第7話
今日も定時がやってきた。
「あれ、間宮さん。今日は残業ですか」
武藤くんはあれ以来も、普段通りに接してくれる。あまりにも以前のままでいてくれるので、拍子抜けするけど、正直助かった。
だからわたしもいつも通りに、笑う。
「うん、少し残っちゃった。すぐ終わるけど」
「そうですかぁ。無理しないでくださいね。じゃ、お先っす」
「ありがと。お疲れ」
オフィスを出る彼にばいばい、と小さく手を振ると、控えめに振り返してくれたのが嬉しかった。
一時間もかからずに残業は終わり、一息ついて首をぐるりと回す。わたしの他にまだ何人かは残っていたけど、ほとんど人気のないオフィスはもの悲しさを少しずつ出し始めていた。
帰る前に夜食でも買いに行こうかと、椅子から立ち上がる。
南雲部長は、デスクにいなかった。
けれど荷物は置いてあるので、トイレにでも行っているのかもしれないし、わたしがそうしようとしているみたいに、残業の片手間に何か買いに出ているのかもしれない。
「……ま、わたしには関係ないか」
自分の呟きに自分で苦しくなりながら、財布を持ってオフィスを出た。
コンビニを出ると、ぱらぱらと雨が降り始めていた。
ここから会社までさほど距離はない。ひどくなる前に走って戻ってしまおうと、駆け出したところで、コンビニのビニール袋を提げてとぼとぼと歩く、長身のスーツ姿を見かけた。
見覚えのありすぎる姿に、とくん、と一瞬胸が高鳴る。
「……南雲部長?」
声を掛けると、緩慢に振り返ったその人――南雲部長は、眼鏡の奥の瞳を少し見開き、「あぁ、間宮」とのんびり答えた。
どことなく、やつれているようにも見える。いつも飄々とした彼にしては意外な姿で、雨が降りだしたからかもしれない、と思わず焦ってしまった。
「お前も買い出しか?」
「そうですけど」
久しぶりに、こうやって立って並んだ気がする。
どちらかというと小柄なわたしは、南雲部長の胸のあたりまでしか身長がない。体格差も歴然で、よく冗談で『南雲部長はわたしを片手で殺せますね』なんて言うことがあるけれど、やっぱり本当に言いえて妙だと思う。
……と、今はそんな感傷に浸ってる場合ではない。
「ってか、雨降り始めてきたから早く戻りましょ」
「いや……」
首を横に振り、南雲部長は力なく笑った。
「ちょっと、濡れてみようかなと」
「馬鹿なんですか?」
上司に対する物言いではないのだが、あまりにふざけた回答に苛立って、そう言い放ってしまった。まぁ、彼がそういうことで怒る人じゃないと分かっているからこそなのだけれど。
緩い足取りに焦れて、自分より大きな手を無理矢理掴む。
まったく、これでは以前と立場が逆だ。
「いいから、早く」
部長が風邪引いたら困るのはわたしたち部下なんですからね、と強い口調で半ば怒鳴るように言えば、南雲部長は諦めたように「はいはい」と笑って、おとなしく着いてきた。
オフィスに戻ると、部署のみんなは帰っていて誰もいなかった。まだ明かりはついているが、無人ともなるとなおのこと物悲しい。
そういえば南雲部長と二人きりだ、と思った瞬間、それまで一緒に引っ張ってきたせいで掴んだままだった南雲部長の手を急に意識してしまう。
「あっ、ごめんなさい」
何がごめんなさいなのか、と冷静に考えたらそうなんだけれども、謎の謝罪とともに慌てて離そうとすると、今度は南雲部長がその手を握り返してきた。驚いている間もなく引っ張られ、抱きしめられる。
先ほどの雨で僅かに湿ったスーツの感触と、南雲部長自身の心地いい体温、そして匂いに包まれて。
いつもよりずっと間近で聞こえる息遣いに、くらくらして。
力強い抱擁に抗えないまま、わたしは何も言えなくなってしまった。
「えぇと……南雲部長?」
ひとしきり満足したらしい南雲部長は、自分のデスクに戻り仕事の続きに取り掛かっている。いつものように真面目な顔で、パソコンに向かっている……そこまでは、いいんだけれども。
「……邪魔じゃないんですかね」
「別に?」
何故かわたしを膝に乗せ、後ろから抱え込むような状態で、彼はキーボードを叩いていた。肩のあたりに頭を乗せ、わたしの後ろから覗くようにしてパソコンの画面を見ている。
いや、そこまでしなくても普通にわたしを離せばよくないか? と思うのだが……困ったことに全然嫌ではないし、むしろふわりと漂う南雲部長の匂いに落ち着いてしまっているくらいなので、何も言えない。
わたしはわたしで自分の分は終わっているし、だからと言って手持ち無沙汰なので、おとなしく一緒に画面を見ていることしかできずにいた。
時折身じろぎするわたしを咎めるように、マウスを使わない方の腕をわたしの腰に回し、ぎゅっと抱きしめてくる。……まぁ、そりゃあ当然のように逃れられないわけで。
「今日は無口なんだな、間宮」
何も言えないでいると、肩のあたりからクスクス、と小さく笑う声がした。
「いつもは鬱陶しいくらい喋ってくるのに」
「え……いや、その」
やばい、不自然だと思われてる。何か……何か、言わなきゃ。
「き、気分ですよ」
誤魔化し下手か、わたし。
というかそもそもこんなに密着していたら、心臓の音がすごい鳴ってるのバレるよな……意識してるって悟られてしまったら、きっと軽蔑されるだろうな。
「そうですか」
けれど南雲部長は特に何か突っ込んでくることもなく、それだけ言って小さく笑った。淡白なのはいつものことであるはずなのに、なんだか無性に悲しくなってきて。溜息を吐きたくなるのを堪え、ぐっと黙り込む。
……やっぱりね。どうせ南雲部長は、今日も気まぐれなんだ。
たまたま外で、わたしに会ったから。気を紛らわすのにちょうどいい存在だったから、こんなことしてるだけ。
そうだ、そうに違いない。
だからもう甘い考えはなくそう。この想いは捨てるんだって……もう何にも期待しないって、決めたんだから。
「――さて、こんなもんかな」
そのまま三十分ほど残業をして、南雲部長は気が済んだのかようやくパソコンの電源を落とした。膝の上のわたしを軽々と持ち上げて立たせ、自分も立ち上がって伸びをする。
「身体が痛いな」
「そりゃ、人ひとりを長時間膝に乗せてたら痛いでしょうね」
「もっともだ」
わたしの皮肉も意に介さないように、南雲部長は笑う。そんな顔も好きだなと、灯りかけた淡い感情をすぐに慌てて打ち消した。
「じゃ、帰るか」
「そうですね」
窓の外を見ると、先ほど降っていた雨はすっかり止んでいた。どうやら先ほどのは、ほんの通り雨だったらしい。
よかった。これから出れば、次の電車に間に合いそうだ。
時計を見てほっとしたわたしは帰り支度を整え、先に荷物をまとめていた南雲部長と連れ立ってオフィスを出た。
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