第八章 声

(1)

  

 八月も中頃、穂高は寮の部屋の窓を全開にして掃除に勤しんでいた。元々、汚れがたまりにくい素材が使われた建物だが、掃除を怠っていたせいで、既に五枚ほど雑巾を黒く染めてしまった。

 窓も神経質なくらい念入りに拭いてしまう。元々、あまり物を持つ方ではなかったので、整理の方はすぐ終わった。テラスに干していた絨毯を回収すると、消臭スプレーで丁寧ににおいを消していく。


 無臭でよかったかな。うーん、でも絨毯からミントの香りとかもおかしいよな。


 不慣れなことすれば、考える癖で余計なことにまで気を取られる。しかし、もう迷っている時間などない。

 今日、この後、奏がこの部屋に来るのである。

 寮生たちが本格的に帰省先からここに戻ってくる前、今の時期に招待することにした。現在、この第三男子学生寮はあまり人気はない。しかし、穂高と同じ目論見を持つ寮生は何人かいるようで、朝から、星緑港のかどうかはしらないが女学生の影がちらほら見える。

 ここの食堂で人目も気にせず、一緒に食事を楽しんでいる性根の野太い生徒もいるが、さすがにそこまでは真似できない。福利施設を寮生の関係者が使ったところで別に職員が見とがめるようなことはまずないが、自分たちを噂にしてくださいと言っているようなものである。彼女とは依然としてプラトニックな関係であるわけだし、余計な勘繰りは避けたい上、場所柄として他の寮生には配慮すべきだろう。

 一区切りついて、ベッドに腰を降ろした。ここもシーツを洗って消臭済みである。


「うふふ……」

 うかつにも、ニヤニヤ顔から言葉が漏れてしまった。奏が待ち遠しくて、いちいち口の両端が垂れ下がってくる。

 遊具も豊富に取り揃えてある。レクリエーションルームから拝借してきたトランプやボードゲームから、二人でできるVRでの疑似観光などを考えている。


 結局いつもお喋りだけでほとんどの時間を使っちゃうんだけど……。


 両手を前に伸ばして伸びをしたところ、収納ケースに入っているあれが目に入った。

「そうか、ここにしまったんだっけ……」

 あの機械の球形物(スフィア)、今は何の変哲もないオブジェにしか見えない。


「……」

 すこし気になり、手を延ばそうとしたが、すぐに引っ込めた。

 これから、奏と楽しく過ごすのに余計なことに気を取られたくはない。時計を見ると、十時四十三分。十一時に寮のエントランスで待ち合わせなので、そろそろ出迎えの準備にかかりたい。着がえは動きやすい綿のスラックスに奏からもらったシャツで合わせた。外にデートに行く時以上に外面に気をつける。寮生の目がある以上、奏に恥はかかせられない。もっともここは工科生がほとんどなので、穂高が奏を連れ込んでいるところに出くわしたところで、うわさの種にはしても、陰口をたたいたりはしないだろう。そのあたりは、同科の友誼のようなものである。

 RCを確認、奏は先ほど出たとのことである。はやる足取りで、部屋を出てエントランスに向かう。エスカレーターから下を見るが、人気があまりなく、少々物寂しい感じがした。


 昌貴たち、来週には帰って来るかな……。


 寮の手前にある駐車場で、そわそわしながら待機する。日差しは強く、風はほとんどない。早くも汗が流れてきたが、彼女を外で出迎えないわけにはいかない。奏のためなら、この程度の暑さを忍従するなど造作もないことである。

 にやけ顔にならないように、おもむろにストレッチを開始したが、通りすがる寮生に怪訝な目で見られたのでやめにした。


 あっと……、あれだな。


 一目で奏のマンションのUVと把握した。そのまま敷地内に進入し、ちょうど穂高が立っているすぐ前のスペースに駐車した。ドアが開かれ、奏が出てきた。

「お、お待たせ……」さすがの彼女も少々、緊張しているように見える。

「いらっしゃい……」

 UVは奏が帰る時に使うのでそのままここに待機させる。規則上、本来はまずいのだが、人がほとんどいないので気にする人もいないだろう。

「さあ、こっち」

「うん」

 寮内ということもあり、多少ためらいはあったが手をつないで、奏を先導する形で歩いていく。エスカレーターの途中で、似たような事情のカップルとすれ違うと、苦笑気味に会釈を交わした。


 穂高の部屋は三階であり、ここの階の部屋は一年生がほとんどである。一階には食堂とメディカルルームのほか、寮生の日常生活を支援する生活課室がある。二階は図書室やVRルーム、多目的ホールやレクリエーションルームが設置されており、夏休み中も遊んでいる寮生が見えた。


「ここの生活って楽しそうだね、にぎやかで」

「うん、最初来た時、正直不安だったんだよね。軍隊みたいな場所だったらどうしようって。でも、ほんと二、三日で馴染んだよ。遊ぶにも勉強するにも事欠かない、こんな楽しくていいのかって思えるくらい」

 嬉々としながら語る。

「私もほんとは女子寮に入りたかったんだけど……」

「あ、うん……」

 なんとなく事情は推察できる。奏は祖父が保有していた三崎貿易の株式を相続しているらしく、内部的でデリケートな資料を扱う立場上、寮は不向きだったのだろう。


 あるいは……。


 母親に、気軽に来てもらいたい、と思っていたのかもしれない。

 エスカレーターで三階まで来た。

 奥行きのある廊下の大窓から日差しが差し込み、静けさと合わせて、どこか聖堂めいた雰囲気を現出させている。

「やっぱり今は、あまり人いないんだね」

「みんな帰省してるからね。って言っても普段からこんな感じだよここは。まだ部屋もだいぶ空いてる。来年、新入生が入ってくるまでは静かなもんだよ」

「そっか、去年できたばかりだもんね。部屋って選べたの?」

「一応、希望は出せたけど。望んだとおり、三階にはなったよ」

 生徒居住区は二階からであり、二階は数が少ない上、すべて埋まっているということなので、朝、さっさと通学できるようにここを希望したのである。四階、五階は眺めはいいが降りるのがめんどくさい、と思った。

「ああ、そうだよね。私も毎日五階から降りるのが、ちょっと大変で……」

「あ……いや、俺がだらしないだけで、はは……。夜は肝試しができるくらい静かだよ今は」

 誤魔化しながら、自分の部屋まで奏と行く。


 壁に設置されている電子パネルが、落とし物、忘れ物の放送を行っていた。

「ハァ、こんなこともやってくれてるんだ」

「う、うん」

 恋人との写真を、ここに晒されて、顔を真っ赤にしていた寮生を見たこともある。あまり、便利すぎるというのはありがたいことでもない。

 ようやく部屋に着くと、丁寧に靴をそろえてから、

「さあ、どうぞ」

 いよいよ、愛しの彼女をここに連れ込めたという、感慨が胸に去来した。

「失礼します」

 なにか演技がかった声音で奏が同じようにしてから、入ってきた。

「ハァ……」

 奏が部屋を見渡す。ワンルームだが、ロフトに簡単なキッチンとシャワールームが付随する。

「アハハ……、狭いでしょ」

 二人でくつろぐには充分な広さだが、普段、あの奏の部屋で過ごすことが多いので、その辺りはどうしても引け目を感じてしまう。

「穂高の匂いがする……」

「え……? あ、ああ、ハハ……」

 奏がクッションに座ってもらい、冷蔵庫からお茶の入ったピッチャーを取り出して、コップ二つとともに持ってきた。

「外、暑かったでしょ」

「ううん、ほとんど車の中だったから」

 たどたどしい手つきで、お茶を入れる。奮発して購入した高級茶だった。

「ありがとう」

「部屋の温度、大丈夫?」

「うん、ちょうどいいくらい。ええっと……」

 奏がなにか言いよどむ。普段は会話のネタに困ったりはしないのだが、やはり今は少し、緊張しているのだろう。


「そうそう、キド研の皆さんもここに住んでるんだっけ?」

「昌貴と斎はそうだよ、今は二人ともいないけど。部長は知瀬にも家があるから、ここの寮生じゃないよ。もちろん、上北も」

「アハハ……」

 ごく自然に言った言葉だったが、ジョークを混ぜたと、思われたようだ。

「それじゃあ、私が女性で初めて穂高の部屋に入ったんだー」

 どこか戯れてるような口調になる奏。緊張を紛らわしたいのかもしれない。

「ハハ、そうだね。あ、いや、そういや前に杉岡が来たことがあったな」

「え……?」


 あ……。


 完全にドジを踏んだ。

「え、ええっと、その、ずっと前だよ。奏と付き合うよりも、うん」

「う、うん……」

 事実を述べているに過ぎないのだが、それは、それでまずい言い様な気がした。

「そう、千緒が……」奏が考え込むように視線を落とした。

「あ……そうそう、これあげる。地元駅で買ったお土産」

「ああ、ありがとう。私のは今度あげるね」

「う、うん」

 なんとか流れを変える。

「夏休み終わる前に、どこか行っておきたいとことかあるかな?」

「ううん、もうこの街で行ってないとこなんてほとんどないし」

 一ケ月近くで、知瀬の主要な観光スポットはほぼ制覇した。

「それに穂高といられれば、どこだって……」

「う、うん」

「あの、もう私のためにあれこれ、予定組むようなことは……その、うれしいけど、そんなに無理にしないで。穂高の負担になってるっと思うとちょっとつらいから……」

「……わかってる、ありがとう」少し、奏との最初の長期休暇で張り切りすぎた面もあったのかもしれない。奏とて、ただ尽くされるのがうれしいわけじゃないだろう。一方的な愛は、長続きしない。


 俺は負担だなんて思ったことは一度もないけど……。奏には充分すぎるほど見返りを与えてもらっている。そういえば……。


 お互い、まだ帰省中のことは一度も話していない。穂高の側にはろくな思い出がない。ただ不毛感だけが残る、地元への帰還だった。

「奏、えっと……」

「なに……?」

 奏がじっとこちら見続ける。心なしか、彼女の目が水気を帯びてきたように見えた。


 ど、どうしたんだろ……?


 別の事を聞くことにした。

「……今度、マルダムールに行かない? 佐枝木さんに俺たちが付きあってること、ちゃんと伝えたくて」

 彼女の店に招待されたあの日の夜に、自分の想いを自覚したことを思えば、そうしたいと感じる。 

「あ……えへっ」


 かわいい……、じゃなくて、えへ?


 奏が茶目っ気混じりの声とともに、頬をゆるませた。

「もう言っちゃった……」

「あ……アハハ」

 浮かれているのは穂高の側だけではないようである。

「ごめん、でもお祝いに、ディナー券二人分、またもらっちゃった」

「ああ、そりゃいいね。今日にでも……」

「穂高……」

 顔を近づけられる。

「え……?」

 奏の腕が背に回ってきた。

「……」意図を察して、自然とこちらも応じる。

 彼女の吐息が、唇にかかったのと前後して、やわらかな感触が付着した。

「好き……」

 久々のキス、気持ちよさに朦朧としつつも、彼女の背に回した腕をきつく締める。

窓からの日差しが雲に隠れたようで、部屋が影に覆われた。お土産で買った風鈴が静かに音を鳴らした。

 抱き合った彼女の肌から伝わってくる孤独と安堵、おそらく帰省してもなにもいいことがなかったのだろう。


 穂高もあの無味乾燥で心が病みそうになった地元での二日間に鬱々としていただけに、今こうしているだけで、癒されていく。

「寂しかったよ、ずっと奏に会いたかった……」

「私も……」

 もたれかかってきた奏の黒髪をなでながら、彼女の香りと温もりに酔いしれる。恍惚としてきたところで、あの問題視すべきことも思い出してきた。


 もうじき二学期が始まる、二人でうまく学校生活との折り合いつける方針を話し合わなきゃ。お互いのためにも……。ああ、でも今はこうしていたい。


 結局切り出すタイミングがつかめなかった。話すのはまた今度になりそうだ。

 

 抱き合い続ける二人のすぐ横、収納ケースに入れたあの球形物が輝きを帯び始めていたのだが、奏との抱擁にすべての意識を奪われている穂高の気づくところではなかった。


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