すれ違う姉妹愛

坂本裕太

第1章 ミリアリーノル公爵とドルチュード公爵

  ミリアリーノルの町

  ミリアリーノル公爵邸 館内の寝室にて


 早朝、寝室の扉が廊下側から規則正しく三回ほどノックされた。

「ベルナお嬢様、お目覚めでしょうか」

 扉の向こうから女性の声が届く。名を呼ばれたベルティーナは天蓋付きの寝台の上で少々微睡んでいたものの、すでに上体を起こして侍従が来るのを待っていた。

「ええ、起きているわ。入ってきなさい」

 その返事から間もなく扉が開くと、一人の女性が入室する。何枚かの手拭いと水の入った容器を片手に持った彼女は音を立てずに扉を閉めた後、その場でベルティーナに向き直って一礼をした。

「失礼致します。おはよう御座います、ベルナお嬢様」

「おはよう、リア」

 ベルティーナはリアの方を一切振り返る事なく寝台から足を降ろす。立ち上がって寝台からやや離れた位置で立ち止まると、自分の両腕を横へと持ち上げる。

「早くして頂戴」

「かしこまりました」

 リアはベルティーナの傍まで歩み寄り、その身に着けている物へ手を掛けた。就寝時に着用していた薄着を脱がせ、濡らした手拭いで白肌の細かな汗を拭き取り、それが終わると寝室の数ある衣装タンスの中からその日に相応しい衣服を選んで着せていく。

 今日のベルティーナには外出する用事はないため、その着替えは簡単なものであった。

 綿や絹で織られた薄着の上にコルセットを付け、意匠の控え目なドレスを纏う。程良いレースとフリルの施された羽織り風の上部に、胸元には繊細な襞が折り重なっているジャボ、ウエストの細さを際立たせる帯造りの胴部から刺繍の織り込まれたスカートが床近くまで広がっている。最後に着替えの仕上げとして、リアはベルティーナの首元の襟に、オルシャンツァ家の紋章の彫り込まれた真紅のブローチを留め付ける。

 着替えの次は髪の手入れであった。ベルティーナは壁際の椅子に座って、目の前の壁に掛けられた鏡を見つめる。その背後で、リアがベルティーナの髪を丹念に梳かし始める。

「リア、今日の執務はどうなっていたかしら?」

 鏡越しに、ベルティーナはリアへとこう問うた。

 リアはその手を休める事なく答える。

「はい、ベルナお嬢様。本日の大まかな執務は、行政の処務、軍事の処務、書類による罪人への罪状処理および裁判の執行で御座います。また、軍事の処務に関しましては、以前から町の騎士団より要請されておりました人員および武具の補充が最優先事項となっております。それに加えまして、御国より軍備調整の見直しが新たに通達されております――何月か前に、隣町のドルチュード公爵領にも通達された軍縮を促すものかと存じます。次に、裁判の執行についてで御座いますが、本日は罪人が計二名、両名共に第三級罪に対する判決を下す事になっております」

 リアは少しも言い淀む事なく、それらの言葉を正確に並べた。今日の執務の内容だけに留まらず、明日から七日先まで控えている全ての執務内容を即座に答える事ができる。ベルティーナ直属の従事者として、それは当然の事であった。己の仕える主の問いを受けて、言葉を詰まらせるような事があってはならない。

 ベルティーナにとっても、それは我が側近として当然の事だと振舞っていた。

「そう。一月前に比べて、罪人が三人減ったのね。良い事だわ」

「左様で御座います。これも、ベルナお嬢様がここ六年間、町の安寧のために御尽力したおかげではないかと存じ上げます」

「そうね。裁判の厳正化と刑罰の強化、娯楽の健全化、色々と手は尽くしてきたわ。全ては国のためであり、民のためですもの」

「しかし、恐れながら……」

 リアは口調を重くしながらも、はっきりとした声色で言う。

「ベルナお嬢様の政治体制に不満の声を上げる民もおります。その声の大半は、民の身勝手な言い分でありながら、それを煽る人間もいるとの事。なんでも噂によれば、隣町の人間が裏で我が町の民をそそのかしていると聞きます」

 それを聞き、ベルティーナは不愉快を露わにした表情を鏡に映した。

「不満を上げるだけならまだしも、別領土の民の煽りに乗るとは嘆かわしい。大方、その噂には、隣町のあの忌々しい家の間諜が絡んでいるのだろう。あの愚家めが……」

 まだ一日の始まったばかりだというのに、隣町の公爵の顔が頭を過ぎったために気分を害したベルティーナはその言葉以降すっかり押し黙ってしまった。

 ようやく髪の手入れを終えると、リアは鏡の映す範囲から数歩ほど体を引いた。

「如何でしょうか」

「悪くないわ」

 それだけ言って、ベルティーナは椅子から立ち上がった。

「朝食はいらないわ。今すぐ執務に取りかかるから、貴女は先に執務室へ行って書類の準備をしなさい」

「かしこまりました。では、失礼致します」

 リアは部屋に入ってきた時と同じく一礼をし、扉を軋ませずに開けて退室した。

 それから少しして、ベルティーナも部屋から出て執務室へと向かう。広々とした廊下を歩いている途中で、ベルティーナは妹のリュシールと出会った。

「あっ! おはようございます、お姉様」

 リュシールは立ち止まって、ベルティーナに深々とお辞儀をした。ベルティーナも歩みを止めて、笑みと共に挨拶を返す。

「おはよう、リュシィ」

 リュシールは廊下でベルティーナと出会った事に嬉しさを覚えていた。

 ベルティーナはいつも執務で忙しく、リュシールと接する機会がそれほど多くはない。二人が顔を合わせる時と言えば、食事の時と、今程のように廊下などで偶然出会った時が大半であった。そのため、一度も相手の顔を見る事なく就寝を迎える日も珍しくない。

「お姉様も食堂へ向かわれるのでしょう? でしたら、一緒にお話でもしながら……」

「ごめんなさいね、リュシィ。私は今すぐ、執務に取りかからなければいけないの。昼食はちゃんと取るから、その時にお話をしましょう」

 ベルティーナは申し訳ないという気持ちを抱きながらも、リュシールの額に優しく接吻をして、再び執務室へと歩き始めた。

 そうして遠のいて行く彼女の背中を、リュシールは悲しい表情で見送る。

 自分の姉と接する数少ない機会が失われてしまう事は、何もこの時に限った事でない。ベルティーナの多忙さはリュシールもよく理解していた。国のため民のため、そしてオルシャンツァ家の当主として恥を晒さぬために執務を優先するあまり、食事や睡眠を二の次にしてしまうほどベルティーナは真面目でもあったのだ。

 ベルティーナは十五歳の時、父と母を立て続けに亡くした。その当時、大陸は大戦の真っ只中にあった。この家の当主であり国に仕える公爵であった父はその大戦に赴き、戦中に名誉ある死を遂げる。夫を亡くした絶望のあまり病に臥せた母も、直に父の後を追った。後に残ったのは、彼らの子供であったベルティーナとリュシールの姉妹。彼らの子供には男子がいなかったため、必然的に長女のベルティーナが当主を継ぐ事になり、同時に父の爵位を襲爵した。

 ベルティーナ・ディア・オルシャンツァ=ミリアリーノル――彼女は成人したばかりの十五という歳で父母を亡くし、その若さでオルシャンツァ家当主となった。戦死した父の代わりに大戦へと駆り出された当時に比べれば、今のベルティーナは随分と落ち着いた方なのである。

 一方、リュシールの心は癒えぬままだった。ベルティーナが大戦へと赴いた際、妹であるリュシールは館の留守を任され、大戦が終結するまでの約二年間を独りで過ごした。やっと終戦を迎えて恋しかった姉が帰って来たと思えば、今度は当主としての務めや公爵としての執務に追われ、かつてのように気安く接する事が出来なくなっていた。

 それでも、リュシールのベルティーナに対する深い愛情が薄れてしまう事はなかった。彼女にとって姉は憧れの人物であり、たった一人の家族だからである。

 リュシールは、ベルティーナの背中が見えなくなるまでその場に留まり続けた。

 床を蹴る姉の足音も聞こえなくなり、廊下が侘びしくも静寂に包まれると、リュシールはようやく独り食堂へと歩き出した。



  ミリアリーノル公爵邸 執務室にて


 ベルティーナは机に向かい、行政に関する書類の処理を続けていた。

 もうすぐ昼食の時刻になろうとしていたが、彼女は目の前の処務に集中していた。昼食はおろか、ほんの少しの休憩すら取るつもりはない。今朝に書類の処理を始めてから、たったの一度も椅子から体を離す事はなかった。

 ベルティーナは食事を取らなくても気にしなかった。むしろ、食事を取っている時間でさえ惜しく感じてしまうほどである。自分の食を満たす時間があるならば、執務をこなす時間に充てるべきだと考えていた。

 唯一の気掛かりといえば、ただ一つ。朝の廊下でリュシールに言った半ば約束じみた言葉が偽りになってしまう。その事だけは、少々気の咎めてしまうところがあった。

 ベルティーナはリュシールを愛している。だが、彼女は国の大事な領土や民を管理し、より良い方向へと導かなければならない。それらとリュシールのどちらかを選べと迫られたのならば分からないが、それがない現状においては諸々の執務を優先するつもりであった。

 ベルティーナの傍に控えていたリアは置き時計をちらりと見やる。

「ベルナお嬢様、御昼食の方は」

「必要ないわ」

 こうして食事を無視して執務を続けている時、いつもベルティーナの頭をよぎるのは、食堂の大きな食卓でリュシールが独り黙々と食べ物を口に運ぶ姿だった。父と母の存命時に家族四人で囲っても余りある食卓とその食堂は、一人で食事をするにはあまりにも広すぎる。

 ベルティーナはリュシールに対する後ろめたさを感じていた。しかし、これも国と民のためだと割り切り、目の前の処務に集中する。

 何百何千枚の書類が机の隅へと積み上げらていく中、執務室の扉がノックされた。

「ベルティーナお嬢様、少々よろしいでしょうか?」

 扉越しに、女中の声がベルティーナの耳に届く。

「何かしら?」

 ベルティーナは机上の書類に目を通したまま聞き返した。

「はい。今、館の門前にドルチュード公爵がお見えになっております。私用でのご来訪との事ですが、いかが致しましょう?」

「何、ドルチュード公爵が?」

 ベルティーナは突然の来訪に驚き、やっと書類から目を離した。その真偽を確かめるために椅子から立ち上がって、背後にある二階の窓へと近づき、そこからずっと先の方に見える門前を窺った。門の鉄柵を透かして、そこに二人の人間を確認する事が出来る。内一人は、間違いなくドルチュード公爵だった。

 ベルティーナは嫌悪感を催し、顔を歪めた。彼女の心中を見て取ったリアはこう提言する。

「ベルナお嬢様。無理にお会いになる必要はないと思われます。ここは、お引取り頂いては」

「いえ、その必要はないわ」

 ベルティーナはリアの言葉を遮って、

「そこの貴女、ドルチュード公爵を門の中へお通ししなさい。そして、館の玄関前でお待ち頂くよう、伝えておくのよ」

 と、扉の向こうにいる女中に向かって指示を出した。扉を挟んで「かしこりました」との返事がくると、女中の足音は執務室の前から遠ざかっていった。

「よろしいのですか?」

「ええ、追い返してもまた来るでしょう。それなら、二度とここに来る気が起こらないよう、丁重に出迎えてやるのよ」

 ベルティーナはリアを連れて、執務室から出た。

 ベルティーナが玄関へ向かう途中、廊下で今朝と同じようにリュシールと出会った。

「あっ、お姉様! もしかして、休憩を取っていらっしゃるのですか?」

「いいえ、今外にお見えになっているドルチュード公爵とお会いしてくるの。これは私事だから、リュシィも一緒に来る必要はないわ」

 ベルティーナはリュシールの横を通り過ぎる。

 ついて来なくていいと言われたが、リュシールはほとんど無意識にベルティーナの後ろを追いかけていった。彼女は姉と一緒にいたかった。どんな形であれ、姉の傍に立ち、その声や仕草に触れていられるのなら、そうしていたかったのだ。それほど、リュシールはベルティーナを恋しがっていた。

 それも仕方ない事だった。ベルティーナが当主の座を継いでからここ数年間、二人の間にはまともな交流がほとんど無かったのだから。食事の時と、館内で偶然会った時に交わす事の出来る僅かな会話。

 リュシールは思う。それらに比べれば、今この時のようにベルティーナと肩を並べて歩ける瞬間は、何事にも代えがたい幸福であると。

 ベルティーナ達が玄関の扉を開けると、そこには貴族の男性二人が待ち構えていた。ベルティーナの姿が見えるなり、二人の内、豪奢な身なりをした男性の方が大仰な身振りで右手を彼女へと差し出す。

「これはこれは、ミリアリーノル公爵、いつもながら、貴女様のご容姿はとても麗しゅうございますね。お会いするたびに、ますます女神様のご寵愛を受けているものとお見受けします」

 ベルティーナは男性の握手に応じるつもりはなかった。目の前の低い位置に差し出された手には目もくれず、不機嫌な眼差しで男性の顔を睨みつけた。

「ドルチュード公爵。ここには何の用で来られた? まさか冷やかしだとは言うまいな?」

 アデラール・ディア・ドル・ア・ワード=ドルチュード――ミリアリーノルの隣にある、ドルチュードと言う町を治める公爵である。鼻にかけたような口髭を生やし、人を小馬鹿にする意図が含まれた片側だけ引きつった口角。毎日のように贅沢な食事をしているせいで、腹は一二回りほど太っている。

 彼の隣にはダミアン・アマデア=デルミッツォ――アデラールにこびへつらい、その隣を一日も離れずにくっついている男爵だ。中途半端に財力と武力を持った一族の長であり、成り上がりの貴族でもある。

 ベルティーナはアデラールとダミアンに対して、明らかな侮蔑の態度を向けていた。アデラールはそれを感じ取り、そのひきつった口角を更にひきつらせた。

「冷やかしとはとんでもございません。私は、貴女様がお元気でおりますかどうか、少々気になりました故、こうしてご様子をお伺いに参った所存でございます」

 アデラールの白々しい態度にベルティーナは呆れ、内心でくたびれた溜め息を吐いた。

 事実、アデラールは特別な用があってここに来たのではない。ただ単に暇を持て余していたため、日頃から目の敵にしているオルシャンツァ家にちょっかいをかけに来ていた。

 オルシャンツァ家とドル・ア・ワード家は国内でも有名なほど仲が悪い。両家の価値観や美学に対する見解、治める町の政治的方針などがほぼ真逆と言っていいほど噛み合わないのだ。その上、距離の近い隣町同士でもあるせいで、両家のいがみ合いは収まるどころか日に日に悪化の一途を辿っている。このいがみ合いは町中にまで広がっており、今ではミリアリーノルとドルチュードのいがみ合いへと発展していた。

 黙り込むベルティーナを見て、アデラールの機嫌は少しばかり良くなった。

「しかし、この町は些か窮屈ではないですかな? 聞けば、この町の民からは不満の声が上がっているとか。町の管理体制が厳し過ぎるとか、民の娯楽を規制し過ぎているとか……。少々、民の自由を縛り過ぎなのではないのでしょうかな?」

「はっ!」

 ベルティーナは鼻で大きく笑い、アデラールを嘲る。

「貴公の治める町に比べれば、我が町は幾分も増しだと思われますが? 聞けば、貴公の町では貧富の落差が激しく、明日の生活も知れない窮困の民が発生しているそうではないか? 罪を犯した民も、先の年に比べれば随分増えたと聞く。裁き切れぬ罪人が他方の領土へと零れ出し、逃れた先でまた悪事を繰り返す。これらの問題は、町の統治者である貴公の怠慢から出た仇ではないのか? 栄える我が領土と、堕落する貴公の領土。我らの主が君臨するヴァルロリア王国の膿となっている腫れ物に、とやかく言われる筋合いはない!」

 ベルティーナの声は鋭く、その視線がアデラールの心へと突き立てられる。

 アデラールは自分の町の現状の確信を突かれた事に肝を潰された。また、仕える国の足手まといになっていると侮辱された事に怒りを覚える。

「何? 貴様、私を侮辱する気か!」

 アデラールが怒鳴っても、ベルティーナは身動ぎ一つしなかった。ベルティーナは相手の怒号を恐れるどころか、むしろ憎きアデラールを激情させた事実に満足していた。その見世物の愉悦さあまり、思わず口の端がゆるりと引き上がる。

 二人の様子をベルティーナの傍から見ていたリュシールは、悲しい気持ちを抱いていた。自分の姉が人を侮辱する姿、その行為に恍惚とした笑みを見せる姿、女性らしくもなく言葉遣いを男性に似せる姿、その全てが嫌だった。ベルティーナにはもっと穏やかで女性らしく振る舞って欲しいと思っていた。

「おのれ、女の身の分際で!」

 リュシールはぴくりと体を震わせ、このアデラールの言葉に反応する。

 ベルティーナは聡明で気高く、文武を兼ね備えた、まさに生まれるべくして生まれた才を持つ人間であった。しかし、そんな彼女でも一つだけ弱いところがあって、自分が女の身である事をひどく疎んじていた。名家の生まれで爵位を持っていたとしても、そもそもベルティーナは女性である。この国における女性の社会的地位は男性よりも低い位置にあった。故に、女だからと劣って見られないようにするため、身内以外の人前ではあたかも男性であるかのように振る舞っている。

 そんな健気な姉のベルティーナを女として差別する発言に、リュシールは腹立たしく感じていた。リュシールは半ば我慢を切らせ、アデラールに言い返そうとする。

 すると、ベルティーナがそれを手で制した。止めなさい、こんな下賎な輩の挑発に乗っては駄目よ――といった意図を含ませ、リュシールへ目配せをする。リュシールは納得出来ないという顔をして、ベルティーナに視線を返した。

 この二人のやりとりをアデラールは見逃さなかった。口元に浮かんだ嫌な笑みを手の平で覆い隠し、嫌らしい目つきでリュシールを見やる。

「そう言えば、貴女はリュシール様でしたな。ミリアリーノル公爵のご令妹、男子に恵まれないオルシャンツァ家の次期当主であられると? これは失礼、貴女のお姉様のご威光があまりにも眩しく、その妹様のお姿を見落としておりました」

 アデラールはリュシールに向かって謝罪の礼を取る。見た目は恭しい所作だが、その腹の中は黒い感情で満たされていた。すっと頭を上げると、アデラールは続ける。

「しかし、妹様、少し気をつけられた方がいいですよ。もし、あなたのお姉様がどこかの貴族と契りを交わし、そこに男子を授かってみなさい。妹様の立ち位置は遂に危うくなります。女の身である貴女は当然、次期当主の座は奪われ、襲爵も世襲も出来ず、ただお姉様の妹であると言う事実しか残りませんからな。どうか、見捨てられませんように」

 リュシールはそんな事など有り得ないと思った。しかし、考えもしなかったその可能性は、嫌に現実味を帯びているようにも感じられてしまった。

 家の繁栄を保つために、当主は教養のある貴族との婚姻によって子孫を残そうとする。また、男尊女卑の思想が通念であるこの時代において、女はあらゆる面において不利だった。となれば、家が男の当主を望むのは至極当然の事である。加えて、リュシールとベルティーナの交流は薄かった。お互いに相手の事を愛していても、それを伝え実感する機会がほとんどない。

 特に、リュシールは多少ながら不安を抱えていた。食事にはあまり顔を出さない、館内で会っても手短な挨拶しかしてくれない、そんな姉は果たして妹の自分を愛してくれているのかと疑問であった。深く考えてこなかった事が今になって怖くなり、リュシールの頭はずるずると垂れ下がっていった。

 アデラールはあまりの可笑しさに堪え切れず、肩でくすくすと笑い出していた。

「黙りなさい!」

 固く口を閉ざしていたベルティーナが声を上げた。

 アデラールは予想通りと、その見下しの眼差しをベルティーナの顔へと向ける。

「それ以上、我が妹への侮辱は許さないわ」

 ベルティーナは自分に対する侮辱ならいくらでも我慢出来た。相手は、所詮卑しき貴族の下賎な輩。どれだけ言葉を浴びせられようと無視すればいい。だが、身内を最も親愛するベルティーナにとって、自分の妹に対する侮辱は宣戦布告そのものであった。ベルティーナも国の大事な領土を預かる身。宣戦布告を受ければ、例え女の身であろうと、騎士と共に戦場を駆けるだけの覚悟は持ち合わせている。

「あまり私を怒らせない事ね。妹の名誉のためなら、この場であなたを斬り捨てる事も厭わないわよ。仮に、そのせいで私が国に追われる身になろうとも」

 その言葉に偽りはないと知るには、ベルティーナの目を見るだけで十分であった。

 それを合図に、彼女の背後に控えていたリアが帯刀している剣の柄に手を添える。必要な時と主の命以外では不動を構える彼女が動いたのだ。その動きが僅かなものであれ、相手を圧倒するには十分な変化だった。

「くっ……!」

 ベルティーナとリアのただならぬ殺気に気圧されたアデラールは後退りをする。予想通りの展開ではあったものの、妹を貶されたベルティーナの怒りは想像以上であったのだ。本当であれば、怒りのあまりに声を荒げるベルティーナをはしたないと言って蔑み、先程味わった雪辱をそっくりそのまま味合わせるつもりだった。だが、今この状況はどう見てもアデラールが不利である。

 彼に付いて来ておきながら何も出来ずにいたダミアンは、この状況をただおろおろと見守っている。ダミアンはその場にいながら、彼女らに、あのアデラールにでさえその存在を忘れ去られていた。

「さあ、こちらへ」

 ベルティーナは手の平を上にした片手をゆっくりと持ち上げ、それを門の先へと向けた。あくまで彼女は貴族として礼儀正しく、オルシャンツァ家の当主として毅然と振る舞う。

「そろそろお帰り願いましょうか、ドルチュード公爵?」

 ベルティーナは感情の全く籠もっていない笑みを浮かべる。確かな殺意と敵意を纏った彼女の姿が、アデラールには狂気の魔女のように映って見えた。

「おのれっ」

 アデラールは恐怖の色を顔に浮かべつつ、静かに奥歯を噛み締めた。彼はベルティーナに恐れを抱きながらも、自分の名誉を貶された事には忘れず悔しさを募らせていた。捨て台詞にまで気が回らず、ずかずかと早足で門の先へと去っていく。

「あっ、お待ちください! アデラ様!」

 置いて行かれるダミアンは少しだけ気を遅れさせて、アデラールの後を付いていく。

 彼らの姿が見えなくなるまで、ベルティーナは門の先をきつく睨みつけていた。

「さて、館に戻るわよ。いつまでも外にいては体に悪いでしょう? ほら、リュシィ」

 そう言って、ベルティーナは館へと向き直る。

 リアは剣の柄に添えていた手を離し、玄関の扉を開ける。ベルティーナは館の中へ入り、リアは適度な距離を保ちながらその後ろを付き従っていった。

 ただ独りその場に立ち尽くすリュシールの耳にはまだ、アデラールが言い放った言葉がしぶとく残り続けていた。あの言葉が頭の中で何度も何度もこだましていた。

「お姉様は、絶対にそんな事はしない」

 リュシールは小さくそう吐いて自分に言い聞かせた。それを再確認するために、今度は強く目を瞑って首を横に振った。けれども、アデラールの言葉を完全に否定し切れずにいる。心の奥底では、姉に対する疑いよりも、自分はいつか捨てられるかもしれないと言う不安が大きく芽吹いていた。

「リュシィ妹様」

 急に名前が呼ばれた事に驚き、リュシールは素早く振り返った。

 そこにはリアがいた。

「ベルナお嬢様がお待ちです。お体にも障ります故、リュシィ妹様もお早く館へお入り下さい」

 リュシールを早く連れてくるようにとベルティーナに命令されて、リアはここに戻ってきたのだ。リュシールはその意を察し、途端に申し訳ない気持ちになった。アデラールの言葉が影響してなのか、姉に迷惑をかけてはいけないと即座に考えてしまう。

「ごめんなさい、今すぐに行きます」

「いえ、リュシィ妹様がお謝りになる必要は御座いません。ベルナお嬢様は、リュシェ妹様を心配しておられるのですから」

 リアは多少、リュシールの心中を汲み取る事が出来た。その上でこの発言は、リュシールの気持ちが少しでも紛れるようにと、それでいてリュシールに失礼の無いようにと考えての事だった。

 しかし、悲しい事に、リュシールはリアの心遣いにまで気付けなかった。それもベルティーナの事にすっかり気がいってしまっていたからである。

 リュシールはリアによって開け放たれた扉の先を見た。そこに姉の姿がない事に小さくも確かな不安を感じた。ベルティーナは館に入ってから少し歩いたところで、リュシールが付いてきていない事に気付き、彼女を呼んで来るようにリアへ言いつけた。ただ、それだけの事だった。だが、今のリュシールは、自分は置いて行かれてしまったのだと受け取ってしまった。

 館の上空には大きな雲が流れ込み始めていた。西から舞い込んでくる風がリュシールとリアの間を吹き抜ける。肌に微かな寒さを感じるほど空気が乾燥していた。

「リュシィ妹様、今日は風が冷たいようで御座います。お体がお冷えにならない内に、どうかお早めに館へお入り下さい」

 リュシールはやや目線を低くし、館へと足を踏み出す。リュシールが歩き始めたのを確認すると、リアはその三歩後ろを付いていった。

 再び玄関の扉が閉じられると、館の庭には一切の人がいなくなる。上空に集った雲からは雫がぽつぽつと落ち始めていた。

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