第8章 庁舎潜入

8-1

 森閑しんかんとした暗闇の中に三人はいた。


 肌寒い夜だった。朧月おぼろづきが、庁舎の芝生に淡い銀色の光を投げかけている。


 港町は寝静まっていた。窓から漏れる明かりはひとつ、またひとつと消えていき、ついに町を照らす明かりはオレンジ色に輝く外灯と、やわい月光のみとなった。


「ラフィキ、大丈夫?」


 暗闇の中で、マトリはフードを被ったラフィキに問いかけた。表情は見えないが、「プロバドール」にいた時のような硬い空気はまとっていないようだ。


「ああ……夜は人が少ない」


 ラフィキは石の壁にもたれて、落ち着いた声で言った。


 マトリたちは庁舎にほど近い塀の外側にいる。


「真夜中まであとどれくらいだ?」


 ヒックスが辺りを伺いながら聞いた。手には液体がたっぷり入った瓶を持っている。


「あと三十分よ」


 マトリが答えた。


「よし、行くか」


 ヒックスを先頭に、マトリたちは移動した。三人は庁舎の石の塀を回り込み、正門の外側に立った。正門は当然ながら、硬く閉ざされている。


 門から向かって左側の石壁に、レンガ造りで円柱の小屋がくっついている。小屋の窓から、ぼんやりとしたオレンジ色の光が見えた。


「守衛室だ」


 ヒックスが言った。


「よし、準備はいいか。行くぞ」


 三人はなるべく音を立てずに、守衛室ににじり寄った。マトリはゴクリと唾を飲み込んだ。



 数時間前のことである。


「ヒックス、そう言えば今日はパントフィ先生以外に誰と会う予定だったの? 昨日、『いるかもしれないけど期待しないで』って言ってたわよね?」


 マトリはヒックスに問うた。


「ああ、あれは魚屋のペスカードに会いたかったんだよ」


「ペスカードさんに?」


 マトリは驚いた。ヒックスとペスカードが話しているところなんて、今まで一度も見たことがない。


「近道で使う路地を通る時、たまにペスカードを見かけてさ。路地裏でよく誰かとトランプしてるんだよ。それで俺も何回か混ざったことがあって」


「ヒックスが?」


「そうさ。もちろん俺は金は賭けてないぜ……ほんの小銭程度以外はな。そのトランプ仲間の一人が、庁舎の職員だったのを思い出したんだ」


「まさか」


 といいつつ、マトリはつい口元が緩んでしまった。役人だって人間だ。


「役人と言っても警備員だ。昼間から酒を飲んで、夜の守衛室で暇してるだけのおっさんさ。ならず者の友達はならず者。俺がもし町長なら、あいつを雇ってる金でもっと堅実なことをするけどね。まあこちらはそのおかげで抜け穴を見つけられたんだけど」


「今日のペスカードさん、元気そうだった? ……その、この間会ったときは体調が悪そうだったから」


 マトリはサニラの店へ行った時のペスカードの様子を話して聞かせた。


「言われてみれば……確かに目ん玉飛び出しそうな顔してたな」


 ヒックスは何か考えているような顔だ。


「……まあ元から変わったやつだったし」


 その後、三人は夜の港町に繰り出したのだった。



「いいか、ここは俺に任せとけ。守衛とちょっとお喋りする必要があるからな。口を挟みたくなっても我慢してくれよ」


 マトリとラフィキは黙ってうなずいた。


 ヒックスは守衛室のガラス窓をコンコンと叩いた。何かが動く気配がし、ガラス窓がガラガラっと音を立てて開く。


「よお、ラルコ。調子はどうだ?」


 ヒックスがラルコと呼ばれた男に感じよく言った。


「ヒックスじゃねえか」


 男は窓から顔を突き出した。ずんぐりした顔立ちに小さな目、汚らしい黒いざんばら髪が鬱陶うっとうしく顔にかかっている。月明かりに照らされたその姿は、なかなかにおぞましかった。


「なんでえ、お前、こんな夜中に」


「悪いラルコ、この守衛室に一晩泊めてくれねえか?」


「はぁ? なんで俺がお前をここに泊めなきゃなんねえんだよ。帰れ小僧」


 ラルコは窓を閉めようとしたが、ヒックスが急いで窓に手をかけた。


「そう言うなって、昼間は勝たせてやっただろ? なあ、俺たち家を追い出されて、行くところがないんだよ。せめて朝までいさせてくれよ。陽が登ったら出ていくからさ」


「おめえ、追い出されるのは明日じゃなかったのか?」


「役人の気が変わったらしいんだよ。家は今日差し押さえられちまった。なあ、頼むよ。タダとは言わないぜ。ほら……」


 ヒックスは瓶を掲げて見せた。中に入った液体が揺れ、月明かりを受けてチラチラとした光を放った。ラルコは小さな目を意地汚く細めた。


「俺は今勤務中だぜ」


「ラルコには水と変わりないくらいのものさ」


 ヒックスはニヤッとして見せた。


「オーク樽熟成ウイスキー五年ものだ。お前好みの香りだぜ」


「……ふん」


 ラルコは窓から首を引っ込めた。そして次の瞬間、鉄製の扉の鍵がカチャリと回る音がした。


「今晩だけだぞ」


 ヒックスはマトリとラフィキに向かって手招きした。三人は狭い守衛室にぎゅうぎゅうと押し入った。


 守衛室は、マトリが今まで見た部屋の中で一番汚らしかった。書類は散らかり放題で、壁はタバコのヤニで茶色くなっている。


「おいおい、三人もいるのかよ」


 ラルコは聞いてないというように、ヒックスに向かって口を尖らせた。


「頼むよ、俺とあの道場で一緒に住んでたんだ。明日の朝までだから」


 ラルコは承服しかねるという表情ではあったが、何も言わなかった。


 ヒックスは手近にあったマグを引き寄せると、ウイスキーをなみなみと注いだ。すえた臭いだった守衛室に、蠱惑的こわくてきなウイスキーの香りが広がる。ラルコはわかりやすく頬の筋肉を緩ませた。


 マトリは、仮眠用の簡易ベットに転がっていたタバコの吸殻を払い除けてから、神経を尖らせてそこに座った。


 ヒックスはラルコの近くにあったデクス用の椅子に座ると、いかにもくつろいだ風を装った。そしてお尻のポケットから新聞を取り出すと、ラルコから新聞が見えるように気をつけながら読み出した。ラルコは相当興味がありそうな顔でチラチラと新聞を見ている。


 マトリは首を伸ばして、薄暗い守衛室の小さな明かりを頼りに新聞の一面を読んだ。『レーシング・タイムズ』と書いてある。競馬新聞のようだ。ラルコは新聞が見たくて、ずんぐりした体をそわそわさせた。


白百合賞しらゆりしょうか?」


 ラルコがついに口を開いた。


「ああ」


 ヒックスが何気なく答える。そしてラルコに体を近づけ、『レーシング・タイムズ』が見えるようにしてやった。


「俺の予想は③のラフクエストを軸に⑤-③、③-⑦だ」


 ラルコがうきうきした様子で言った。そしてウイスキーを飲んだ。


「お前は?」


「俺は④のエルハーブだ」


「単勝か?」


「ああ。俺は単勝馬券で穴場を狙うんだ。オッズの歪みを狙い撃て!」


「ふん、子どもだな。それにエルハーブは四コーナーで外に振られる癖があるぜ。あいつはだめだ」


「でも鞍上はベテランのジョンソンだ。ムチの持ち替えは得意なはずだ——」


 ヒックスとラルコは熱く競馬談議を始めた。その間も、ヒックスはラルコのマグにウイスキーを継ぎ足すのを忘れなかった。その手際の良さにマトリは舌を巻いた。ラフィキは微動だにせず簡易ベットに座っている。


 瓶の液体はみるみる減っていき、競馬の話がひと段落する頃には、ラルコはすっかりできあがっていた。ラルコの頭が危なかしくかしいだ。手に持っていたマグが落ちそうになり、残ったウイスキーを服にひっかけた。


「うぃー、いけねえ。見回りせにゃいかんのに……」


 ラルコの厚ぼったいまぶたは、今にも閉じてしまいそうだ。


「俺が代わりにしてきてやるよ。そこのノートに記録するだけだろ?」


 ヒックスが何気ない調子で言った。


「頼む」


 ラルコは鉄の輪に鍵がびっしりついている鍵束をヒックスに放り投げた。そして簡易ベットに近づいて来たので、マトリは大慌てで場所を開けた。


 ラルコは簡易ベットに倒れ込むと、大いびきをかき始めた。

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