第13章 再びフェツの大森林へ
13-1
翌朝、マトリは水を汲むため裏庭に出て、
鳥のさえずりが聞こえる。空気は澄んで冷たく、清々しい朝だった。マトリは、春の
マトリは目を閉じ、しばらくの間鳥のさえずりを聞いていた。美しい鳥の歌の中に、あの悲しみを帯びた長い鳴き声も混じっている。森林の開発は中止になったが、森は時々、ラフィキと共に感じたあの不気味なうねりを発した。
マトリは庭を出て、森に近づいた。また一声、悲しみの声が先ほどよりもはっきり響いてきた。
「もう大丈夫なのよ。この森はなくならない」
そう
その時だった。太い幹の後ろから大きな黒い人影が現れた。
「誰!?」
マトリは身構えた。
黒いマントを着た人物は、マトリの声に驚き立ち止まった。そしてゆっくりと振り向く。
「あなたは……フェリータ警部補!」
フェリータ警部補はカウリの樹の広場で見た時と違い、顔は隠していないしライフルも持っていない。
「何をしているんですか!? 森林開発が中止になっても、まだモアを狙っているんですか? ジャドソンはどこにいるんでいす? ジャドソンがまだモアを狙っているなら伝えて下さい。この森のモアには絶対手出しさせないって」
「なぜ、私がモアを探していたことを知っているんだ……?」
殺気立つマトリを見て、フェリータ警部補は驚きと困惑の入り混じった表情を浮かべた。
「マトリカリアさんでしたね。あなたにはすまないことをした……」
フェリータ警部補はマトリに正面から向き合うと、軽く頭を下げた。
「……!?」
マトリは根が生えたように突っ立ったまま、その場から動けなかった。フェリータ警部補が信用できるのかまだ判らない。
「私はジャドソンに協力していた。妻が病気で……金が欲しかった。モアを捕獲した分だけ謝礼金を上乗せすると言われ、手下と森へ入った。だが今はしていない、ジャドソンはいなくなった。今日は後始末をしに来ただけだ」
フェリータ警部補は太い眉毛の下にある小さな目で真っ直ぐマトリを見ている。その目に、欺きの色はない。マトリは少し警戒を緩めた。
「ジャドソンがモアを狙う目的は何ですか?」
「判らない。グレイビアードの件も、モアの件も、私はただ指示されただけだ。人はそれぞれ何かしらの複雑な事情を抱えているものだ。大抵の場合、深入りしない方がいい。ジャドソンは私のそういう考え方を気に入っていた」
フェリータ警部補は森の深部に続くけもの道をじっと見つめた。
「今はこの森から離れた方がいい。動物たちが殺気だっている」
「この森の異変を知ってるんですね! それはモアと関係のあるものなのですね? 教えて下さい」
「……なぜそこまで知っているのだ?」
「私はこの森に育てられたようなものです」
フェリータ警部補はじっとマトリを見つめたが、その表情が突然ふっと緩んだ。
「……いいだろう。あなたに見せよう」
フェリータ警部補は突然けもの道を歩き始めた。マトリも急いで後を追う。
その場所はすぐに着いた。フェリータ警部補は背の高い草をかき分けた。
「さあ、向こう側にいる……
マトリはフェリータ警部補が示す方を見た。
そこには、今まで見た中で一番美しい生き物が、二本足ですっくと立ち、木の上の方にある実をついばんでいた。木漏れ日が
「あれは……子どものモア?」
体高はマトリより少し低い程度だ。幼い雛時代の羽毛の名残が、まだ首や背中に少し残っている。
モアが動くと、鈍い金属音も一緒に聞こえてきた。足を見ると、鉄の
「子どものモアを捕獲したんですか! それで親を誘き出そうとしていたんですね! なんということを」
「そうだ……。しかし計画は失敗した。成鳥のモアは一羽も捕獲できていない」
フェリータ警部補はそう言うと、ポケットから小さな吹き矢を取り出した。
「麻酔薬で眠らせてから巣へ返しておく。君は来ない方がいい。危険だ」
「そんな! 吹き矢を子どものモアに当てるなんてダメです」
「しかし子どもとはいえモアの力は強い。あの鉤爪で攻撃されれば致命傷は避けられない」
「私に任せて下さい」
マトリは背の高い草地を出て、モアに近づく。モアはマトリに気が付くと、たちまち殺気立った。
羽毛を逆立て、鋭い鉤爪で地面を掘り返す。喉から雷のような低音の唸り声を発し、首を低く下げ、臨戦対戦に入った。
「大丈夫、あなたを傷つけたりはしない」
マトリはゆっくりと、モアに向かって一歩踏み出す。試してみたかった。自分の意思がモアに伝わるのかを。
「私を信じて、さあ、あいさつしましょう」
マトリはモアに向かって右手を差し出した。
モアは甲高い叫び声を上げた。鉤爪がピカリと光る。次の瞬間、モアの鉤爪がマトリの頬ギリギリを掠めた。
「……っ! 離れるんだ!」
フェリータ警部補がマトリの前に出ようとしてきたが、マトリはどうにかそれを制す。
「待って下さい! もう少しなんです。もう少しで通じそうな気がするの——」
モアの恐れと
「大丈夫だから」
マトリは無意識に、胸にかかったモアナイトを握りしめた。
一秒が一時間に感じた。
少し落ち着きを取り戻したモアは、目を逸らさず、マトリのことをじっと見つめている。
——私はあなたの味方。私はあなたと友達になりたい——
マトリは心の中で何度も何度も繰り返した。そしてもう一度手を差し出す。
モアは少し唸ったが、動きはしなかった。マトリは手を差し出したまま、目をつむった。
しばらくして、柔らかいものが手の平をくすぐった。薄く目を開けると、モアが目と鼻の先にいた。
マトリはモアの首の付け根にそっと手を置く。モアは優しく鳴き、マトリの頬に美しい
「……やった!」
マトリはモアの首を撫でた。声は聞こえなかったが、確かな手応えはあった。モアからは恐れも慄きの感情も消えていた。
モアは、今度はマトリの手を戯れるように甘噛みした。目には子どもらしい、無邪気な光が宿っている。
「信じられない……一体どうやったんだ」
フェリータ警部補は雷に打たれたような顔でマトリを見ている。
モアは、今度はマトリの脇の下にぐいぐい頭を入れてくる。
「フェリータ警部補、よければ、この子は私に任せてもらえませんか? どこからこの子を連れてきたんです?」
「……森の中心部で、カウリの樹が密集している場所のすぐ近くだ。だがしかし……」
「あ! 大丈夫です。道案内役が来てくれたわ」
背の高い草の間から、メーティがひょっこり姿を現した。モアとメーティはくちばしを突き合わせてあいさつする。
「大丈夫ですよ。フェリータ警部補がモアを返しに行った方が危険だと思います」
フェリータ警部補はしばらくマトリを見つめていたが、モアの足についた鎖を外しにかかった。
「礼を言う」
フェリータ警部補は鎖を巻き取りながら言った。
「私は本来の勤務先に戻る。もう会うこともないだろう。……ジャドソンには気を付けろ。ジャドソンの本当の目的はパーカー町長も知らない。侮れない男だ」
フェリータ警部補はマトリに向かって小さく頷いて見せると、その場から去った。
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