8-3

 マトリは、身体中が一瞬で凍りつき、心臓さえも止まったように感じた。中腰のまま固まり、息すら止めた。暗くてわからないが、ラフィキも固まっている。


「こっちへ」


 ラフィキはマトリの手を取って、二人で扉付近の壁に張り付いた。


 ラフィキの手が微かに震えているのを感じる。


「マトリ……町長室、閉めたか?」


 ラフィキの声は聞き取れないほど小さかったが、唇の動きで理解できた。不安が大波のようにマトリの胸に押し寄せた。町長室がわずかでも開いていたら、ヒックスの持つランプの明かりが、廊下に漏れ出しているに違いない。


 足音は段々大きくなり、止まった。辺りは暗く、静まり返っていたが、壁一枚をへだててすぐそばに人がいるのをはっきり感じる。


 マトリは指一本動かさないよう気を付けた。心臓の鼓動すら聞かれてしまうように思えた。


 しかし、外に立つ人物が誰か分かった瞬間、マトリは思わず立ち上がり、壁に耳をぴったりと貼り付けた。


「ククククク……」


 ねちっこい、嫌味たらしい声が廊下から聞こえてくる。


「おやおや……コソ泥が入り込んだのかと思えば、泥棒すらまともにできない子ネズミでしたか。しかし、ここまで来たのは褒めてあげますよ」


 ジャドソンが、町長室に向かって話しているのが聞こえる。


「お前! なんでこんな時間に……!」


 ヒックスの声は、恐怖で引きつっていた。


「ふん、知れたこと。昨夜、フェリータ警部補が、『プロバドール』でお前たちと似た人物を見たと言ってましてねぇ。外で所用を済ませた後、今夜は庁舎の宿直室に泊まろうと思い立ったわけですよ。まさか本当に来るとは思いませんでしたけどねぇ」


 ジャドソンは猫なで声で言った。思いがけず手の中に飛び込んできた獲物を、どう調理しようか思案しているような言い方だった。明らかにこの状況を楽しんでいる。


 ヒックスが捕まってしまう。マトリは扉を開けようとしたが、ラフィキがマトリの腕をつかんだ。


「マトリ、今行けば全員捕まってしまう……」


 しかし、マトリには勝算があった。マトリは、プロックトンに言われたトレーニングを毎日欠かしていない。町の人がどう嘲ろうと、プロックトン式格闘術は本物だとマトリは思っていた。


「私はお父さんの弟子だもの」


 マトリが言った。


「ジャドソン一人なら……今なら私だって」


 少なくとも、骨と皮ばかりで、見るからに貧弱なジャドソンなんかに負ける気はしない。


「怖くないのか?」


 ラフィキが聞いた。月が雲に隠れ、辺りが真っ暗になった。ラフィキの表情は見えない。


「怖くないわ、行ける」


 強気で言い放ったが、本当はちょっと怖い。自分自身に向かって放った言葉だった。


 指先が震える。


 切り立った崖の淵に立った気分だ。下は海。飛び込んでも死ぬわけではない。実は、それほど高さがあるわけでもない。それなのに足がすくむ。


「ククク……逃げ場はないですよ。もうすぐ応援が来る……」


 ジャドソンの声が遠くなる。もうすぐ応援が来る……。


 マトリは覚悟を決めた。女は度胸だ。前に誰かが言っていた。


 暗闇の中、扉を開けた。ジャドソンは、ヒックスを町長室の奥へジリジリと追い詰めている最中だ。


 マトリは低い姿勢でジャドソンに向かって突進した。目をつむり、地面をより強く蹴った。暗闇が功を奏し、ジャドソンの反応は遅れた。


 ジャドソンは振り向き、驚いて目を見開いた。


「貴様!」


 ジャドソンは黄色い歯を剥き出し、手に持っていたランプをぶんと振り回してマトリを追い払おうとした。ランプが放つオレンジ色の閃光が、マトリの黒髪を掠めた。ヒックスの短い叫び声が聞こえる。


 マトリは低い姿勢のまま、ジャドソンの腹に向かって思い切り体当たりした。ジャドソンの体はくの字に折れ曲がり、軽々と吹っ飛んで、ヒックスにほど近い壁に激突した。手に持っていたランプも吹っ飛び、ソファーに着地して転がった。ソファーに油が漏れ出し、火がついた。


「ヒックス!」


 マトリとヒックスは出口に向かって遁走とんそうした。途中わざとジャドソンを踏みつけ、げふっというジャドソンの小さな叫び声が聞こえた。


「早く!」


 ラフィキが町長室の扉を大きく開けた。二人は廊下へ飛び出した。


「待つんだ! そこでおとなしくしてろ!」


 遠くから声が聞こえる。見ると、男が三人ほどこちらに駆けて来る。


「バカかよ! おとなしくなんかするか!」


 ヒックスが叫んだ。


 ラフィキはマトリの腕をつかみ、廊下を疾走した。その早いこと、マトリが必死で足を回転させてもとても追いつかない。マトリはのけぞって、首だけ置いていかれるかと思った。


「追え! 追うんだ! 絶対に逃すな!」


 ジャドソンの怒鳴り声が後ろから聞こえてきた。


「待て! ひとりは火を消すのを手伝え。残りは追え! 追いかけろ!」


 三人は暗い廊下を、ぶつかりながらもひたすら走った。月明かりを頼りに、階段を転がるように駆け下りた。


「ラフィキ——! 私よりも——ヒックスの方が——助けが必要だわ!」


 マトリはあえぎ喘ぎそう言った。ヒックスはマトリたちより遅れて階段を下りていたが、足を踏み外して階段を転がり落ちた。


「ヒックス!」


 マトリは走るのをやめて、ヒックスを助けに戻ろうとした。ヒックスは、マトリたちが既に通り過ぎた階段の踊り場に倒れて、動かない。


「一人捕まえたぞ!」


 男の興奮した声が上から降ってきた。マトリは階段を上ろうともがいた。


 その時、何かが左頬をかすめた。ラフィキだった。ラフィキは四段飛ばしで階段を上り、ヒックスの腕を階段を上りきらないうちにつかむと、思い切り引っ張った。追手の男はすれすれのところでヒックスのシャツをつかみ損ね、勢い余って踊り場の手すりに激突した。


 ラフィキはヒックスを脇に抱えると、飛ぶように階段を下りた。


「こっちよ!」


 マトリは先に階段を下りて、柱の影から二人を手招きした。昼間、スカビオサの会話を盗み聞きしたあの場所だ。


 柱の影に身を隠し、男たちが通り過ぎるのをやり過ごす。


「ごめん……大丈夫だから」


 ヒックスは頭をさすりながら、ボソボソと呟いた。


 三人は男たちの目を盗み、芝生を横切り庁舎の正門を目指した。しかし、男たちに見つかってしまった。マトリは振り向かずに走った。捕まってしまえばどうなるのか、考えたくもない。ひんやりと冷たい空気が、頬を撫でて後ろに流れていく。


「俺一人で走れるよ!」


 脇からそんな声がした。見ると、ラフィキがまたヒックスを抱えようとしたようだ。


 正門は重いかんぬきが下がっており、外に出ることはできない。マトリは守衛室の扉に手をかけたが、扉は開かなかった。焦るあまりにガチャガチャと鉄の取手を揺さぶったが、全く意味はなかった。


「ラルコ! まだ寝てるのか!? 開けてくれよ!」


 ヒックスが叫んだ。マトリたちは、ラルコから渡された鍵をジャドソンの部屋に置いてきてしまっていた。


 男たちの芝生を踏む音が段々大きくなる。焦りが恐怖に変わった。万事休すか。


 その時、守衛室の脇から暗闇に紛れて一人の男が出てきた。ラフィキは、二人を急いで自分の後ろに隠そうとした。しかしその男から戦意は感じられず、穏やかだ。


「お嬢さん、こちらにおいでなさい」


 男はマトリの手を取った。


「あなたは誰ですか?」


 マトリは緊張して、手を引っ込めようとしながら聞いた。この男が信用できるのか、まだわからない。しかし男は手を離さなかった。


「大丈夫、こっちに抜け道がありますよ」


 男はマトリの手を引いたまま、守衛室のすぐ後ろにある木の裏に滑り込んだ。三人は、男に導かれるまま塀に沿って走った。


「さあ、ここから出ましょう」


 男は止まって塀の一点を指差した。


 塀の一部が崩れており、細身の人がやっと通れそうな穴が空いてた。老朽化した石壁の塊が地面に転がっている。


「ここは前から壊れていましてね。近隣住民が行政に知らせてはいるのですが、直す気配がないんですよ。しかし今回はそのおかげで助かりましたね」


 庁舎の敷地から出た後、暗い街道をしばらく走った。


「さあ、ここまで来れば大丈夫でしょう」


 海岸にほど近い民家の近くで、男はようやく手を離した。雲が風に流れ、月が再び辺りを照らし出し、男の顔も照らした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る