライパンで何かを炒める音が聞こえて、僕のお腹がぐうと鳴った。一日働いてハラペコだ。
僕はこの3LDKのマンションで、四人の男たちとルームシェアをしている。僕を含めれば計五人。キッチンでみんなの夕飯を作ってくれているのが、共同生活をしている僕らのボス、タカさんである。沖縄出身でいつもアロハシャツを着ている。タカさんにとってアロハはトレードマークみたいなものなのだろう。僕はあまり詳しくないが、いわゆるビンテージと思われるものを着ているときもある。アロハシャツのビンテージって、目ん玉飛び出るくらい高価で、素人にはちょっと着こなせない大人の雰囲気がある。同じものを僕が着たら、きっと「もうヨレヨレじゃない。いい加減、捨てたら?」と言われてしまうだろう。そういうものを着こなせるタカさんが羨ましい。ラウンド髭で丸いメガネも良く似合っている。
リビングの戸を開けると、バラエティ番組のにぎやかな声が大型テレビからガンガン鳴り響いていた。家のリフォーム番組で、ぼーっと観るにはちょうどいい。でもさすがにこの大音量はちょっとうるさい。
『家族がトイレに行くたびに目が覚めてしまい熟睡できないお母さん……。匠の技でこの極小住宅がどう生まれ変わるのでしょうか?』
そんなナレーションを聞きながら、テーブルに投げ出されていたリモコンを手に取る。
「ちょっと音、小さくしますよ」
テーブルに化粧道具を広げたリリコさんに声をかけた。
「どうぞ。どうせ誰も見ていないもの」
酒にかれたダミ声。こちらには目もくれず、長いつけまつげを器用に糊付けしている。
さっき玄関口で『おかえりなさ~い』と返してくれたのが、この女装家のリリコさんだ。その横では無印良品で買って来たビーズクッションに埋もれるようにして、チャビが携帯ゲームに没頭していた。タカさんはキッチンで料理中だし、確かに誰もテレビを観ていない。
「誰も観てないなら、テレビ消してください。電気代だってかかるんですから」
「一平って、ホント貧乏くさいわねえ。シーンとした部屋じゃ、化粧のノリが悪いのよ」
そんなことを言うリリコさんは、週末女装家で、普段は会社勤めの(サラ)リーマンをしている。リリコさん本人に言わせると、髪を撫でつけてスーツを着ている普段の方が男装をしているということらしい。でも、どちらもリリコさんであることに変わりはない。
人が化粧をするシーンを他に見る機会がないので比較はできないが、超ド派手なショー化粧をするリリコさんの作業は顔面の改造工事に近い。くるんと大きくカールしたつけまつげにアイラインをめえいっぱい長くして。自分の唇の輪郭を書き換えるように厚く口紅を塗る。ラメの入ったキラキラのやつだ。ほお紅だって恥ずかしいくらい真っ赤にするし、ときにはクジャクの羽を連想させるような衣装を着る。僕は普段の冴えないリーマン顔の方がホッとして好きなのだけど。
そんな顔面の突貫工事をリリコさんは決まってリビングで行う。リリコさんに限らず、共同生活をする僕らは自然とリビングに集まる習性があるようだ。チャビだって自分の部屋でゲームをした方が静かで集中できそうなのに、ゲーム機を腹に乗せたトドのようにしてここのクッションに寝そべっていることが多い。リビングにいてもそれぞれが別に誰と話すわけでもなく、化粧をしたりゲームをしたり、おのおの好き勝手なことをしている。
鞄を足元に置いてフゥと息をついていると、
「一平も土曜まで仕事して大変よねえ。あたし、営業はぜったい無理だわ」
リリコさんがそう言いながら、ツメに塗ったマニュキュアの鮮やかな赤色を照明にかざした。
「どうかなあ。僕も好きで営業やってるわけじゃないですけど。別に嫌いでもないというか。楽しいと思えるときもあるし」
首もとのネクタイをするりと抜いて、肩にかける。ようやく仕事から解放された気分になる。ダイニングテーブルの椅子に座っているリリコさんが僕の方へ顔を向けた。
「あんたのそのコトナカレ主義っていうの? そういうものの考え方をストレスなくできるの一種の才能だと思うわ」
何を言われたのかよくわからなかったが、バカにされたワケでもなさそうだし、まあいいか。
リビングの隣、引き戸の向こうが僕の部屋だ。八畳の和室をリリコさんと共同で使っている。タカさん以外は、みんな二人一部屋。ただチャビはほぼリビングで寝泊まりをしているので、自分の部屋には着替えくらいしか置いていない。
よくもまあこれだけ多種多様な人々が一緒に生活出来ているよなあと思う。生活も性格も、てんでばらばらの男達ばかり。ゲイバーでマスターをしているタカさんを筆頭に、女装家のリリコさん、ゲーム好きのチャビ、あともうひとりユウキってやつがいる。二十六歳のイマドキの子だ。今日はまだ帰って来ていない。まあ、いたところでリビングの風景が変わるわけでもないが。
引っ越して来るまでは、3LDKで五人も揃ったら窮屈じゃないかと心配だった。でも一部屋一部屋がゆったりしているので、思ったより息苦しさは感じていない。何より十五畳近いリビングがひろびろとして実に快適だった。日が落ちれば、窓の外に新宿の夜景が広がる。マンションの十階なので高層ビルの多い新宿では、そんな遠くの景観までは見えないが、十分見晴らしがいい。繁華街が近いので、周囲の治安はそんなによろしくない。でも、セキュリティがしっかりしているので問題無し。駅からも近い好立地で、ひとりで住もうと思ったらとても家賃が高くて無理だろう。ルームシェアとはいえ、都心の高層マンションに住めるなんて夢のような話だった。
chap.1-2へ続く
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