第5章 プロバドール

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 日がすっかり暮れた頃、三人は『プロバドール』という海辺のパブにいた。ジャドソンたちの会話を盗み聞きするためだ。


 こんな目的でなければこの場所をもっと楽しめたはずなのにとマトリは思った。テラス席からは海に浮かぶ豪華な大型客船が見える。店は客でごった返しており、1メートル歩くのすら難儀なんぎした。皆色とりどりの飲み物を手に持ち、楽しげな笑い声が聞こえてくる。


「だから私一人でやるって言ったじゃない」


 マトリは仏頂面を下げたままのヒックスに向かって言った。


「マトリってばバカなのか? マトリみたいな子どもが一人でこんなところにいたら、怪し過ぎるだろ!」


 ヒックスはこう言ったが、今の見た目ならヒックスのほうがよほど子どもに見えるとマトリは思った。


 マトリはスカートの丈が足首まである、特別な時にしか着ないおとなの服を着ているし、靴だっていつも履いてる安物ではなく、しっかりした革製のを履いて来た。


 確かにボンネットを目深にかぶって顔を隠しているのは怪しいかもしれないが、婦人であれば持っていてもおかしくないものだ。

 

 一方ヒックスといえば、いつものサスペンダー姿に、季節外れの厚手の冬用コートを着ているだけである。農家のおじさんが被るようなつばの広い帽子を身につけてはいたが、それとてヒックスの子どもっぽさを隠しきれてはいなかった。


「ねえ、ラフィキも疲れてるなら帰っても大丈夫よ。ここはラフィキには向かないわよ……」


 マトリはラフィキに言った。ラフィキは緑色の上着のフードで頭を隠している。心地よいそよ風が吹き抜けるパブのテラス席に座っているにもかかわらず、ラフィキの顔は青白く、なんなら今すぐ吐きたいというような表情をしている。


「僕が一番年上なんだ……」


 ラフィキは自分に言い聞かせるようにそう言うと、目をギュッと閉じ、唇を固く結んだ。ラフィキの手で触れられそうなほどの緊張がマトリにも伝わってきて、マトリまで体がコチコチに固くなった気がした。


「フェリータ警部補はジャドソンが何時にここに来るって言ってたっけ?」


 ヒックスは琥珀色こはくいろに輝くビールをグビッと飲みながら聞いてきた。


「八時よ。あと十五分くらいかしら。ねえ、うまいこと声が拾える席に移動できると思う? 私たちの格好もそうだけど、わざとらしく席を移動する方がよっぽど怪しく見えないかしら」


 マトリは店の奥の様子をうかがおうと首を伸ばしたり、パブの出入り口を見張ったりした。入り口がよく見える席を選んで座っていた。


「なあマトリ、本当にやるのかよ。もし見つかったりしたら、俺たち本当に万事休すになるぜ。ジャドソンはきっと何かの罪名をでっち上げて、俺たちを捕まえにかかるだろうな。ラフィキ、飲まないなら俺がもらっていい?」


 ヒックスはラフィキの泡が完全に消えたビールと、空になった自分のジョッキを交換した。


「でもこれが唯一の手がかりなのよ」


 マトリが噛みつくように言った。


「ヒックス! 何事もやってみることだって、お父さんがいつも言ってるじゃない! やってみなきゃ分からないでしょ。私は絶対にお父さんを解放してあげたいし、あの道場でまたヒックスと三人で一緒に暮らしたいの。ねえ、ヒックス、私わかったの」


 マトリは身を乗り出し、また家族で一緒に暮らしたいという切なる願いを、テレパシーで伝えるかの如く念じながらヒックスを見つめた。ヒックスはゲップをする一歩手前のような変な表情になった。


「今まで将来の夢とか、やりたいこととか、そういうことを質問されても漠然としてた。ヒックスみたいに将来の夢があるわけでもないし、結婚はまだ先でいいかなって……。でもお父さんがいなくなって思ったの。私の最高の幸せは、あの道場でお父さんと暮らすことなのよ。私また三人で暮らしたい。絶対にお父さんとあの道場を失いたくないの!」


「わかった、わかったよ、付き合うって。そんなにカッカするなって」


 ヒックスはまいったと言わんばかり天を仰いだ。明るい夜で、美しい星々が笑うようにキラキラとまたたいている。


 その時、マトリは体に電流が流れたかのように肌がピリピリした。混み合ったパブの入り口からジャドソンが姿を現したのだ。闇に溶け込むかのような黒いマントを身につけている。


 でっぷりとした大柄な男がジャドソンの後に続いた。突き出たお腹に大きな耳たぶ、髪の毛は頭の周りにふわふわと残っているだけであり、頭頂部がパブの明かりできらりと輝いた。


 二人は人混みをかき分けて店の奥へと入っていく。


「行くわよ」


 マトリはほとんど飲んでいないチェリーウォーターのグラスを握りしめると、二人の後を慎重に追った。真っ青な顔のラフィキが続き、しんがりにヒックスが続く。


 ジャドソンたちは店の一番奥にある席に座った。「予約席」と書かれた木の札がテーブルに立ててある。


 マトリたち三人は、ジャドソンたちのテーブルにほど近いカウンター席を陣取ることに成功した。辺りは薄暗く盗み聞きをするには売ってつけだが、ガヤガヤと騒々しいことだけが心配だ。


 飲み物を乗せた盆を持った店員がカウンターを出ていくのが、マトリの目の端にチラリと写った。


「ゼーランドスタイル・レッドエールです」


 背中から店員の声が聞こえてくる。


「ほい、私だ」


 誰かが飲み物を受け取った。


「それから、カップベリー・ウイスキーのロックです」


「ククク……」


 ジャドソンの声だ。マトリは騒々しい店内の中で、ジャドソンの声を拾うことに全神経を集中させた。

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