(7)

「アルが行方不明?!」


 ララタはアルフレッドの教育係であるアンブローズおうからの言葉に仰天した。


 真っ白なアゴヒゲを生やしたアンブローズ翁は、大変に困った顔をしているが、あせっている様子はない。他方、ララタは大慌てだ。


 しかし無闇やたらとあせっていても事態は打開できない。あわてる気持ちそのままに、しかしあせりを押さえつけ、ララタは努めて冷静にアンブローズ翁に問うた。


「いったいどういうことなんです?」

「話は簡単です。王宮図書館で魔法書を開いたせいなのです」

「……吸い込まれたとか?」

「いえいえ。王宮図書館が海に変わって波にさらわれた殿下が行方不明なのでございます」


 常人であれば一瞬にしてヒューズが飛ぶような理由だった。ひとことで簡潔に説明されても、なにがなんだかわけがわからない。


 しかしララタは魔法使いで「魔女様」なのだ。アンブローズ翁の簡潔すぎる言葉を受けて、概ね王宮図書館とアルフレッドの身になにが起きたのかを察した。


 王宮図書館は読んで字のごとく王宮の敷地内に設けられた図書館である。古今東西あらゆる書物を蒐集し、収めている巨大な図書館だ。


 そしてそこが海へと変貌した。――魔法書の仕業である。


 魔法書の中にはその名の通りに魔法がかかっている本も存在する。「魔法書を開いたら図書館が海に変わった」ということは、十中八九その魔法書に魔法がかけられていたということになる。


 そしてララタが呼ばれたのはなにもアルフレッドのかりそめの妻だからではない。ララタが魔法使いだからだ。


 つまり、この事態はララタでなければ収拾できないとアンブローズ翁が判断したのだろう。


 ララタは深いため息をついた。なぜアルフレッドは不用意にも魔法書を開いてしまったのだろう。あれほど日ごろから口を酸っぱくして魔法書の危険性は教えてきたハズなのに……。


 だがそんなことを考えていても始まらない。


 ララタは気持ちを新たにしてアンブローズ翁と共に王宮図書館へと向かった。


 王宮図書館の内部はまさしく海だった。……とは言え、そこは魔法書が作りだした「海」。普通の実在する海洋とは違う。


 まず水の部分に触れても濡れない。これならば内部の蔵書たちがダメになるという恐ろしい事態にはなっていないようだ。おまけに冷たくもなく温かくもなく、不思議な感触である。


 色は淡いイエロー。彩度は低め。そのイエローの海の中を、魔法生物と思しき魚のようなものたちが悠々と泳いでいる。


 魔法が届く範囲はどうも王宮図書館の内部に限定されているらしく、アンブローズ翁が正面玄関の扉を開いても海水――と呼ぶのが正しいのかはわからない――があふれ出てくる、ということもなかった。


 ララタは試しに正面玄関の扉から先に出てこない、海水の壁へと頭を突っ込んだ。濡れるような感触はないが、ララタの赤毛は海流に沿ってうねうねと動いた。魔法書の効果と言えど、まったくもって不思議である。


 冷たくも温かくもない水の中で、ララタは息を吐いた。ぶくぶくろ泡が頭上へとのぼって行く。そして思いきって海水を吸い込んだ。


 おどろくべきことにこの海中では呼吸ができるようだった。しかしこの魔法で出来た海水を吸い込むのは、ちょっとだけ抵抗感がある。……しかしアルフレッドを捜さなければならないことを考えると、そのようなことも言ってられなかった。


 ララタはアンブローズ翁にアルフレッドがいた場所を聞き出し、まずはこの不思議な灰色がかったイエローの海をどうにかすることに決めた。


 アルフレッドだっていっぱしの魔法使いなのだ。波にさらわれたのは気になるが、この海で溺死することはないだろう。


 ララタはそう考えたが、本音ではアルフレッドを一番に助けに行きたかった。しかしこの海が気になる。なにかしらのリスクが存在する魔法である可能性もある。それを思えばまずは元凶たる魔法書を捜しだし、魔法を止めるのが先決だった。


 ララタはイエローの海の中に歩いて飛び込む。濡れる感触はないのに、水流や水の重さは感じられる。


 すぐに浮力もあって歩いていられず、ララタは自然と平泳ぎを始めた。


 眼前に広がるのは見慣れた図書館の円形のエントランス。


 ララタはそこから順繰りに探索へと赴くことにした。


 幸いにも海を往く魔法海洋生物たちはララタに欠片も興味を示さなかった。とは言え、巨大なサメのような魚に行きあったときは、さすがに本棚の陰に身を隠してしまったが。


 そしてララタは難なく王子が魔法書を開いた地点へとたどり着いた。


 水流がキツイ。体全体を押し上げるような水流の源に目を向ければ、そこには一冊の本が大理石の床に放置されていた。恐らく、これがアルフレッドが開いてしまった魔法書なのだろう。


 ララタはどうにかその魔法書のそばまで行くと、強烈な水流に翻弄されながらも、最後は力技で本を閉じた。


 途端、イエローの海が姿を消す。海中を悠々と泳いでいた魔法生物たちも、跡形もなく消えた。


「やれやれ……」


 疲労の息を吐いてまじまじと魔法書を眺めていたララタの頭頂部に、なにかが高速で当たる。


「いった?! いや、そんな痛くはないか……」


 ララタにぶち当たったなにかは、そのまま彼女の足元にバサッと音を立てて落ちる。


 ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、ララタは落ちてきたそう分厚くないノートのようなものを拾い上げる。


 当然、ララタはごく自然な動作でそれを開いた。開いたあとでそれが図書館に収蔵するようなタイプの書物でないことに気づいたが、視線はそのまま中にある文字を読み上げていた。


『ララタが好きだ』


 どこか幼い印象のある、まだつたない文字で筆記されたその言葉に、ララタはびっくりした。


 まさか自分の名前が出てくるなどとは予想だにしなかったせいもある。


 しかしララタは一瞬にして気づいてしまった。


 この本は――アルフレッドの日記だ。


 思えばこの字にもどこか見覚えがある。当たり前だ。アルフレッドに魔法を教えたのはララタで、そのときに散々魔法式などの書き取りをさせていたのだから、見覚えがあるのは当然なのだ。


 ララタはおどろきに体を固まらせたが、目だけはぎょろぎょろとアルフレッドの字を追った。


『ララタがこっちにいてくれるらしい! うれしい! うれしい! でもいつかかえってしまったらどうしよう?』


 一字一句見逃さないとばかりにララタはアルフレッドの文字を追った。


 日記をめくる指はかすかに震えていた。喜び、そして恐ろしさに。


 アルフレッドが自分に好意を持ってくれているとわかったのはうれしい。しかし、これ以上彼の本心を知るのもまた恐ろしい気がしてきたのである。


 いやいや、まだ幼い頃の日記のようだから、この好きに恋愛感情はないよ。心の中でそんな予防線を張ってみるララタだったが、それに反して日記の中のアルフレッドは情熱的になって行く。


 日記は毎日つけているわけではないようだった。


 日付は飛び飛びだったが、書いていることはおおむねララタのことで、しかも好意を微塵も隠そうとしていない。当たり前だ。私的な日記とはそういうものだからだ。


 しかしララタの心臓は破裂しそうなほどにドッキドキで、顔は真っ赤に熱くなっていた。


『ララタと結婚できないだろうか? 父上はあまりいい顔をしないだろうけれども……少し考えてみよう』


 日記の最後のページの、最終行はそこで終わっていた。


 ララタは無言のままに日記を閉じる。


 そして長い息を吐いた。


「つまり……『お試し妃』は方便ってこと?」


 ララタは気づいた。気づいてしまった。


 ララタがアルフレッドのことを好きならば、アルフレッドもララタのことを好きなのだと。恋愛感情があるのだと。


 同時に自分は騙されていたのだろうかと素直じゃない心で考える。


 ――なんだったら素直に「結婚して欲しい」って言ってくれればよかったのに……。


 素直じゃない自分を棚上げにして、ララタは悶々としてしまう。


「あっ……ララタ! そ、それっ!」


 急に本棚の陰から現れたアルフレッドの姿に、ララタはギャッと乙女らしからぬ声を上げそうになった。


 おどろくと同時に、悶々とした、繊細でしんみりとした感情がどこかへ飛んで行ってしまう。


 アルフレッドはひどくあわてた様子でララタにかけよると、彼らしくない乱暴な手つきで日記を奪い取った。


「――見た?!」

「え?」

「これ……」

「……見てない」


 あまりにアルフレッドの目が真剣だったので、ララタはウソをついた。


 ここで見たと言って「わたしと結婚して欲しいの?」と言えるだけの度胸は、残念ながらララタにはなかった。


「そう……」


 アルフレッドはララタの言葉を無条件で信じたらしく、日記をかき抱いたまま安堵のため息をつく。


 そんな姿を見てしまえば、ますます「実は最後までじっくり見ました」などとは言えなくなってしまう。


 ララタの心臓はドキドキしっぱなしだった。


 アルフレッドが自分を恋愛感情の意味で好きだと言うこと、日記を見ていないとウソをついてしまったこと……。その双方がないまぜになって、ララタは背中に冷や汗をかいた。


「……それなに?」

「僕の日記」


 ララタが素知らぬ顔をして聞けば、意外にもアルフレッドは腕の中にある書物の正体――ララタはとっくに知っていたが――を教えてくれる。それはララタからするとちょっと意外だった。


「なんでそんなものが図書館にあるの?」

「隠してたんだよ。書き終わったやつだし、量があるしで」

「え? 図書館に?」

「禁書棚って王族の許可がないと閲覧できないからね。ちょうどいいと思って」


 一転して朗らかに笑うアルフレッドに、ララタはなんと言っていいやらわからなかった。ツッコミたいことは山ほどあったが――結局ララタは口をもごもごさせるだけで、なにも言えなかった。


 ひとこと言うならば――さすがにそれはよい案ではないよ、だろうか。事実、トラブルの結果とはいえ、ララタ本人の目に触れてしまったわけだし。


 しかし「見ていない」とウソをついた手前、そのような指摘ができずにララタは先ほどとは違う理由で悶々としてしまう。


「で、日記を捜していて魔法書を開いちゃったワケ?」

「そう! よくわかったね?」

「まあアルのことなら大体わかるから……」

「え? うれしいなあ」

「……そこは普通イヤなんじゃないの?」

「そんなことないよ? 僕はうれしい」


 ふたり並んで図書館の玄関で待つアンブローズ翁の元へと向かう。このあとアルフレッドはアンブローズ翁からしこたま叱られるわけなのだが――その最中、ララタはアルフレッドの胸中を知ってしまったことを黙っていることに決めた。


 それはララタが素直じゃないからという理由もあったし、ちょっとした意趣返しの意味合いもあった。


 とにかく素直じゃないララタは素直にアルフレッドと両思いであったことを喜ばず、しばらくは彼が持ちかけた奇習「お試し妃」の役目を演じることにしたのであった。

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