(21)

「とにかくおそろしゅうておそろしゅうて……子供たちには海で遊ばんよう言うてますんですわ」


 とある漁村の古老はそう語る。老爺の家の戸の周りには暇を持て余した子供たちが集まって、客人の顔をひと目見ようと覗きあっていた。


 遠くでは波が浜辺に打ち寄せる音がして、古老の家の中にあっても潮のにおいと魚の生臭いにおいがする。けれどもララタにとってはそれはあまりイヤなものではなかった。今は、珍しさの方が勝っている。それは同行したアルフレッドも同じらしかった。


 ふたりは古老に礼を言って家を出る。老爺の戸の周りにいた子供たちは、ふたりが出てくると「ワッ」と言って散って行った。思ったよりは恥ずかしがりなのかもしれない。


 家を出ると途端に潮風に乗った海のにおいが強くなった。なんとなく、それだけで遠いところにきたような気になる。


 ララタの家は海から遠い辺境の内陸部にあったし、王宮も似たようなものだ。


 ララタは公務のため、忙しく飛び回ることもあるアルフレッドならば海を見慣れているのではないかと思ったが、実情は違うらしい。海は見たことがあるし、船にだって乗ったことはあるが、波が浜辺に打ちつける様はあまり見たことがないと言う。そんなものか、とララタは思った。


 想像が及ばなかったところもある。ララタは船になんて乗ったことがないので、この浜辺からずっと遠いところまで続いている海が、どんなものなのかわからないのだ。


 ララタは魔法使いなので、魔力が続く限りは自在に空を飛べる。けれども海に親しくないので、そもそもそこへ行こうという発想がなかった。だから、ララタは海がどういうものか知識では知っていても、実体験としては知らない。


「じゃああちょっと浜辺で裸足になってみる?」

「遊びにきたんじゃないのよ」


 アルフレッドは「裸足になると砂の動きが足の裏でわかるらしい」などと、恐らくはどこかの小説なり紀行文なりから得たのだろう知識を語る。


 アルフレッドはもちろん、浜辺で遊んだことはない。彼はララタがこの世界にくるまで大変な病弱で、王宮からは一歩も出たことがなかった。ララタがこの世界にきてからも、勉強だ鍛錬だと忙しかったし、今では公務の一部を任されているから、アルフレッドはララタ同様に海に詳しいとは言えなかった。


 ララタから見るとアルフレッドはちょっと浮かれているように見えた。おおよその見当はつく。想いを寄せるララタと遠出ができてうれしいのだ。ララタはそこまで考えて、他人からするとあまりにうぬぼれて見えるのではないかと思い、恥ずかしくなった。


 けれどもあの日記が正しければアルフレッドは――ララタのことが好きだ。恋愛感情としての好きを抱いているのだ。そしてそれはララタも同じであるから、実はアルフレッドが少しだけ浮かれているのを咎めるのが憚られる心境になる。


 もちろん傍目にはアルフレッドは王宮でしているような顔をした、「アルフレッド王子」だった。つまり、生真面目に仕事をしているように、他のひとの目には映る、ということである。


 ただしかし、この漁村の人々は今この地に王子がきていることを知らない。アルフレッドはララタの弟子として、師に随行している……ということになっている。


 それは完全なウソとも言えなかった。アルフレッドからすればララタは己に魔法を教えてくれた師匠なのだ。普段は「師匠」などとは呼ばず、対等な関係であるので忘れがちであるが。……そういうわけで、ララタの弟子アルフレッドというのは、まるきりウソとも言い難いのであった。


 なぜ身分を偽っているかと言えば、単純に「騒ぎになるから」である。王子が来村となれば、村の住民たちは饗応に走らざるを得ない。それは村の負担となるし、アルフレッドの望むものでもなかった。


 そういうわけで、ワケあって「魔法使いとして」王宮の外に出る際は、アルフレッドは「魔女様」の弟子を装うのであった。


 この世界には魔法使いはたったふたりだけであるのだが、民草はそんなことは知らない。王室は王子が魔法使いであることを秘匿している。だからこの国の民草は魔法使いが何人いるのか知らないし、そもそも何人いようが彼ら彼女らには関係のない話であった。


「ちょうど焼き菓子も貰ったし、のんびり遊んでみるのも悪くないと思わない? それに浜辺で遊んでいたら出てくるかもよ?」


 老爺の孫息子の嫁だとかいう女性に貰った焼き菓子の包みをちょっと持ち上げて、アルフレッドは目配せする。そんなアルフレッドを見て、ララタは密かにため息をついた。


 もちろん、この漁村には遊びにきたのではない。魔物退治をしにきたのだ。


 一ヶ月ほど前から、浜辺で遊んでいると身の丈四メートルはあろうかというノッポの魔物が現れて、子供たちに不気味な問いかけをするのだと言う。


 曰く――「願いを叶えてしんぜよう」とか。


 まず見た目が恐ろしいので子供たちはクモの子を散らすようにして逃げ出した。だから、そのノッポの魔物はまだだれかを襲ったわけではないのだが、とにかく不気味だし恐ろしいのでどうにかしてくれと、領主に陳情をしたのだ。それがララタの元へ届くまで一ヶ月。元の世界との通信技術の差に思いを馳せてしまうが、これでもこの世界では早い方だ。


 ララタはその魔物の話を聞いて危機感を覚えた。人語を解する魔物はあまりいないからだ。人間の言葉を完全に理解し、会話しようとする魔物――それはかなりの難敵に違いない。ララタの経験則がそう言っている。


 早急に魔物を駆除するべきだろうが、それにはまず当の魔物と出くわさなければならないわけで……。


 そうなると報告にあった「浜辺で遊んでいると……」を実行するのが最短距離であることは、もちろんララタにだってすぐにわかった。すぐにわかったが、どうにも脱力してしまう。


「まあそうかもしれないけれど……」


 もごもごと歯切れ悪くなってしまい、ララタは自分が思ったよりもクソ真面目なのだということを知った。


 仕方なく、ララタはアルフレッドと浜辺まで行くと、ふくらはぎまで覆う丈夫なブーツを脱いで、靴下を引っ張った。素足を波打ち際につけると、思ったよりも海水が冷たくておどろく。


 ふと横を見ればアルフレッドがふくらはぎまでズボンをまくりあげて、すでに両足とも裸足になっている。いつになくノリのよいアルフレッドの姿を見て、ララタは自分たちが魔物退治にきたのだということを忘れていませんようにと祈った。


「うわあー。波が引くと砂が動いて変な感じだ!」

「たしかにちょっとゾワゾワするかも」


 そう思いつつも、ララタの心も未知の海を前にして、少しだけ躍る。潮風がべたべたするのがちょっと気になったが、まあ帰って水浴びをすればよい。それよりも寄せては引く波がララタには新鮮で、ちょっとおもしろかった。なにより海水の温度に慣れてくると、足だけでも水の中にいるというのはちょっと気持ちよかった。


 知らず、ララタの目もきらめく。アルフレッドも同じ目でララタを見ていた。


「あ、ララタ……」

「え?」


 アルフレッドが急に目のきらめきを引っ込めてララタの背後を指差した。ララタはアルフレッドが近づいてくるバシャバシャという足音を聞きながら、振り返った。


 そこには身の丈四メートルはあろうかという、ノッポの黒い魔物が立っていた。魔物は全身が真っ黒で、頭が異様に大きく長い赤子のような姿をしていた。たしかにこれは不気味であるし、好奇心旺盛な子供たちも一目散に逃げるわけだとララタは思った。


 アルフレッドがララタをかばうように魔物とのあいだに立った。アルフレッドの魔力の流れが指先に集まっているのがわかる。彼はすでに臨戦態勢に入っていた。


 不意に魔物が口開く。開いた唇から、黄ばんだ乱杭歯が見えた。


「……なんじのねがいごとを、かなえてしんぜよ~う」


 見た目が恐ろしい割には、息を吐くような気の抜けた声だった。けれどもこんな恐ろしげな見た目の魔物に願いを叶えて欲しいと思う人間はいるのだろうか? いるとすれば、そのひとはよほど追い詰められているに違いない。


 ララタが魔法で吹き飛ばすべきかどうか考えているあいだに、アルフレッドはポケットから包みを取り出して魔物に見せた。ララタは一瞬、先ほど貰った焼き菓子の包みかと思ったが、違った。


「――それじゃあこれを食べてくれよ!」


 アルフレッドが中空に向かって包みを投げる。魔物の長い頭部がぐにゃりと動いて、黄ばんだ乱杭歯が並ぶ口が空へと伸びた。そのまま、その赤黒い口の中に白い包みがすっぽりと隠れて消える。あとには耳障りな咀嚼音が響く。


 しかししばらくして魔物はぶるぶると震え始める。明らかに生命が危機に瀕しているといった痙攣の仕方だ。しかしそんな魔物を助けてやろうという気のあるものは、ここにはいない。


 魔物はそのままぶるぶると震えながら、塩をかけられたナメクジのように徐々に小さくなり――しまいには黒いモヤとなって、最後にはフッと姿を消してしまった。


「……これでいいのかな」

「たぶん」


 なにぶん初めて見る魔物だ。退治の方法がこれで正しいのかはわからない。しかし人間を見てすぐに襲ってくるような気性の荒いタイプではないようだから、再び現れても先ほどと同じ手順で退治してしまえばよさそうではあった。


「それにしても、ああいうのにも毒餌って効くんだね」


 アルフレッドが投げたのは、先ほど貰った焼き菓子――ではなく、魔物退治となれば常に携帯する毒餌だった。小麦でできたパンに毒を仕込んだだけの簡易的なものだが、単純な魔物には意外と効く。あとは増えすぎた魔物に対しても毒餌を撒くことはある。


「まあ、あんなナリだけど、アレも生き物だから……毒が効いたんだろうね」

「これきりでまた現れないといいけど。さすがにああいうのは魔物にしても不気味すぎる」


 アルフレッドの意見にはララタも同意だ。人間でないのに人語を操るというだけでもゾッとするのに、あの魔物は怪談に出てくる存在のようだった。黄ばんだ乱杭歯や、咀嚼音を思い出して、ララタは背筋がちょっと冷える。


「それにしても……あの魔物、人間から願いごとを聞いてなにをするつもりだったんだろう?」

「さあ? 魔物の考えることだからわからないわ。でも、願いごとを仮に叶えてもらっても、手痛いしっぺ返しを食らいそう」

「だよね」


 ララタの言葉にアルフレッドは困ったような笑顔で同意を口にする。


「でも、もし本当に願いが叶うとしたら……願ってしまうひともいるだろうね」

「まあ、いるでしょうね。あの魔物にそんな超常的な力はないと思うけど。……アルはなにか願いたいことでもあるの?」

「え? うーん……」


 潮風がララタの赤毛とアルフレッドの金の髪を揺らす。


 やがてアルフレッドはちょっと恥ずかしそうな顔をして言った。


「ララタとずっといっしょにいられますように……かな。願った代償は大きそうだけど」

「えー? 『代償が大きそう』ってどういう意味?」

「だって永遠にいっしょにいられるわけがないから。なにが起こるかなんて、だれにもわからないでしょう? だから」


 困ったようにはにかむアルフレッドを前にして、ララタは急に「愛しさ」のようなものが心の奥からのぼってくるのを感じた。


 けれどもララタは素直ではないので、アルフレッドに抱きつく代わりに彼の肩を軽く叩いた。


「別にそんな心配しなくてもいっしょにいてあげる! そもそも異世界人のわたしには王室の後ろ盾が必要だし……」

「ロマンチックじゃない理由だなあ……」

「でもそのほうが安心できない?」

「……そうかもね」


 ララタはなんとなく頬っぺたがぴりぴりと熱いような気がした。太陽の光に当たりすぎたのかもしれない。


 そしてなんとなくアルフレッドの顔が見れなかった。理由は、自分が素直じゃないからだろうということはわかっている。それでもララタはアルフレッドから視線をそらさずにはいられなかった。


 だからララタは己を見つけるアルフレッドの優しい目には、なかなか気づかないのだ。

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