(2)

 時を巻き戻すこと一〇年弱。


 冴えない赤毛の女の子、ララタは見た目通りのパッとしない日々を送っていた。


 いや、それよりもずっと悪い。ララタは孤児で、入学したばかりのアカデミーではさっそくイジメられていた。赤毛はララタが思っているよりも目立つ。おまけにどんくさくって魔法の成績も悪いのでは、いい的というものだった。


 それでもララタは腐ることなくコツコツと勉強を続けて、成績もまあまあといったところになったが、相変わらずイジメられていた。


 この世界の魔法使いは幼いころから魔法を教えられる。ララタにはそういうスタートダッシュよりさらに前の段階から、魔法を教えてくれる人間など存在しなかった。


 それは、普通の魔法使いからすると嘲笑の的らしかった。ララタからすれば理不尽なことこの上ないのだが、それがこの世界のクソみたいな常識ってやつだった。


 それでもララタはクソみたいな常識が覆せないとわかっていても、腐ることはなかった。いや、心の下の方は腐っていたかもしれない。けれどもいつか、こうやってコツコツと勉強した分は自分の血肉になると信じて、朝から晩まで勉学に励んだのだった。


 そんなララタを神様が――いたとすれば――見ていたのかもしれない。


 転機はある日唐突に訪れた。


 いつものように勉強に励んでいたララタは、眠気覚ましのコーヒーでも淹れようと立ち上がった。


 そのとき、霧のような靄のような――とにかく白煙がにわかにララタの周囲に立ち込めて、見る間に彼女を包みこんでしまったのだ。


 もちろんララタは大慌て。パタパタと腕を振り回してみるけれど、白煙はもくもくと立ちこめるばかり。


 そして気がつけば――ララタは異世界に来ていたのである。


「おお、召喚成功じゃ!」


 今しがたまでララタを包んでいた白煙と、同じくらい真っ白なヒゲを生やした枯れ木のような老爺がそう高々に叫ぶ。ララタが「ハア?」とクエスチョンマークを大量に頭上へと浮かべているさなかに、老爺はひっくり返るようにして後ろに倒れた。


 すると周囲にいた明らかに武装した兵士らしき人間やらなんやらが、いっせいに老爺へと殺到する。口々に老爺の名前だか役職名だかを叫んで。


 取り残された形のララタだったが、すぐに気を取り直して老爺をぐるりと取り囲む人垣へと近づいた。周囲の人間たちはなにをするでもなく、ひたすら老爺の名前らしきものを叫んでいる。


 いや、手当てとかしなくていいの?


 そう思ったララタは人垣をかきわけて仰向けに倒れている老爺へと近づく。


 老爺は――幸いにも絶命しているとか死にかけているとかいうことはなく、ただ衰弱しているだけのようだった。少なくともララタの目にはそう映った。


「おお魔女様、どうかアンブローズ様をお助けください!」


 板金鎧をつけた兵士らしき男が大仰な口調でララタに向かって懇願する。すると反響でもするように、次々に周囲を取り囲む人間たちが「魔女様、魔女様」と言い出す。


 ララタは「たしかにわたしは魔女ってやつなのかもしれないけれど」と思いつつ、わけもわからず流れで老爺に気つけの魔法をかけた。人体を治療する回復魔法の中でも初歩中の初歩、習い始めて二番目か三番目に教えられる魔法だ。


 すると老爺がカッと目を見開いた。ララタは今度こそ絶命するのかと思っておどろいた。老爺の様子があまりにも鬼気迫っていたからだ。


 しかし老爺は絶命することはなかった。目を見開いたままぐるりと周囲を見回し、最終的に赤毛のララタを見つけるや、そちらにしわしわの顔を向けたのだ。


 尋常ではない様子の老爺を見て、ララタは後ずさりしたくなった。けれどもちっぽけなプライドと、周囲の空気がそうさせはしなかった。


「魔女様……この老爺をお救いになられたこと、ありがたく存じます」

「え? いや、そんな大げさな……」

「魔女様! どうかお頼み申す! 我らが殿下をどうかお救いくだされ!」


 老爺は地にひっくり返ったまま首だけを起こして力強くそう言った。周囲の人々も口々に「魔女様、魔女様」と叫び出す。


 ララタはなんのカルト教団に入りこんでしまったのかと戦々恐々だ。


 しかし先に行ってしまうとここはカルト教団の本部どころか――異世界であった。それを聞かされたララタが、老爺のごとくうしろへひっくり返りそうになったのは、言うまでもない。


「い、い、い、異世界いぃ?!」


 いじめられっ子らしく内向的で声を張り上げることのないララタも、しかし優しい声音で「ここは異世界ですよ」なんて言われれば、叫ばないわけにはいかなかった。


「はい。ここは魔女様の世界とは異なる世界――すなわち異世界なのでございます!」


 復活した老爺ことアンブローズおうに流れで同道することになったララタは、その道中でこの世界についてアレコレと聞かされた。それらの多くは右耳から左耳へと抜けて行って、ララタの脳みそにはあまり残らなかった。


 だってこの世界の成り立ちだとか、この国を治める王室の起源だとかをいきなり聞かされても、一度に記憶できるほどの能力はララタにはない。興味もない。


 ララタの関心はこの異世界から帰れるのかということ。それから明日が提出期限の課題がまだ終わっていない上に、ノートや教科書が元の世界に置きっぱなしという点であった。


「あのー……もしかしてわたしって帰れないとか……ないですよね……?」


 答えを聞くのは恐ろしいような、そうでもないような不思議な気分だった。


 思い返せば元の世界に残してきたなどないわけで……おまけにララタは元の世界ではみそっかす扱いだ。


 くだらないイジメの数々を「くだらない」と切り捨てられる強さを持つようになった一方、それでもやっぱり心は痛む。親もいないし兄弟もいないし恋人もいない。


 そこまで考えて、ララタは仮に元の世界へ帰れないと言われても、自分が困ることってそんなにないのではないか、ということに気づいた。いや、困ることは無数にあるにはある。たとえば住む場所だとか、職だとか。


 この世界の福祉制度がどれほどなのかもわからないのだし、気軽に「別に困らないや」などと考えてはいいものではないと思い直す。


 ……そんなことをアンブローズ翁から返答がくるまでのわずかなあいだに考えたララタだったが、翁の答えは「否」。


「もちろん、元の世界には帰せますとも! ご安心くだされ! ……ただ、次の新月の晩まで待たねばなりませんがのう……」

「あっ、帰れるんですね……」

「もちろんですとも!」


 ニコニコ顔で答えるアンブローズ翁に、ララタは内心で脱力した。そして次の新月の晩まで自分は失踪することになるのは確定か、とか、明日が提出期限の課題はあきらめるしかないのか、とか考えて、また脱力する思いだった。


「それであのー……なんでわたしが召喚? されたんですか?」

「それは我が国の王子殿下をお助けしていただきたいからです!」

「王子様を? ご病気なんですか?」

「それは……なんと言えばいいのやら……とにかく魔女様に診ていただきたいのです」


 そうは言ってもララタは医者ではない。回復魔法はいくつか習得してはいるものの、たとえばガンなどを治療せよと言われても無理である。ララタにできるのは、ちょっとした切り傷程度の回復力を増進させる、といったことしかできない。


 しかしまさかこの国の王子様の切り傷を治すために、わざわざ異世界から魔法使いを召喚するなどするはずがない。それはララタにもわかっている。だからいつ「無理です」と切り出すべきか、悩んだ。


 悩んでいるうちにアンブローズ翁は高い天井の王宮の廊下の更に奥にある、これまた巨大な扉の前で足を止めた。


「今さらですけどこんなところまでわたしを入れていいんですか……?」

「陛下から許可は得ておりまする。それに魔女様はわしを助けてくれたではありませんか!」

「ええ、まあ、そう……ですけれど」

「ささ、どうぞお入りください。どうか殿下の具合を診てくだされ!」


 背中を押されて入った部屋は、とにかく豪奢のひとことに尽きた。部屋を彩る調度品の数々は、目の肥えていないララタが見ても高価なのだとわかるつくりで、象嵌ぞうがんなぞはその繊細さに目まいを覚えるほどであった。


 そしてどうやらここはリビングに当たる部分らしく、アンブローズ翁の言う「殿下」はもうひとつ扉隣の寝室にいるらしかった。


 アンブローズ翁の言葉に促され、ララタは寝室へと繋がる金の取っ手に手をかける。


 扉の先にはお約束のように天蓋つきの豪華なベッドが置かれていた。天蓋から垂れる白いレースカーテンが、まるでベッドで眠る者を守るかのように閉じられている。


「開けても……?」


 ララタは後ろに控えるアンブローズ翁に問うた。翁は無言でうなずく。


 ララタはそっとガラス細工でも扱うかのような様子で、レースカーテンを引いた。シャリシャリとカーテンレールが音を立てる。


 レースカーテンの向こう――柔らかそうなベッドの上ですやすやと寝息を立てていたのは、ララタと同じくらいの年に見える、男の子だった。


「魔女様……どうですかのう?」


 なんとなく、「殿下」や「王子」と敬われていたから、てっきりララタは自分より彼は年上なんじゃないかと思い込んでいた。だから脱力した理由がひとつ。


 ふたつめは――


「治せない……ことはない、と思います」


 王子の魔力の流れが、めっちゃくちゃに乱れている「だけ」だったからだ。


 これで小児ガンとかであれば、ララタにはお手上げだった。けれども人体の中で乱れた魔力の流れを元に戻すのは、ララタくらいの魔法使いになれば「がんばれば」なんとかできる。


 だからララタはどうやら自分に期待された仕事ができそうだと確認して、心の中でどっと脱力した。


 一方のアンブローズ翁はこれまた目を見開いて歓喜に身を震わせている。


「それは本当ですかな?!」

「専門家ではないので時間はかかります。でも時間をかければ治せます。あの……この方は病弱とか、妙に風邪を引きやすいとか、そういう症状が出ているんですよね?」

「なんと! それを見抜かれましたか!」


 ララタは素直ではないので、「わざと言っていなかったのかな?」と考えたが、すぐにその考えを引っこめることにした。望んで呼んだにしても、初対面の人間なのだから信用できないのは当たり前だ。ララタはお人好しにもそう考える。


 アンブローズ翁は今やララタに対して絶大な信頼を寄せているようだった。ララタはそんな翁の視線がこそばゆくって仕方がない。


 だから誤魔化すように素朴な疑問を口にする。


「あの……魔力の流れを治せる人間はいないのですか?」

「残念ながら、この世界にはかつて魔法があり、その名残もあるものの、すでに廃れて久しい技術なのです」

「でも、わたしは召喚? できましたよね?」

「月の力をお借りしたのです。古文書を当たり古代文字を読み解き――いや、大変困難な道のりでした」


 ララタにはどうすれば月の力を借りられるのかイマイチわからなかった。魔法とは生物の中に流れる魔力を行使するものだからだ。月は生物ではない。


 しかしここは異世界。おそらく色々と勝手が違うのだろうと判断し、ララタは深くは突っ込まなかった。そうすると、まためちゃくちゃに長い話がアンブローズ翁の口から出てきそうだったからだ。


 ララタがアンブローズ翁から視線を外し、ベッドで眠る王子へと移すと、彼はパッチリと目を覚ましていた。


「おお殿下! お目覚めになられましたか!」

「アンブローズ……? と、そちらの方は――」

「えっと、ララタです。は、はじめまして」


 王子の瞳はそれはそれは美しい青だった。海を思わせる深みのある青に、ララタはなぜだか釘づけになる。


「はじめまして。僕はアルフレッド。よろしくね、ララタ」


 たちまちのうちにカチコチに緊張したララタは、伸ばされたアルフレッドの手を取る。その手はとても冷たかった。だからそれを温めてやりたいと、ララタは強く思ったのだった。


 ――思えばそれはひと目惚れ、というやつだったのだろう。

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