(4)

 ところはとある山稜の途上。空気の薄い高さまで――魔法で――登ったララタは、当然の帰結として気温の低さに震えていた。


 ファーの付いたコートを着こんで着こんで着こんできたけれども、やはり山の寒さはひと味違う。骨の髄から冷え切って、そのままカチンコチンに凍ってしまいそうだった。


 この世界は魔法の衰退とともに季節が曖昧になり、そして乱れた。突然寒くなることもあれば、突然暑くなることもある。


 ララタは、はじめ明日の気温も想定できないような気候にびっくりしたが、この世界ではそれが普通なのだ。未だに慣れないものの、「そういうもの」として受け入れてはいる。


 だけれども地上の寒さというものには底がある。しかしこの山の中ではそんな底はないか、あるいは地上よりもずっとずっと深いところにあるように思えた。


 寒いのが大の苦手のララタにとって、今回の仕事は憂鬱以外のなにものでもない。


 ぶるぶる震えながらのろのろと歩きつつ、仕事に備えて大魔法が使えない状況を呪った。


 体を温めたりする魔法は、ある。あるのだが常に魔力を垂れ流すようなものなので、みそっかす魔法使いであるララタがそんな魔法を行使しては、本仕事の前に魔力切れを起こしてしまうことは必至だった。


 そういうわけであらかじめ作っておいた放熱石――読んで字のごとく熱を発する石だ――を抱くようにして、のろのろと山登りをしている次第である。


 しかし「とにかく早く仕事を終わらせたい!」と思っているのはララタだけのようだった。


 三歩先を行くアルフレッドは処女雪広がる山の原で、足跡をつけては幼子か無邪気な犬のように喜んでいる。


 アルフレッドもララタと同様にファーの付いたおそろいのコートを着こんで着こんでいたが、彼女のようにぶるぶると震えている様子はない。


 シミひとつない頬を寒さに赤くしながらも、白い息を吐いてはあっちへこっちへフラフラと歩き回っている。


 それを見てララタはヒヤヒヤしながら無鉄砲な本当の幼子をしかる口調で、「そっちへ行かない!」とか「そっちは雪庇せっぴだから!」などと小声で――雪崩を恐れて――叫ぶのであった。


 しかしアルフレッドは危険を前にしてもあまり気にした様子はない。いざとなれば魔法でどうにかできるだろうという慢心がそうさせているのだ――とララタは恨めしくアルフレッドを見る。


 もとより冷え性で寒いところが大嫌いなララタは、こんな雪山の中ではしゃぐ余力などすでに残ってはいなかった。


 魔法で飛んでいるあいだは真っ白な山稜を楽しむ余裕はあったが、魔力の節約と今回の仕事の相手に気づかれないようにするため、山に下りてからは地獄、地獄のひとことである。


 持ち込んだ放熱石の熱も徐々に弱くなり始めた。これはあらかじめ魔力を流して作成するものなので、時間が経てば熱を発さなくなる。つまり使い捨てのカイロのようなものであった。


 アルフレッドとそろいのコートを着こんで着こんで着こんでいるララタは、それでも寒さに震えている。このままでは意識が先にどこかへ遭難してしまいそうだ――ララタはそんなことまで考え始める。


「ねえララタ」

「うん?!」


 先行していたアルフレッドが気を変えたのかララタのそばに駆け寄ってくる。


 アルフレッドにじゃっかんイライラとさせられていたララタは、目をきらめかせたアルフレッドの言葉に、剣呑な返事をしてしまう。しかし彼はまったくもって気にしていないか、気づいていない様子であった。


「この前、新婚旅行の話していたでしょう?」

「……そうだっけ」


 ララタの脳みそは極寒の風に吹きつけられて、凍りかけていた。


「ほら、食事会のあとに」

「……ああ」


 アルフレッドの言葉に以前の会話を潔く思い出せても、ララタの反応は薄い。なにせ、寒い。寒いのだ。寒くて仕方がないのだ。言葉すら凍りついてしまいそうな寒さなのだ。


 しかしアルフレッドはそんな様子はない。もしかしたらこちらの世界の人間は、乱れた気候に順応し、寒さ暑さに強いのかもしれない――。ララタはそんなことを考える。


 でないとアルフレッドが部屋にこもりきりのララタと違って普段鍛えていることを差し引いても、やはり元気がよすぎる。きっとそうだ。そうに違いない。ララタはすでに脳内で結論を出していた。


 一方のアルフレッドはララタの反応が薄いことが不満な顔をする。


「ふたりきりで綺麗な山にきてさ……これって新婚旅行みたいじゃない?!」


 しかし思い直したのか、またきらめかしい目をして興奮気味に語り、ララタに同意を求める。


 だがララタはその言葉に同意などできようはずもなかった。


「こんな新婚旅行はいやだ」

「なんで?」

「寒い……寒すぎる……。それに新婚旅行って暖かい場所に行くのが定石でしょう……」


 最後の方になるともはやだれに向けてしゃべっているのか、ララタにすらわからなかった。


 対面するアルフレッドはと言えば、ララタの様子がおかしいことにようやく気がついた顔をして、きょとんとした様子で彼女を見る。


「そんなに寒い? たしかにララタは冷え性だったけど――」

「寒いっ! 寒いに決まってるじゃない! こんな雪まみれの場所っ」


 一度にしゃべったララタの口からもわもわと白い息が浮き上がる。次いでララタの歯が鳴った。体の震えのためだ。そろそろ新しい放熱石を出すか、早急に仕事の相手を見つけなければ凍死してしまいそうだとララタは震える。


 アルフレッドはなにを思ったのか、ララタが震える前で分厚い手袋を取った。そしてそのままララタの寒さでリンゴのように赤くなった頬に触れる。


「うわ、本当だ。冷たい! そんなに寒いの?」

「さっきから言ってるじゃない! ……たぶん、この世界の人間とは体のつくりが違うのよ」

「なるほど。そういう違いもあるんだ」

「そうみたい……」


 ようやく合点がいったらしいアルフレッドは、突然ララタの手を引いた。ぶるぶる震えるばかりで力の入らないララタは、たたら踏む暇もなくアルフレッドの腕の中に飛び込む。


 着こんだ着こんだコートごしに、かすかにアルフレッドの体温が伝わってくる。こんだけ温かければこれだけ寒い中にいても平気だろう、というくらいの体温だった。


 ……どうやらこの世界の人間が極端な寒さや暑さに対して順応している、というララタの仮説は正しいようである。


「アルってこんなに体温高かったっけ? 大丈夫?」

「『大丈夫?』はこっちのセリフだよ。ごめん気づかなくて。こんなに冷えてる」

「いや、どうもこの世界の人間とは体のつくりが違うみたいだからさ……そんな気にしないで」


 ララタの白い息がアルフレッドの胸に当たり、それから上へと立ち昇って行く。


 ララタは平静を装って答えたが、内心ではドッキドキだった。なにせ、意中の相手であるアルフレッドに暖をもらうためとはいえ、抱きしめられているのだから。


 ララタはアルフレッドの気づかいに舞い上がらんばかりとなる。


 心臓がドッキドキなせいで、ララタの体温はちょっと上がった。顔も熱くなるが、もとより赤かったので目立ちはしなかった。


「しばらくこうしていたほうがいい?」


 心配そうなアルフレッドの声が、ララタのつむじに降ってくる。


 しばらくどころか、本音ではいつまでもこうしていて欲しかった。が、素直じゃないララタは「もう大丈夫」と言ってアルフレッドから離れようとした――が。


「! アルっ! 上っ」

「っ! あれは――」


 突如として寒風が吹きすさび、表面を覆っているだけだった処女雪が吹き上がる。


 舞い上がった雪の中で見えた巨影は、まさしくララタとアルフレッドが追い求めていたものだった。


 魔物。まだ、魔法があった時代の名残と呼ばれる生物。魔力を持ち、魔力をほとんど持たない人間たちを翻弄する。


 今回、ララタたちが人里離れた雪山へと踏み入ったのは、厄介な魔物が跋扈しているとの陳情があったからだ。


 この付近には隊商が行き交う関所もある。もしそこまで魔物が降りてくれば被害は甚大なものとなるだろう。


 そういうわけで今回のララタたちの仕事は、その魔物を退治することであった。


 魔物は、雪のように真っ白な毛皮を持つ、オオカミに似た容貌をしている。しかしその体内には普通のオオカミにはない魔力の流れが感じられる。


 山稜の上からララタたちを睥睨していた魔物は、突如飛び上がり、雪を蹴り上げながら一直線にこちらへと向かってきた。


 ララタは素早くアルフレッドから離れる。アルフレッドも、すでに魔力を射出する準備を整え、戦闘態勢に入っていた。


「アル!」

「いつも通りに!」

「うん! 気をつけて」

「ララタもね」


 ふたりともまとまっていてはいい的だ。いつものように別れたふたりは、それぞれの位置について魔法を打つ。


 ララタは意識を集中させた。指先がちくちくとする。魔法を使うときは、いつもそんな感じだった。


 アルフレッドが先陣を切った。放電音が寒空を切る。矢のような形をした電撃が、矢よりも素早く魔物へと向かう。電撃をまともに食らった魔物は、感電によってその体を硬直させる。


 ララタは準備していた風の魔法を放った。空気を切り裂く音が一瞬だけして、次の瞬間には魔物の喉が切り裂かれている。魔力の混じった血が噴き出す。


 魔物はしばらくよろよろと立っていたものの、すぐにその巨体を雪原へと沈める。ドーンという音が響き渡って、それに伴い地表を覆う雪が舞い散った。


 短剣を抜いたアルフレッドが魔物に近づいて絶命を確認する。そのジェスチャーを見て、ララタはそっと白い息を吐いた。




「とんだ新婚旅行ね……」

「え?」

「アルが言ったんでしょ?!」

「ああ、うんそうだけど。でもララタは乗り気じゃないみたいだったからさ」

「まあ、そうだけれども……でも、わたしたちらしいかもしれないなと思い直して」

「らしい? ……そうだね、たしかに。『初めての共同作業』ってやつ?」

「そう。そんな感じ」


 どちらからともなくクスクスと笑い声が上がる。


 それからふたりはごく自然な動作で腕をぴたりとくっつけて、そのまま並んで下山するのであった。それはそれは、仲睦まじげな様子で。

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