12-2

「ヒックス! ラフィキ! いつからそこに!?」


「いやほとんど最初からいたけど。それで、出発はいつ? 俺たちだって準備があるし」


「そ、それはなるべく早く出発しようと……ん? ちょっと待って」


 マトリは嫌な予感がして二人をまじまじと見つめた。二人の目には一切の迷いがなく、悪戯いたずらっ子のように爛々と光っている。


「俺たちの準備って……何を準備する気なの?」


「俺たちも一緒に行くってことさ、もちろん。そんな面白そうなこと、見逃せないだろ?」


「えっ……ええ〜〜〜!!!!」


 マトリは大仰天して立ち上がり、わなわな震えながら二人を指さした。


「一緒に来るって、ヒックス、パントフィ先生の家で勉強するのはどうなったの? 旅をしたらお金なくなっちゃうのよ、大学に行きたいんじゃなかったの!?」


「ちょっとくらい回り道したっていいだろ。俺も外の世界を見てみたかったし」


「そんなこと言って……それにラフィキは仕事はどうするの? 山小屋は?」


「独りぼっちハンターだからいつ旅立っても大丈夫だってさ」


 なぜかヒックスが答えたが、マトリに睨まれて言葉が知りすぼみになった。


 無表情なラフィキの顔に、ほんの少しだけ赤みが差した。


「……マトリは僕がいたら嫌なのか?」


「いや、嫌とかそういう問題じゃ……お父さん、何とか言ってよ」


 マトリはプロックトンに助けを求めたが、プロックトンはホッホッホと笑うだけだった。


「良いではないか、ラフィキが行くならわしも安心というものよ」


「俺も行くんだけど、ねえ、聞いてた? 俺も行った方が安心でしょ?」


 プロックトンは満足そうに手を擦り合わせた。


「そうかついに秘密が明かされて行くか。のう、わしはマトリをモアから受け取った時から、いずれはこの日が来ると思うておった。

 そして実を言うとな……マトリが家を出る決断をするのが、わしは怖くもあったのじゃ。わしがマトリと離れたくないあまりに、引き止めるようなことをしてしまうのではないかと思ってな……。

 わしの老いぼれが進みすぎる前に、マトリの進路を真剣に考えねばと思っておったのじゃ」


「お父さん……」


「そんな折、あのスミス家の話がわしに舞い込んだ。そういうわけじゃ。

 マトリ、そなたは実の両親を知らぬが、マトリの親御さんはマトリのことを愛しておったに違いない。わしには確信がある。どれ、あれがまだ残っていたかも知れぬ」


 プロックトンはそう言って立ち上がると、二階へ行き何やら探し物を始めた。台所に戻った時に手に握られていたのは、黄ばんだ白い小さな布切れだった。プロックトンは不器用な手付きで、テーブルの上にそれを広げた。


「お父さん! これってもしかして……私が赤ちゃんの時に着てた服なの?」


 それは小さなベビー用の衣類だった。こんなに小さかったのかと、マトリは驚きの思いでそれをつまみ上げた。


「これはマトリがうちに来た時に着ていたものじゃぞ! わしは今でもはっきり覚えておる。マトリよ、服の後ろ側をご覧」


 小さな白い服をめくると、首のあたりに緑色の糸で刺繍ししゅうが施されている。葉や蔓の刺繍と共に、名前が縫い込まれていた。



——マトリカリア——



「マトリカリアとは花の名前じゃ。小さな白い、美しい花じゃ。そなたたち、マトリカリアの花言葉を知っておるかの?」


 マトリは首を横に振った。ヒックスもラフィキも知らないようだ。


「『集う喜び』じゃ。マトリよ、そなたの親御さんは、そなたの存在に喜びを見出していたに違いない。この小さな服に、そなたの母たる人物が喜びが集まるよう願いを込めてこの刺繍を刻んだに違いないのじゃ」


 マトリはこの奇跡のような服の刺繍を、指先でそっと撫でた。生まれて初めて、自分の実の親の存在を感じた瞬間だった。自分の母かもしれない人の手が、一度はこの小さな服の上を滑り、この刺繍を刻んだのだ。


「すごいぞ、あの石とは別に手がかりが一つ増えたってわけだ。やっぱこういう謎解きは俺がついててあげないとね〜。マトリだと時間かかっちゃうだろ?」


 マトリはムッとしてヒックスと少し距離を置いた。せっかく遠い日に思いを馳せていたというのに、いつだってヒックスが台無しにするのだ。


「ヒックスが来たらお父さん一人になっちゃうじゃない」


「大丈夫だって、だってスカビオサがきっと毎日来るだろ?」


「わしのことは心配無用じゃぞ、マトリよ。わしは元々一人でここに住む予定じゃった。そなたたちに巡り合えたおかげで、思いがけず賑やかになったものよ。ところで、マトリの旅費を工面せねばならぬのう。今回の事件の件で、ハリス副町長がわしに見舞金を少しばかり支払うと言うておったな。それとわしのバイト代を合わせれば……」


 プロックトンはこう言ってから、しまったという顔で慌てて口をつぐんだが、マトリたちは聞き逃さなかった。


「バイト? お父さんどこにバイトに行ってるの?」


「やっぱ隠れて働いてたんだな! 修行に行くとか言っちゃって、ほんとは別の場所に行ってるんだろ! いっつも不思議だったんだよ。おやじがどうやって収入を得てるのかが」


「むむむ……」


 プロックトンの視線が空中をオロオロとさまよったが、ついに観念したようだ。


「えーなんじゃ、その……つまり……わしはチュロスフォード市の研究機関に度々呼んでもらえることがあってな。そこで細菌の研究を手伝っておる。わしは格闘家になる前は感染症治療を研究する医学研究者じゃった。

 わしの若い頃は感染症に罹患するとそのまま亡くなるケースが多かったのじゃ。内戦で負傷した者や犬に噛まれた者……あの時わしは、とある理由からどうしても感染を食い止める有効な治療薬を開発したかった。それでわしは、悪い菌を殺す特効薬の開発に力を注いでおったのじゃ。

 ピニシリンを発見したのはわしじゃ。それでチュロスフォード市には色々と知り合いが多くての、スミス家もそうなんじゃが……」


 マトリたち三人は口をあんぐり開けてしばし沈黙した。


「お、お、お父さん、医学研究者だったの? 修行してるって言って細菌の研究って……もしかして、フラスコでコーヒーを入れてるのって、お父さんが研究者だからだったの!? それに、あんなにたくさん難しい本を持ってるのね!」


 むしろなんで今まで気がつかなかったのかが不思議だった。思い当たる節はたくさんあったではないか。


「おやじって……おやじって……ええーーー! なんだよそれー! てか、なんで格闘家なんだよ! そのまま研究者でいてくれよ。そしたらあんな不毛な修行をせずに済んだのに!」


「何を言う! あれしきの修行で弱音を吐くなど、他の何をも為すことはできぬぞ! わしはクークアン地区で出会った拳法に惚れ込んだのじゃ。その時にわしは研究者人生に幕を下ろし、プロックトン式格闘術の開祖になると決めたのじゃ! 決めたからには脇目も振らずに、それに突き進むのみじゃ! 前進あるのみ!」


「脇目も振らずって、研究所に呼ばれてバイトに行ってるじゃんかよ! 脇道に逸れまくりじゃんか!」


 プロックトンは赤くなり、床に着かない足を居心地悪そうにゴニョゴニョ動かした。


「そ、それはじゃな、生活するにはどうしても先立つものが……残念ながらこの町の住人にはわしの格闘術が肌に合わんようじゃし……」


 マトリは申し訳なさに胸がいっぱいになった。プロックトンはパントフィ先生みたいに器用な人物ではない。目標に向かって、状況が悪くとも猪突猛進するタイプだ。研究者を引退した後は、細菌の研究には関わらずに、自分の考え出した格闘術を極めるつもりだったに違いない。


 つまり、プロックトンはマトリたちがいたから、研究者を完全に引退できずにいたのだ。


 マトリはプロックトンの手を熱意を込めて握り直した。


「お父さん! 私なるべく早く帰ってくるからね。それで早く働いて、お父さんこの道場に専念できるように頑張るから。だからお父さん、少しだけ待っててね」


「わしのことは気にするでない、マトリよ、今を思い切り楽しむのじゃ! やりたいことを全部やるのじゃ!」


「そうだよマトリ、おやじがこれ以上格闘技に専念なんかしちまったら、逆に俺はこの家に帰ってこれないかも。兼業格闘家でちょうどいいんだって」


 プロックトンはいよいよ真っ赤になり、ふるふると震え出した。


「師匠……行きますか」


 ラフィキがヒックスをがっちり捕まえた。


「……『風を感じる修行』はどうですか? 今日は良い風が吹いてます」


「ぬぬぬぬ……ヒックスよ! その小根を叩き直してくれる!」


 プロックトンたちは嫌がるヒックスを引きずって、裏庭からフェツの大森林に消えていった。

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