第6話 栄光の手

 穏やかな昼下がり。と言っても、彼らの茶会に朝も夜も関係はなく、今日の空には太陽が三つと月が五つ輝いていて、そのうち一つは目にも鮮やかなピンク色である。空は真ん中から二つに分けて、爽やかなスカイブルーと宵闇の黒。一応、いつでも晴れてはいる。というのも、雨天などという概念を取り入れてしまったら、雨が降るたび茶会を中止にせねばならないからだ。

 相変わらず気が狂いそうな景色の中、ツートンカラーの空を羽根の生えた黄色いカバが羽ばたいていくのをぼんやり見上げていたジョゼに、【賢人】がのんびりと声をかけた。


「調香師殿。近頃、仕事の方は順調かね」

「え? ええ……それなりにね」

「それは何より。件の伯爵令嬢への香水はどうだった?」

「気に入ってもらえたみたい。この間、いつもの侍女さんと一緒に遊びに来てくれたの。あれから毎日、『ルール・ブルーの香水』を身につけてくれているんですって」


 アンナ専用の香水は、初めのイメージから大きくずれることなく、素直な夏の花束となった。

 初夏の爽やかな風と、ヴィエルジェの花祭りを彷彿とさせる可憐な花々を通り過ぎた後、サン・ローラン街から漂う蜂蜜とフルーツの甘さが微かに香る。花束の主役には、涼やかで清楚なミュゲの香り――アンナと王太子を繋いだ思い出の花、スズランを据えることにした。決して派手過ぎず、かといって埋もれてしまうわけでもないように。百合とジャスミンを脇に添えれば、故郷ヴィエルジェの晴れ渡る夏空に照らされた、純白のブーケの完成だ。

 ”ヴィエルジェの花嫁”と名付けられたそれを、アンナはたいそう気に入ってくれた。先日、王太子に「親衛隊」の派遣への感謝と事の顛末を綴った手紙を書いた際、早速”ヴィエルジェの花嫁”を一滴垂らしてみたのだと、悪戯っぽく笑う顔を思い出す。

 きっと、時間をかけて王都に運ばれる間に香りは飛んでしまうだろう。しかしこれまで、王太子に絵姿すら見せられないことが不安で、自分自身を受け入れてもらえるかどうかと足踏みを続けていたアンナにとって、それは大きな一歩だった。


「もしも自分の顔やかたちが殿下の好みじゃなくたって、自分が思うような恋をしてもらえなくたって、きっと愛される努力を……夫婦として支え合い、共に生きていく努力をしてみせるって」


 晴れやかな顔でそう言ったアンナを思い出し、ジョゼはくふふと笑った。きっと彼女の恋は上手くいくだろう。ひたむきに王太子を慕い、彼を愛そうと決意したアンナは、どんなに顔かたちの優れた娘よりずっとずっと魅力的だった。


 悩みから解放されて自信に満ち溢れた少女たちの、きらきらとした瞳が好きだ。ルール・ブルーを訪れる客が、満足げに笑って帰っていく姿を見ることが、ジョゼの生きがいだった。これまでも、これからも、きっとそれは変わらない。「ルール・ブルー」は、悩める人々の背中を光明に向かって押してやるための不思議な香水店。調香師マダム・ルブランは、いつだって恋する乙女の味方なのだから。


 いつの間にか【賢人】の隣でジョゼの話を聞いていた悪魔が、ご機嫌に鼻歌など歌いながら首を傾げる。


「うんうん、それは良かった。他のみんなはどうしているんだい?」

「他? トマさんはあれきり行方不明だし……ルネは相変わらずね。この間の『花の女王』の衣装は、アンナ様の希望で、伯爵様から正式にルネに送られることになったんですって。もちろん生花は取ってしまってるけど。着る機会なんかなくても、飾っておくだけで素敵だって喜んでたわ。楽しそうで何よりよ。……あたしに着せようとしてくるのには困ってるけどね」

「着てあげればいいじゃないか、減るもんでもないし」

「嫌よ、絶対に似合わないもん。あたしじゃ服に着られちゃうわ」

「そうかなあ? それは君がいつも格好に構わなすぎるせいで、見慣れてないだけだと思うけどねえ。君、意外と素材が悪いわけじゃないんだから」

「いいわよお世辞なんか」

「悪魔は嘘は言わないよ」

「本当のことも言わないけど、でしょ?」


 ふてくされるジョゼに、それで続きは、と笑って悪魔は促した。ティーカップをソーサーに戻すと、ジョゼは懐から小箱を取り出す。中にあるのは、王太子の紋章が刻まれた勲章がひとつ。魔法のポットに吸い込まれ、ぽちゃりと小気味よい音を立てた。


 おや、と愉快そうに片眉を上げた悪魔を見て、ジョゼは肩を竦めた。


「気の利いたハンカチなんて持ってないって言うから、何でもいいわって言ったのよ。そしたらこれでもいいかって渡されたの。大丈夫よね?」

「まあね。けど、彼ってばもう僕が関わってるって知ってるはずなのに、よくそんな大事なもの貸してくれたね?」

「逆に、下手な人間に貸してやるより悪魔の方が安心なんじゃない?」

「君も君だよ、ジョゼ。よくもまあ、あんな目に遭った後で、呑気に僕の庭でお茶なんかできるよね。僕は楽しいんだけど。人間って、こういう時に僕のことを諸悪の根源みたいに言うもんじゃないの?」

「……怒ってはいるわよ。当たり前でしょう。あたしが困るだけならともかく、あんたが妙な事したせいで何人も人が死んで、トマさんだっておかしくなっちゃったんだから。でも……」


 はああ、と深く溜息を吐く。そのまま胸の前で腕を組んでみせ、ジョゼはじとりと悪魔を睨みつけた。あんなことをしでかした悪魔と心から仲良く茶会などしていられるほど、人間終わっているわけではないけれど、それはそれとしてジョゼは決して馬鹿ではない。確かにチェスの腕はいつまでも上がる気配はないし、ちょっと難しい言い回しをされれば分かり易く戸惑うし、素直過ぎて簡単に騙されてしまうところもあるけれど。それでもジョゼは、目の前の「これ」が「ヒト」ではないと、本当の意味で理解しているのだ。


「悪魔にお説教なんかしたって、何の意味もないじゃない。それに、あたしはあんたのこと『お友達』だと思ってるわけじゃないもの。この関係はビジネス、そう言ったのはそっちでしょう?」

「ひどい言いぐさだなぁ。僕は君のこと、結構気に入ってるのにさ」


 そうは言うものの、悪魔は相変わらず笑っている。ぱちんと指を鳴らせば、真っ白な陶器の底の方から金色の蔦が伸び始め、見る見るうちにポットの下半分を覆った。ごく淡いグリーンに染まった表面は何とも控えめで、確かに勲章の豪奢な黄金を写し取ったはずなのに、どちらかと言えば落ち着いた印象となるのが不思議だ。

 新たなティーカップに注がれた水色は、春摘みのダージリンを思わせる琥珀色。ふむ、と香りを確かめていたジョゼは、ふと顔を上げ、テーブルの中央に置かれた奇妙なオブジェにぎょっと目を見開いた。


「……なあに、それ。前からあった?」


 まるで机から手首が生えているかのような、やけに精巧な手の模型。ごつごつとした指に肉厚な掌を見る限り、かなり大柄な男性の手のようだが、黒っぽい色をしているし、光を反射した表面はつやつやと輝いてすらいる。

 まるで蝋燭のようだ、と眉を顰めたジョゼがそう口にする前に、悪魔が言った。


「そう、蝋燭だよ。『栄光の手』って言うんだ」

「栄光? こんなのが何で……?」

「何でだろうねえ? まあ、それは暇なときにこっちの【賢人】さんにでも聞いておいてよ。それよりね、見てごらん、これは特別なんだ」


 ぱちん、再び指を鳴らした悪魔に応えて、「栄光の手」とやらに火が灯る。爪に差し込まれた蝋燭芯の先に輝くのは、鮮やかに揺らめく水面の青だ。


「青い炎が”きれい”でしょう?」


 満足げにふぅふぅと笑う悪魔に顰め面を返して、ジョゼは息を吐いた。


「……もう、しばらく『ヴィエルジェ・ブルー』には懲り懲りだわ」

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