グラン・マールに身を投じて
森陰五十鈴
海賊に買われた令嬢の選択
売られた黒真珠
薄汚れた板で組み合わさった舞台。その中心に、上から光が降り注ぐ。周りは霞んだ薄暗闇。あの光のもとにはどうしても行きたくなかったのだが、首輪に繋がった鎖を引っ張られてしまえば、とても抗うことができない。
汚れた身体に白いぼろ布を被っただけの姿が、冷たい光に曝される。
途端、紫煙の向こうからねっとりとした視線が、あちこちから身体に絡み付いた。祭りで着けるようなきらびやかなマスクの向こうで、下卑た笑みが浮かんでいるのを感じる。
艶やかな黒い髪。黒真珠の瞳。人形のように整った顔。張りのある肌。発達した胸。綺麗な曲線を描いた腰。しなやかな脚。まるで質量を持っているかのように、視線が身体中を這っていくのを感じて、小さく身震いした。
「さて、次の商品は、ある貴族のご令嬢。哀れ、誘拐されたのにも関わらず、誰にも助けてもらえずに、このようなところまで来てしまいました。この哀れなお嬢さんをお慰めする紳士・淑女は、いったいどなたでしょう? それでは、百から始めます」
近くにいたら唾を吐きかけたくなるほどに醜悪な司会の号令のもと、競りが始まった。
「百五十!」
「二百!」
次から次へと挙げられる数字を聴いて、彼女は身を震わせた。背を這うのは、あの中の誰かの慰みものになる恐怖。世間知らずに育てられては来たが、誘拐されてからの数週間で見てきた光景から、競り落とされたらどうなってしまうか想像するのは容易かった。
良いように扱われて、無惨に死んでいくのか。
――そんなの、絶対にごめんだ。
ぎ、と買い手たちを睨み付ける。自分を買うのは誰か。どんな人物か。どんな隙があるか。それを見極めて――逃げ出してやる。
「六百!」
脂肪でぶくぶくの手が札を持ち上げたところで、周囲は静まり返った。別の札は上がらない。
溜めに溜め、司会が決定を鳴らすベルに手を伸ばしたそのとき。
「……千」
低く、静かに声が落とされる。紫煙に霞んだ闇が動きを止めた。示し合わせた訳でもないのに、皆がその声に注目する。
競り場の入り口に構えられた男のシルエット。ただ札を持って立っているだけの姿に、その場にいた者は全員圧倒された。
「千だ。買えるのか?」
再び発せられた男の声で、司会は我に返った。
「千百。千百の方いらっしゃいませんか!?」
六百の札を持ち上げた男も、悔しさに身を震わせていたが、これ以上手を挙げることはしなかった。
「では、四十番の紳士が落札となります!」
司会の声と同時に、からんからん、と鳴った金属のベルが耳に付く。首輪の鎖が引っ張られた。足を縺れさせながら、転ばぬようにそれに従い、憧憬と悔しさの視線の中を進んでいった。おぞましさを一身に感じながらも、気丈に歩を進め、買い手の男の前に立つ。
思ったよりも若い男だった。詳しい年齢は分からないが、三十前後といったところか。三角帽子から、太く波打った黒髪が溢れ落ちている。古びた革のコート、白く洗われているがくたくたの麻のシャツ。厚手の生地のパンツを穿いた腰には、ベルトで吊るされたカットラスとピストル。
磯の香りが微かに鼻を掠めた。
鎖が男に引き渡される。それを軽く引っ張られ、促されるままに会場を後にした。
久しぶりに見た日光に、目の前が白く焼かれた。目を眇めてようやく見えたのは、砂埃で煤けた木造の街並みだった。
男が振り返った。
「俺から逃げられるか?」
投げ掛けられた声に、心臓が止まりかけた。長い前髪の間から、暗い色の瞳が見下ろしてくる。帽子で日を避けてもなおぎらぎらと輝く眼差しに、彼女の喉は干上がっていく。
顔色を青くし、身を震わせながら、彼女はその視線から逃げた。剥き出しの地面に視線を落とし、それから周囲に目を向けて、最後に空に向く。
つかの間、首輪の重みを忘れた。
風を感じる。光を感じる。壁も檻も、遮るものはなにもない。世界が広くなっている。
まだ鎖に繋がれているけれど、自由になれた気がした。
――そして本当に、自由になれる気がした。
もう一度男を見返したときには、もう彼女から怯えの色はなくなっていた。強い意思の宿った瞳で挑むように男の目を睨み上げる。
逃げてやる。そう決めた。今が無理なら、明日にでも。明日が無理なら、明後日。とにかくいつかこの男の前から逃げ出して、自由になってやる。
男が微かに口角を上げた。
「良い目をしている」
そして、己のコートを脱ぐと、心許ない格好をした彼女の肩に掛けた。それから手を取って競売場の前から下がらせ、カットラスを抜き、店に向けて突きつける。
いつの間にか、周囲に人が集まっていた。肌を日に焼き、身体のあらゆるところに傷をつけた、磯の香り漂う荒くれ者たちが。
「――襲え」
淡々と告げられた号令に、剣を掲げ、銃を撃ち鳴らして、荒くれ者たちが競売場へ突進していく。そして始まった阿鼻叫喚。つい今まで自分を虐げてきた競売場が、みるみるうちに蹂躙されていく。
その光景を、彼女は自分を買った男に肩を抱かれたまま、呆然と見つめていた。
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