異能で無能な俺!?

グラハム・A

上巻

【目覚めと新学期】

 カーテンの隙間から陽の光が差し掛かり零れる。

 薄暗い部屋を照らし始めると目覚まし時計が浮かび上がる。分針は設定されたアラームの時間に差し掛かっていた。だがアラームが鳴るよりも前に勢いよく叩かれ、鳴ることなく目覚ましはアラーム機能を停止した。停止させた主は睡魔に抵抗する目を手で擦りながら定まらぬ焦点を勉強机に合わせる。数秒視線が止まる。机には乱雑に置かれた書類の数々。ほとんどが入学のしおりや関係書類だ。さらに周囲をグルリと見渡す。

「もう朝か……」

 ベッドから立ち上がると書類の前に移動する。

「ふぁ~~あ……はぁ……」

 書類に目を落として溜息が零れてしまう。どうしようもなく憂鬱だ。

 目を逸らすように視線をスライドすると窓からこの街を照らすために日が登り始めているのが分かる。振り返りベッドの目覚まし時計を見て、朝の五時半だと認識すると支度へとりかかることにした。


 ──二〇三十年四月一日午前六時三十分。準備を終えると二階の部屋を出て一階のリビングへ降りる。降り始めてすぐに香気が鼻先を掠める。

 かすかに一階のリビングから物音が俺の耳に伝わってくる。

 仄かにトーストが焼ける小麦の香り。さらにフライパンで油が跳ねる独特の音。

 階段を一段一段下がるたびにそれらは増していく。

 先ほどまでなかった食欲を掻き立て、唾液を含ませてくれる。

「すぅ……。母さんだな……」

 かぐわしい匂いをさらに鼻に押し込めると今度は涎が滴りそうになった。

 リビングのドアノブを回し、中の人物を驚かせないように慎重に優しく扉を押すと見慣れた後ろ姿が映る。

 エプロン姿で調理に勤しむ女性はこちらに気付き、振り返る。

「フミ君! おはよ~~」

 何処かホワホワとした掴みどころのない雰囲気を醸し出し物腰柔らかく、朝の挨拶をしてきた女性は母親だ。

 客観的に判断しても母さんはかなりの美人である。髪は少しウェーブがかかったロングで、癒し系美魔女。

 時折魅せる笑顔は御近所では評判が良く、特に殿方達を魅了し骨抜きにしている。ただしその殿方が全員独身なのかは別の話し。そう、既婚者も含まれている。だからだろうか、御近所さんの夫婦喧嘩の種になぜか母さんがいることも少なくない。暴力事件に発展しないことを祈ろう。

 それはさておき炊事洗濯料理はもちろん家事全般は完璧にこなし、性格は優しく素性の良さは折り紙付きである。まさに誇れるパーフェクトな母親だ。加え、その若すぎる容姿は異常だ。大学生や俺の姉と勘違いされてしまうくらいに。そんな母さんの実年齢はいまだに実の息子にも中々教えてもらえず、その理由は『知らない方がみんな平和ですよ~』だそうだ。──全く意味が分かりません母さん。

 不可思議な言動を思い返し,内心でツッコミを入れるとすかさず朝の挨拶を返した。

「おはよう母さん」

 母さんはいつもの返事を聞くと、朝食づくりに戻る。そのまま持っていたフライパンにフライ返しを入れて上手に使い、皿へ盛り付けていく。一通り盛り付けると皿を取り上げ、卵焼きとウィンナー、サラダが盛られている皿をテーブルに給配する。気付けば家族四人分の朝食がテーブルにセットされる。他にコーヒーと、先ほどの香ってきたトーストも並び、朝食の王道は全て揃っている。

 王道が並ぶテーブルの一角に用意された椅子に俺はゆっくり腰掛けた。

「もう少し待ってね。お父さんに美愛みあちゃんも、もう少ししたら起きてくると思うから」

 俺は頷き摘まみ食いしたくなる衝動をなんとか抑え、家族が全員揃うのを待とうと思った。その時タイミングを計ったようにリビングの扉が開く。

 リビングに年相応の中年男性が現れる。

「おはよう史弥」

「おはよう父さん」

 リビングに入って来た平凡な容姿で落ち着いた雰囲気の中年男性は父親だ。職業は普通の会社員。家ではパッとしない人だが、どこか頼りがいがあり、信頼できる人物でもある。母さん情報によると社内で行動力があり、部下に信頼されている、らしい。一昔前、会社に入社したばかりに就いた上司の不正を正し、さらに社内での一大プロジェクトを成功に導いたのが発端だ。おまけに学生時代に帰宅途中だった母さんを不良から助け、それがキッカケで知り合い現在へ繋がっている。本当に自分の知らない所で父さんは人徳を遺憾なく発揮しているのだ。

 しかし俺の見える範囲では自宅でいつもゴロゴロして、貫禄がまるっきり感じられない。良い意味で完全に自然体。悪い意味で牙を抜かれた虎。そしてその年齢は四十歳。父親と母親は結婚する前から同じ高校で三年間同じクラスだったと、父さんからこっそり聞いている。ここで母さんも同い年なので年齢が分かってしまう。まぁこんなこと母さんに言ったらどうなるかわからんから言わないけどね。

 父さんの後から幼女もヒョコっとリビングへ入ってくる。

「みんなおっはよぉ! お待たせ!」

 太陽のように明るく、元気いっぱいな満面の笑顔が家族全員へ向けられる。

 ショートヘアーに若干寝癖を残す可愛い幼女こと、妹の美愛ははつらつと現れた。

 俺の右横へ移動すると椅子に着席する。座る際に勢い余って少し左肩がぶつかり、「えへへぇ~……、ごめんね?」と純粋無垢で申し訳なさそうな顔が小首を傾げる。

「……天使を爆誕させてくれてありがとう」

「えッ? 何か言ったフミ君⁇」

「あっ、いや、何も」

 我に返り取り繕う。無意識に母親への感謝を述べてしまった。こんな可愛い妹を産んでくれてと。

 ──いかん、いかん。朝から何をやっているんだ俺は。

 幼女の可愛らしい一連の動作によって緩んだ頬を締める。俺の異変に気付かず、真横に腰かけた妹がソワソワと興奮気味な雰囲気を出している。椅子と身体の距離を兄の俺に近づけて座り直しているのがなんとも可愛いらしい。

「美愛、新学期楽しみなの?」

「うん! 美愛、小学五年生になったんだよおにぃちゃん! 一つまたお姉ちゃんになったからもうみんなのことしっかり面倒みないとなんだ!」

 美愛は集団通学だ。住んでいる同じ地区の子供達で班を作り登校している。班単位で行動する場合、統率をとる人間が必要となる。それはメインとサブに分かれ、分担して行われるのがセオリー。そして五年生ともなれば副班長を務める筈。今の美愛はそういうことを言っているのだろう。

「おぉ、偉いぞ。 でもお姉ちゃんになったならもっとゆっくり座らないといけないゾ?」

 ちょっと片目を瞑って人差し指を立てて教える。ちょっとキザだっただろうか。お兄ちゃんも気をつけよう。

 美愛は指摘されると頬を膨らませてプスっとしたかと思えば、「ウゥ〜〜、わかったよおにぃちゃん……」と納得してみせる。

 K・A・W・A・I・I。

 このままだとシスコンっぷりが加速してしまうので自重自重っと。

「朝から本当に仲が良いですね〜。傍目から見ていると胃もたれしちゃいます」

 兄弟のやりとりを見守っていた母さんが微笑ましい表情を向ける。そんな姿が美人な容姿に二乗して絵になってしまう。隣のおじさんと良い対比だ。

 父さんも母さんの横に着席して一周テーブルを眺めると、

「よし、待たせて悪かったな母さん、史弥。さあ、食べようか」

 音頭をとって朝食の始まりを宣言した。全員が向かいながらの食卓。

 家族が一同に会しての食卓はこのご時世珍しいかもしれない。

「そうですねお父さん。じゃあ頂きましょう!」

 母親が手を合わせると全員続いた。

「「「「頂きます」」」」

 全員がフォークや箸を使い食べ始めると父親が開口一番に話し始めた。何の脈絡もなくだ。

「最近疲れっぽくなったかな。昨晩なんか夜中に母さんがなぁ……、ブフッゥ⁉」

 気付けば父さんの脇腹に母さんのしなやかで鋭い肘が刺さっていた。目の前の食卓から視線を動かさずに正確に捉えた一撃。怖すぎる。

 そんな母さんは少し不機嫌気味で頬が紅く染まり、ピリついたオーラが背中から流れている。俺は同情の念を送った。今のは父さんが著しくデリカシーに欠ける発言だからだ。

「な・に・か・言いましたかお父さん?」

「いえ、何も……」

 ジッと見つめてしまったせいで自分も何かありましたか? みたいな視線を母さんに向けられてしまう。目が怖い。特に何も聞かれていないが「なんでもありません」とか言ってしまう。本当に巻き込み事故だよ父さん。

 恐怖という名の鉄槌が下った父さんに残された威厳は皆無であり、最早もはやこのやりとりは見慣れた光景。俺はその様子を傍目にオレジジュースを一口含む。最初から言わなければ良いのにと内心思いつつ、トーストを口に運びかけたところで横にいる美愛が兄である俺の袖を軽く引いた。

 不思議そうな表情に純粋で真っ直ぐな瞳を俺に向けると小首を傾げて尋ねる。

「ねぇねぇ、おにぃちゃん。二人ともなんの話しをしてたの?」

 バツの悪い顔を俺はしているだろう。だってこれは非常にマズイ。どれくらいマズイかと言えば友人が意を決し告白した意中の相手に振られた直後に会った時くらいにはマズイ。要するにかける言葉が見つからない。

 それに情操教育上、理解させてしまうと良くない。鑑みるにニュアンスをぼかさなければならない。俺は言葉を慎重に選んだ。

「父さんと母さんは夜中に……」

「夜中に?」

 おうむ返しの要領で美愛は復唱する。

「寝室で……」

「寝室⁇」

「……」

「……?」

「プロレスをしていたんだ」

「ぷろれす⁇」

 好奇心の強い小学五年生を誤魔化す妙案がこれだ。なんとも頭の悪い言い訳である。中学一年の雄しべと雌しべからやり直した方が良いだろうかと自分でさえも思ってしまう。

 俺の一言を皮切りに何処かでコーヒーを啜っていた中年男の咽せる音が聞こえた気がする。

「どうしてぷろれすしてたの? 夜中に?」

 ふむ、どうやら我が妹は許してくれないらしい。純粋無垢な眼差しがより輝いて俺の顔を覗き込む。どうやら追及は続く模様だ。ここはひとつ問題を先延ばしにして、きたる精神年齢を迎えた時に教えよう。うん、それが良い。

「家族の愛とか、友情てきなやつを確かめるみたいな感じ? って言えば伝わるかな」

 なんだ最後の友情って。自分で言ってて酷いな。あるのはまごう事なき夫婦愛しかないだろ。

 さらに疑問符を頭上に並べて目をしばたかせる美愛。「うーん?」と可愛らしく首を唸った日には尊いものを感じる。

「美愛もお父さんとお母さん好きだろ? そういうこと」

 はぐらかしてその行為には一切触れずに押し切る。逡巡しゅんじゅんの後、美愛は理解したのか一気に明るくなると答えは解けたと言わんばかりに返事をした。

「わかったよおにぃちゃん!」

 両親に向き直った美愛に気付かれないように俺は嘆息をつく。だが妹が納得して安心したのも束の間だ。

「おとうさん、おかあさん! 美愛もぷろれすしたい!」

 盛大に俺と父さんは吹いてしまった。父さんの横では肩を震わせて俯うつむく母さんの姿もある。


 ──ごめん父さん、母さん。あとはお任せします。

 俺はさじを投げることにした。元より父さんの失言が原因でこの事態を招いたのだ。最後は元凶が解決するのが筋である。だから今は他人事のようにコーヒーを一口含む父さんを睨むことにした。あっ、目を逸らすな。

 さらに母さんは顔を真っ赤にさせ、茹蛸ゆでだこみたいだ。恥ずかしさが極限に達して湯気が見えそうなレベル。そんな母さんの容姿からくる嗜虐心は男性としてのさがなのだろうか。母さんの所作が可愛いらしいなと感じてしまう。いかん。これじゃあマザコンみたいじゃないか。

「ズゥー…………」

 母さんを横目に父さんはコーヒーを飲みながら聞こえていないフリをしている。お通夜のように静寂が場を支配し、両親と俺がやり過ごそうと俯く。逆にその行動が美愛を困惑させてしまったようだ。

 全員の顔を見渡して可笑しなことを言ったのだろうかと心配そうにしている。

 非情に心を痛めそうになる。

 結局、話しを逸らす方向性で答えを見出す事にした。

「美愛。大人じゃないとプロレスは怪我しちゃうだろ? 今の美愛じゃ危ないって事。分かるかい?」

 美愛は疎外感を感じ、今にも泣きだしそうな表情だったが、理解してすぐに顔を明るくする。純粋無垢であるがゆえの彼女に救われた。

「それなら美愛も大きくなったらプロレスするね‼」

 若干、父さんがコーヒーをむせらせる。母さんは絶句している。

 もうこれ以上何も言わない。多分、困りあぐねて苦笑を浮かべてるだろうな俺。

 俺が何年後かの両親に情操じょうそう教育を丸投げした時、父さんが遅すぎる話題転換を始める。

「そ、そうだプロレスで思い出した! 最近は色んな格闘技が増えたよね! そうだよね? オカアサン?」

「ソ、ソウネ! オトウサン! 増えたわね! 特に最近はNBC《ニューマンバトルカップ》なんてものが流行っているわよね!」

 片言交じりが違和感を強調するような見え透いた話のすり替えを行う二人に俺は冷たい視線を送るがどうやら押し切るつもりのようだ。

 しかし、十一歳児は気にも留めずすぐ釣られた。好奇心がまさったようだ。

「NBCってなぁに?」

 美愛はNBCへの興味を口にする。

 俺は手元の皿に盛られたソーセージを口に運び、咀嚼そしゃくして応える。

「NBCはニューマン(Newニュー Millennium ミレニアム Humanヒューマン)が決められたフィールド内で能力を使って、相手を気絶もしくは戦闘不能にした方の勝ちって格闘技の事だよ」

 簡略してNBCについて説明してみた。

 細部まで説明するとNBCとは耐熱・耐衝撃スーツを着込んだ選手が格闘技に異能力を交えて行う総合格闘技だ。レギュレーションによって異能力がクラス分類され、同クラス内で対戦を行う。基本的には殺傷能力がクラス分類に影響し、同クラス内、序列一位をキープし続ければ、上位クラスへの挑戦権が与えられる。だがクラス分類されている時点で能力差は歴然としており、過去一度も上位クラスへ進出した選手はいない。

 食卓に並ぶトーストを手に取り、チラリと妹を見やるとキョトンとした表情が返ってくる。

「ニューマンって超能力が使える人たちだよね?」

「そうだよ」

 俺は同意した。実際、超能力と美愛は言ったが世間では色々な呼び方がなされている。異能力、魔法、怪異、等々。それは人智を超えた現象。

 総称してEA(ESPイーエスピー Abilityアビリティ)と呼ばれることが定着している。馬鹿馬鹿しくも妙ちくりんな現象は科学の力で解明されつつあるが、それでも難航している特異能力は多数存在し、未だ謎の多い力だ。

「いいなー、美愛も超能力使ってみたいなぁー、だってお空を飛んだり、透け透けで物がみえたりするんだよー? ほかにもいろんなことが出来るから人助けいっぱいできるじゃん!」

 美愛は天使のような笑顔を俺に向ける。うわ、尊い。だが俺はその笑顔に応えることが出来なかった。本当に世界が他者を思い遣る心遣いに溢れていれば平和で幸せだっただろう。

 しかしそうはならなかった。

 人智を超える力に人々は恐怖し、危惧したのだ。やがてその感情は伝播でんぱし、迫害という形へ変貌する。

 日常生活が脅かされるのではという根も葉もない思想が世界的に広まり、差別が始まった。

 世界ではこのことを旧人類の恐慌として “オールドショック”と呼んだ。世界は異能力を排除しようとしたのだ。その一つを除けば同じ人間であることに変わりないはずなのに。

「おにぃちゃん難しいこと考えてる?」

 そこで美愛に指摘され、俺は食べる手を止め、考えにふけっていることに気付く。

「ごめんごめん。お兄ちゃん入学式だから緊張してるのかも」

 はぐらかして作り笑いを浮かべると美愛は「そうなの?」と首を捻った。

 ──俺にそういった偏見はない。実際に話し、接していけば分かる。何も一般人と変わらない事に。

 現在は各国政府がインフラ整備や法整備を行ったことで多少は緩和し、安定している。この日本も同様だ。

「じゃあ美愛がおまじないしてあげる!」

 美愛は指切りげんまんのポーズでよく使われる小指を差し出す。どうやら同じポーズを真似して欲しいらしい。その指に俺は小指を絡める。

「痛い痛いの~、あいつに飛んでいけ!」

 美愛は頭上の虚空に向け、俺の小指ごと振りほどいた。

「これ何?」

「美愛が考えたおまじないだよ! これでいま同じクラスの男の子に痛い痛いの飛ばしたから!」

「その飛ばされた男の子が可哀そうだからダメだろ?」

 ついでに言うとどこも痛くないのだが。元気で活力みなぎる圧を放つ妹は唇を尖らせて抗議する。

「えー、でもその男の子がよく美愛に意地悪するから仕返しで飛ばしたんだよー」

「「その話し、詳しく教えてもらっても良いかな?」」

 俺と父さんの声がハモリ、妙な殺気を放ち始めていた。恐らく俺達の表情は笑っているが目は笑っていないだろう。

「もぉ~、二人ともふざけてないで早く朝食食べないと遅刻するわよ」

 母さんがそう告げ、俺はリビングの時計へ視線を向ける。そろそろ家を出ないとまずい時刻へ指しかかっていた。

「やべっ! 急がなきゃ!」

 一先ずこの話題は家に帰ってからゆっくり聞かせてもらおう。覚悟しろよ少年A(仮)。お前は必ず俺が突き止めてやる。気を取り直すと朝食を手短に済ませていく。

 そんなこんなで騒がしい朝食を終え、俺以外の三人は身支度を始める。

 父親は仕事。母親はパート。美愛は小学校の登校準備。それぞれが今日の準備をしていた。

 その中で身支度を家族で一番早く済ませている俺は玄関先で屈みながら靴を履いていた。まだ卸し立て新品特有の匂いがする制服のブレザーに身を包み立ち上がる。

 晴れて俺は今日から高校生になる。初日の入学式へ向かうため、片道一時間の電車通学。そのため家族の誰よりも早くに家を出なければならない。

「遠いな」

 独り愚痴ぐちる。決して自ら志望した高校ではない。本来の志望校は自宅の近辺だ。しかし選択できなかった。選択候補にすらさせてもらえなかった。入学できる条件の高校は県内で尚且つ自宅近辺にその場所しかなかったのだ。すべてはあの診断が──

「フミ君、忘れ物ないですね~、財布と定期はありますか? あとケータイ!」

 意識を戻される。ふと気付けば背後に母さんが立っていた。

「あぁ全部持ってる。あといい加減高校生になったんだから、フミ君じゃなくて史弥って呼んでよ」

「フミ君はフミ君でしょ! 変えません!」

 母さんは頬を少し膨らませる。そんな細かい所作を自然に行っているのであれば、まさに小悪魔。ワザとならアザといとはこの事だ。

「それと最近は物騒な事件が増えてるから気を付けてね。特にニューマン失踪事件が話題になってるし……」

「まさか俺が狙われる訳ないよ」

 危機感は感じないがどうやら母さんは心配のようだ。「心配なんですぅ!」とか言って年甲斐もなく頬を膨らませる。やめて可愛いから。まぁ、その顔に免じてお礼は言っておくか。

「分かったよ。一応ありがとう母さん」

 何やら「むぅー」とか母さんが不服そうにしていると美愛も見送りに奥から現れる。

「おにぃちゃん行ってらっしゃい! 新しい学校頑張ってね! あと帰ってきたら美愛のお勉強に付き合ってね……?」

 身長差も相まって上目遣いで訴えるその瞳に抗う術はない。何処ぞの母親から遺伝したであろう小悪魔的な素質に兄である俺は戦慄だ。妹の行く末に男として恐怖を覚えつつも、「わ、分かった」と了承して新学期を迎える美愛にも激励を返す事にした。

「美愛も新学期頑張れよ。お兄ちゃん応援しているからな」

「ありがとおにぃちゃんっ!」

 可愛らしい返事を聞き終え、二人に「行ってくる」と告げて玄関を出た。


 外は少し肌寒く、吐息を吐くと空中に白い煙が見える。

“須山”と掛けられた表札の門を通り抜けると道のコンクリートの亀裂からつぼみが芽生えかけている。少し春は先だと感じさせているようだった。これからは乗り換え含め片道一時間の電車通学の始まりだ。そして始まる高校生活三年間に気を引き締めていこうと胸に固く誓う。

「でもなんで俺がなんだ……?」

 ふと懐疑的な言葉がその虚空に吐かれてしまう。

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