AIハラスメント
山野 終太郎
第1話 終わらない
今はもう2030年なんだけれど、これだけは三十年前と何も変わっちゃいない。
今、僕の前に背筋を伸ばし、姿勢良く立って、急須でお茶をいれている彼女は、どうして、僕にあんな言葉を発してしまったのだろうか。何しろ表情が冷たく固まっているので、その言葉が発せられた意図が読み取れない。
ドリンクサーバからいつでもお茶が出る時代なのに、彼女に急須を使って茶葉からお茶を入れさせるような僕だから、過敏に反応してしまっただけなのだろうか。
首の右側についているHC調整つまみをできる限りNH側に回そうか、一層のことミュートスイッチを押そうかと思うほどのその不快な言葉に、別にいちいち反応しなくて良いはずなのに、僕の人としての尊厳なのか、男としての威厳なのかはよく分からないが、予想外にぐっさりやられてしまい、彼女を許すことが出来なかった。
社会的に大問題となった2021年の集団ハラスメント事件をきっかけに、ハラスメント防止法案が急遽、国会で可決され、ようやく実効性の高い法律が制定されたとして注目されてから、かれこれ十年が経つ訳だが、法律ができたからと言ってハラスメントそのものが減ることは無く、未だにニュースでは、毎月のように何らかの組織でハラスメント問題が取り沙汰される。只、昔のように、テレビでキャスターがヒステリックに喚き立て、解説者が分かったような分からないような当たり前のコメントをひけらかすような事は、ネットニュースが主流になってからは少なくなったので、問題が深刻に扱われないだけだ。
2018年、2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、それぞれの競技において独自に選手の強化策を取っていたスポーツ界では、選考過程における選手間の啀み合いや、スポンサーの過度な引き抜き競争もあったのだろう、立て続けに、運営側と選手の間、選手間で様々なパワハラ問題が発生した。それ以降、スポーツ界は未だにこの問題が続いているし、経済界でも、教育現場でも、必ず毎年数回程度、ハラスメントの問題が表出する。
2020年以降、日本経済は急激に冷めて、1929年の世界恐慌や2008年のリーマンショックのような特定年から始まる引き金的連鎖にはなっていないが、中国の景気減速を反映し、世界同時不況は予測通りに徐々に進行していた。ドイツの進めたIndustry4.0や日本のSociety5.0に代表される第4次産業革命も、人々の生活に大きな変革をもたらしたものの、体力のある企業がより体力をつけ、大企業のサービスイノベーション部門をほんの少し潤しただけで、経済活動を極端に変革させるまでには到達しなかった。途中段階で、極端なデジタル化に進む社会に対して、人類が警鐘を鳴らし、歯止めをかけたのかもしれない。そして、その変革の中で、結局、割を食ったのは、ものづくりに命をかける中小企業だった。他社に追従されないほどの特異な技術力を持った中小企業は、その生真面目さ故に、綿飴のようなふわふわした経済基盤は、大企業のM&Aの熱にすぐに溶かされてしまったようだ。
この場合、統合により消失してしまった会社のバーチャルなアイデンティティと統合した側のリアルなアイデンティティとの鬩ぎあいがその温床を作っている面もあり、未だにハラスメントは収まらない。ハラスメントの本質は『嫌がらせ』でも『いじめ』でも無く、『差別』と『強要』である。会社の統合は、経済的な活動や役員の席取りには止まらず、統合された側のアイデンティティを亡き者にするための差別と強要を当たり前のように発生させるのである。
以前のような稚拙なハラスメントは影を潜めつつあったが、アイデンティティの崩壊に繋がるような、もっと根強く陰湿なハラスメントが増える中、光友電業の集団ハラスメント事件は発生した。
電気設備メンテナンスの国内最大のシェアを誇る光友電業は2020年、充放電機器開発において新たな特許技術を有していたベンチャー大手の村上製作所を、M&Aにおいてグループ内企業として統合したが、本社人事部が主催した統合間もない研修において、旧村上製作所の技術者に対してパワハラは行われた。
大手からすると、充放電機器関係の特許と数名程度の開発に携わる社員だけを搾取したかったのだろうが、どうしても周辺のお荷物をそのまま引き取る部分もある訳で、本社技術開発部の根強い排他意識は統合前からあり、起こり得るべくして起こった事件と言わざるを得ない。深刻だったのは、自殺した社員三名が、旧村上製作所での開発の中心となっていた技術者であり、実際にパワハラを受け、部署の配置換えを強要された社員ではなかった点である。彼ら三人は、自分たちだけが会社に求められ、露骨に他の社員がお荷物扱いされていることに極度に責任を感じたのであろう。ニュースの履歴を検索する限りでは、研修講義に立った人事責任者は、旧村上製作所の社員に対して、「光友は優秀な人材だけを活かす会社だ。その点、君たちは、その優秀な人材に金魚の糞みたいにくっついているだけだ。そういう奴はこれから不要だ、糞だからな。いつでも、営業に回ってもらうよ」と言ったという事のようだ。今読み直して見ると、その言葉自体は、時代錯誤で滑稽に思えてくるが、僕は、その撲滅したはずのパワハラの言動を初めて知った大学時代、分野こそ違うものの、同じ研究者として、得も言われぬ恐怖感を感じた。これはまさに、村上製作所の『社』と『研究者』のアイデンティティを崩壊する言動であったのだと思う。
その後、このような事件は、大小はあれ、いくらでも発生している。よって、それをニュースで伝える方もそろそろ飽きてきているように思うし、聞いている方も、毎度毎度同じような内容で、様々な事例は、淡々と処理されていくのかと思いきや、このハラスメントというのは、国家間の紛争や戦争問題と同様、人間の本質的な何かに起因しているのであろうか、何が面白いのだろうと思うのであるが、必ず、いつまでもニュースはつづくよどこまでもである。
確かに、2021年、この事件の後、厚生労働省が、職場でのパワーハラスメントを防ぐため、パワハラ行為を法律で禁止する法案を出して来た際も、いくつかの議論はあったが、『根源を如何せん』の議論には誰も踏み込まなかった。
ハラスメントの一番の問題点は、なんと言っても、ハラスメントをされる側とする側の人間関係にあって、人殺しは悪であると言うような絶対的な善悪での規制線を設けにくい。それでも、光友電業の事件では、集団自殺となったことに端を発し、あれよあれよという間に、国会での審議もほどほどに法案は通っていった。
そもそも、ハラスメントという英語が日本語の『嫌がらせ』という表現に代わって用いられるようになったのは、1989年の流行語大賞で『セクシャルハラスメント』という言葉が選定されたことがきっかけであった。
もちろん、それよりずっと以前、1970年代に入って、アメリカの女性雑誌などではすでに使っていた言葉ではあるが、市民権を得るまでにはそれなりの時間がかかっている。
そりゃそうだろう、特に、セクハラなんて言うのは、場合によっては男と女の泥仕合みたいなところもあり、明らかかつ一方的に法的にアウトという案件よりは、民事としての取り扱いが主体になるので、市民権は得にくいだろう。
もし同じ表現を、同じ気持ちで男性が女性に対して発したとしても、その男性が女性からどう思われているかによって、ハラスメントとなるか否かが変わってくるのだから、世の男性はたまったものではない。これは当然、逆もある訳で、2000年を過ぎたあたりからはめまぐるしく変遷し、女性蔑視のような典型から、基本的な性差別に移り変わり、男性蔑視が主流となる時代もあった。
更に、『セクハラ』と略して使うようになってからは、その派生系の日常用語として、権力や社会的優位性による『パワハラ』、言葉や態度による理不尽な『モラハラ』、教育、研究上の力関係による『アカハラ』等が生み出されたのである。
セクハラも、元々は性差によるものが中心だったので、わかり易かったが、今は難しい、同性どうしのセクハラ認定もあるからだ。東京オリ・パラ前に発生した選手とコーチや協会とのパワハラ、さらにその前から延々と存在し、文化的な色合いさえ感じる相撲界の関取と親方の関係にあるパワハラなんかは、親方側から言えば、教育・指導、関取側から言えばいじめと受け取られ、かろうじて、暴力は絶対悪として捉えられるので、そこだけアウトみたいなことになっており、大方はグレーである。
光友電業のパワハラ事件だって、一概にパワハラとは言えないと思っている人はいまだにたくさんいるかもしれない。本社人事部からすれば、発言には問題があったが、早めに光友の社風を、統合メンバーに伝えたかっただけかも知れない。うろ覚えではあるが、報道された最初の頃の人事責任者のニュース番組でのインタビューでは、「本社側は、社風を強要したつもりはありません。社風を共有することは大切だと思っていました」と、インタビュー前に念入りに髪を整えたのだろう七三分けのその人は、洒落たつもりで、軽快に答えていたようだ。
言葉は、解釈する側にどう取られたかではあるが、『金魚の糞』発言はどう考えたって、社風として共有されたのではなく、それは強要であるに違いない。
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