第71話 アンセルと勇者

 


 時は少し戻るが、アンセルが世界の真実を知り、再び目を開けたのは、勇者達が大樹の下に辿り着く数日前だった。


 その顔には、絶望の色が浮かんでいた。

 アンセルは真実の残酷さに打ちのめされていた。何もかもが恐ろしくなり、あらゆる悲惨な死を見たことで震え上がっていた。

 他者に対して簡単に向けられる人間の攻撃性と圧倒的な暴力性に愕然としていた。

 城の一室で繰り広げられている残酷な光景を既に見ていたが、それは特殊な人間の行為ではなかった。あの室は世界の縮図だった。


 人間は残酷で薄汚く、人間の多数は死んでもいい奴等だ

 と、アンセルは思った。


 自分達と対極にいる者達の心の闇に触れ、アンセルの心はひどく混乱して狂ったように大声を上げた。


 だからこそ人間はここまで繁栄できたのだろうか?

 あんな腐った奴等は滅ぼされて当然だ

 腐肉塊は臭くて生きてる価値すらもない

 と、アンセルは思わずにはいられなかった。


 白く美しいダンジョンで生きてきたアンセルは、誰もが誰かを傷つける事に激しい抵抗感を持っていると思っていた。

 それは間違いだった。

 人間は簡単に誰かを傷つけられると知った。

 すると生々しい光景を自身の体験のように錯覚し始め、異常なまでの精神的なストレスを感じ始めた。

 発作のようなものが起こり、知覚が歪んで視野は狭くなり、身動きすらできない狭くて真っ黒な穴の中にいるような気になった。

 その穴は深く、さらに彼を痛めつけるように土が降り注いだ。出口を完全に塞ぎ、歪んだ感情によって彼を支配しようとした。


 だが、アンセルは勇者の顔を思い出した。


(死んでもいい人間の中にも、心の美しい者達がまだいる。

 それすらも灰にかえるのか?

 俺は人間を殺すのか?

 殺すのではなく、違うやり方で分からせてやるのではなかったのか?)

 アンセルは闇に引きずり込もうとする力に必死で抗った。


 その目で見て聞いた勇者の望みに偽りがあるとは、アンセルには思えなかった。水晶玉に映った決意に燃えるアーロンの瞳は、信じるに値すると思った。

 希望が存在するのならば,まだ消し去ってはいけないと思い、アンセルは自分の力で暗闇から這い上がり出した。


(俺は人間を殺さない。

 死んだ者達を生き返らせることはできない。

 変われるということを証明し、ユリウスに美しさを見せると叫んだのは俺自身だ…俺は自分の言葉に責任を持たねばならない!)

 アンセルは弱々しく揺らぎやすかった頃とは違い、自らの為さねばならない事を忘れてはいなかった。


 すると光のある場所へと導く手が、アンセルには見えた。

 アンセルは雄叫びを上げ、その方向を目指して己の力だけで闇のような穴から這い上がった。


 導いてくれたのは、ミノスの手だった。

 その手は今にも消えてしまいそうなほどに白くて冷たかった。

 ミノスは死顔のような真っ白い顔をしながら、戻ってきたアンセルを抱き締めた。だが抱き締める腕には力はなく、ミノスの生命の火がまもなく消えるのだとアンセルは感じた。


「アンセル様」

 ミノスは弱々しい声を出しながら、まるで愛しい息子にするように優しくアンセルの頭を撫でた。

 そして、アンセルの顔を見た。

 死してもなお魂に焼きつけようとするかのように、アンセルを見る瞳には力があった。

 深く皺が刻まれた顔に微笑が浮かんだが、ミノスの体が急に崩れ落ちた。



「ミノスさん!」

 アンセルは叫び声を上げ、漆黒のベッドから飛び上がると、床の上で倒れているミノスの体を慌てて起こした。

 その体は軽くて弱々しかった。

 ミノスを迎えに来た「死」が、すぐ側で立っているような気持ちになった。


「大丈夫です…きっと…マーティスの魔術でなら…」

 アンセルの声は震えていた。

 もう間に合わないと分かっていたし、魔術でも助けることが出来ないとは分かっていたが、死なせたくなかった。


 マーティスもミノスのもとに駆け寄ると、死の影が横たわっているのを見た。唇を噛み締めながら、魔術ではどうにもならない無力さに彼は腕を震わせた。


 けれど、ミノスは死を恐れてはいなかった。


「今までありがとうございました。」

 と、ミノスは言った。


「何を言ってるんです!このままでは死んでしまいます!

 俺はミノスさんを守ると言いました!

 俺はダンジョンの仲間の生命を守らねばなりません…戦う前から失ってしまうなんて…。

 俺にその誓いを果たさせてはくれないのですか?

 戦う前から、俺を何も守れない男にするのですか?

 嫌です…ミノスさんを失うことだけは…嫌です…」

 アンセルはミノスの老いさらばえた大きな手を握りしめた。

 剣の稽古でアンセルの剣を何度も叩きつけたとは思えないほどに弱くて皺がれた手だった。


 しかしその言葉を聞くと、アンセルを守り続けた大きな手は、もう一度強い力を取り戻して力強く握り返した。


「ちがいます。

 失うのではありません。寿命がきたのです。

『かのお方』の御力によって生き永らえましたが…ここまでのようです。

 いえ、ここまで生きることができたのです。

 新たな光を見ながら、生きることができました。

 ユリウス様に立ち向かわれる時の御力になりたかったのですが……それは、やはり叶わないようです。」

 と、ミノスは言った。

 その瞳からは、大切な事を最期に教えようとする男の燃え盛る炎を感じた。



「いやです!

 これから先もミノスさんと一緒にいたい!

 これからもずっとずっと!こんな形で終わるなんて嫌だ…なんとか…なにか方法は…」

 ただをこねる小さな子供のようにアンセルは言った。


 俺のせいではないのか?という自責の念にも駆られていた。アンセルは自分が大切な者を死に追いやったのではないかという思いに駆られ、剣の勇者が目の前で死んでいった時のフレデリックの気持ちが強烈に分かったのだった。


「あの力のせいなんでしょう?泉の加護の力を引き出したから、死期がはやまったのです!

 俺に強い心があれば…もう少し同じ時を生きれたかもしれない。俺の…俺のせいじゃないですか!」

 と、アンセルは大きな声で言った。

 ユリウスの力に怯えていた日々を思い出した。

 過去を振り返り、あの時もっと戦っていたらこうはならなかったのかもしれないと思うと、ひどく後悔した。



 生命が失われる恐怖に直面して、アンセルは震え上がった。

 そして、どんなに後悔しても時を戻すことは出来ないと思い知らされた。



「お聞きください、アンセル様。

 これが、私の役割なのです。

 アンセル様に真実をお伝えすることが私の役割です。役割を果たせたので、迎えが来たのです。

『かのお方』から託された責任を果たすことができました。

 ありがとうございました。」

 と、ミノスは言った。


「ミノスさん…そんな…」

 アンセルの瞳に涙が浮かんだ。


「それに…もう一つ大切な事をお伝えできるのを嬉しく思います。

 生命とは、魔術でどうにかなるものではありません。絶大な魔法でも同様です。

 だからこそ、大切なのです。

 かけがえのない生命なのです。

 これから挑まれる戦いの前に、言葉ではなく、私の身をもってお伝えできるのですから、この罪深い身でここまで生き続けた意味がありました。

 それに、マーティスの魔力を無駄に使わせてはなりません。その時の為にずっと備えてきたのですから。万全の力で挑まねばなりません。

 マーティスも苦しい生を歩み続けています。

 だからこそ、彼に自らの役割を果たさせてやらねばなりません。」

 ミノスは諭すように言った。


「何を言っているんです!?

 ミノスさんが罪深いなんて…そんな事は全くありません!何処に罪があるというのでしょうか?」

 アンセルが叫ぶと、ミノスは悲しい目をした。


「いえ、私は罪深い身です。罪を背負って生きてきました。

 私は2つの罪を背負っているのです。」

 ミノスは真っ直ぐな目でアンセルを見た。



「1つ目の罪は、多くの人間を殺した罪です。

 憎しみに駆られるままに、人間を殺しました。

 あの時は殺さなければ、私も家族も仲間も殺されるという思いがありました。

 家族と友を殺した人間が憎くて憎くてたまりませんでした。私の大切な者を奪った相手を殺せば、全てが終わり満たされると思ったのです。渦巻く憎しみが、人間を殺すという抵抗感を消し去りました。

 けれど…今になって…深く後悔しています…生命を奪うということは本当に恐ろしい。

 その瞬間は満たされますが、人間を殺したという恐ろしさと後悔の感情にも襲われる。けれど死体を見てまたすぐに満たされ、他の仲間が殺される前に人間を殺そうと思い、さらなる復讐心に駆られる…それがあの時の私の感情です。 

 本当に殺したかったのか…殺さない方が良かったのか…分からない。殺してしまえば、綺麗事が言えなくなります。

 その両方を味わい、その片方は甘美なものなのです。

 人を殺すという選択をしたのは自分自身、力を欲したのは己自身、その全て自分が選んだ道なのです。

 そして、その道には答えがないのです。

 絶望と満足感の狭間を、永遠に彷徨い続けなければならない。殺された家族と仲間の死に顔、私が殺した人間の死に顔は、一生忘れることができません。

 永遠の闇の中を生き続けなければならない。

 当然です…かけがえのない生命を奪ったのですから。

 殺せば、その重みを引きずって生きていかねばならない。

 憎しみとは…復讐とは…生命を奪うということは…本当に恐ろしいことなのです。

 アンセル様は…その闇に関わってはなりません。

 貴方様のまとう光が消えてしまいます。」

 と、ミノスは言った。


 ミノスは複雑な表情を浮かべ、その瞳には涙が滲んだ。

 彼は確かに復讐を成し遂げた事を喜び満足もしていた。だが、それだけでは終わらなかった。深い後悔と罪悪感と虚無感にも襲われていた。晴れることのない闇の中を生き続けていた。


「2つ目の深い罪は、アンセル様に嘘をついていたことです。

 臣下である私は誠心誠意をもってアンセル様にお仕えしなければならないのに、嘘をつき続けました。

 そこに真実はありませんでした。

 私を信じてくださる貴方様を裏切り続けたのです。

 どのような理由があろうとも許されることではありません。

 そのような醜い裏切り者は、死をもって償わねばなりません。」


「ちがいます!

 それは、ちがう!

 確かに真実ではなかった。けれど、騙そうとしたのではない。『かのお方』との約束だったのです。約束は守らねばなりません。

 俺はもう子供ではありません。

 許される嘘もあることぐらい分かっています。それは、もう嘘とは呼べるものではないでしょう?そこに悪意はないのですから。真実は時として残酷で、時を選ばねばならないことぐらい分かっています。

 ただ真実の名において、何も考えずに全てをさらす事が正しいわけではないのです。

 ミノスさんも心をひどく痛めていました。

 今の貴方の瞳が、何よりもそう物語っています。

 俺が受け止められるようになる今の今まで、1人で背負い込んで苦しんでくれたのです。それに狂った俺をユリウスがのみこんでハジマリノセカイにかえすことのないように、魔法使いであるユリウスすらも守ったのです。

 ミノスさんが、全てを守ってくれていたのです!」

 と、アンセルは叫んだ。


「そのように思っていただけるのですか?私を恨んではいないのですか?

 私はアンセル様を欺き続けてきたのですよ。」

 ミノスは唇を震わせながら言った。


「感謝こそすれ、恨むはずがありません!

 欺いたのではない、守ってくれたのです!

 だから…今度は…俺が守ります。

 ミノスさんの思いを守ります。

 多くの者達がその生命にかえて守ったものを、守り続けてきたものを、今度は俺が守ってみせます!俺を今まで守ってよかったと、ミノスさんに思ってもらえるように!」



「アンセル様…ありがとうございます。

 どうか、よろしくお願いいたします。

 勇者を死なせてはなりません。

 3人揃って、英雄として帰還させねばなりません。それぞれの国を率いる英雄が必要です。

 人間の世界を変えるのは、人間でなければならない。

 絶対的な力は愚かさを粛清させる為に、全てを消し去ります。

 ユリウス様の剣を鞘に収めさせなければなりません。

 その為には、勇者の中に希望の光が存在する事を見せなければなりません。

 私はユリウス様が目覚められたのは、闇をまとう為ではなく光をまとう為だと信じています。

 天上の怒りの魔法陣を描いて右手を上げる為ではなく、英雄となる力を与える為だと思いたい。今も私が愛しているユリウス様に…もう一度光をまとっていただきたい…あの神々しい光を…」

 ミノスの声はかすれ始め、どんどん見えなくなっていくアンセルを探して手を伸ばした。

 アンセルはその手を握り締め、誓いを立てた。


「必ず、ユリウスに光を見せます。

『かのお方』が残してくれた思いを受けとった事で、その方法も分かりました。俺は俺の為すべきことを為し遂げます。

 今度こそ、ドラゴンが生を受けた真の役割を果たします。

 勇者を、守り抜いてみせましょう。」

 と、アンセルは言った。



 ミノスはアンセルの言葉を聞くと、嬉しそうに微笑んだ。


「アンセル様

 私は幸せな最期を迎えることができます。

 もう私がいなくても、アンセル様はご自身の足で立派に歩んで行くことができる。

 その道を見ることができて、私は幸せです。

 それに人を殺した罪深い私に、新しい光を見せてくださったのは貴方様でした。光がなければ、誰も生きてはいけません。

 優しく、素直で、仲間を心から慈しみ愛しておられる…そこに…失った光をもう一度見る事ができたのです。

 閉ざされたダンジョンでも仲間同士が憎しみあうこともなく穏やかでいられたのは、アンセル様の優しさによるものです。

 だからこそ、皆んながアンセル様を愛しています。それは、私もです。

 お恥ずかしい話をしますが…私はアンセル様を『かのお方』から託されたダンジョンの魔王としてではなく、いつの間にか私の息子のように愛していました。

 温め続けた卵から孵った貴方様を一目見た時から、可愛くて可愛くて仕方がなかった。魔王である貴方様を臣下の私が息子のように思っているとは…身の程をわきまえない愚かな発言です。 

 アンセル様を守り抜きたい一心で、私は剣を握り続けました。それが出来たのですから、私は幸せです。

 私は誇りをもって死ぬことができます。」

 ミノスは息も絶え絶えになりながら、最期の力を振り絞って力強く言った。



「俺が…俺がダンジョンの20階層に君臨しているだけでは魔王になれないように、ただ生み出しただけでは父にはなれません。

『かのお方』には感謝しています。

 しかし俺にとっては…俺に多くを教え与え叱り、大きな愛で包み込み、その手で抱き締めてくれた貴方こそが父です。

 俺の父は、心で繋がっている貴方です。

 お互いの思いが一緒だった事が、何よりも嬉しいです。

 必ず、俺が守り抜きます。

 そして、貴方が誇れる魔王になってみせます。

 ありがとう…ございました…」

 アンセルがそう言うと、ミノスはその瞳から涙を流した。初めてミノスがアンセルの前で流した涙だった。


 アンセルの瞳から涙があふれると、その目に映るミノスの姿が見えなくなった。アンセルはミノスを抱き締めながら瞳を閉じた。


 その瞬間、ミノスの流した涙が床にポトリと落ちた。


 アンセルが瞳を開けると、その腕の中にミノスの姿はなかった。ミノスが流した涙と共に体も消え失せ、床の上に小さな水溜りができていた。

 ミノスが腰に下げていた剣も消えてなくなっていた。剣にはめこまれていた血水晶は呪縛から解かれ、天井から射した光によって魔法使いの子供達は空へと導かれていったのだった。



 アンセルは一瞬にしてミノスがいなくなった事に愕然として体を震わせた。その小さな水溜りに触れようとしたが、天井から降り注ぎ出した不思議な光と共に消えてしまった。

 この時、アンセルは神の恐ろしさを思い知った。

 役割を果たした事で男の罪を洗い流したが、その全てを連れ去っていったのだった。


「大切な者の亡骸すらも、俺に残してはくださらないのですね。」

 アンセルは嗚咽を漏らした。


 先程まで側にいた者がこんなにも簡単に消え去り、もう2度と戻ってこないと痛切に感じると、生命の尊さが身にしみた。

 ミノスの死は、アンセルに剣を握る意味を深く教え、かけがえのない生命を背負う覚悟を刻み込んだのだった。



 アンセルは、これで最後と言わんばかりに大きな雄叫びを上げた。そして涙を完全に拭き取ってからスクッと立ち上がると、その表情は一段と凛々しくなっていた。

 まだ天井から降り注いでいる煌めく光を仰ぎ見た。


「マーティス、ミノスさんの死のことは誰にも言うな。

 19階層のミノタウロス達には、20階層で勇者を待ち構える為に俺と一者に準備をしていると伝えておいてくれ。

 余計な不安を抱かせてはならない。  

 勇者が英雄となってダンジョンを出てから、名誉ある戦死であったと俺から皆んなに伝えよう。

 俺を守り戦い抜いてくれたという、名誉ある戦死なのだから。」

 と、アンセルは言った。


「かしこまりました。」

 マーティスは静かに答えた。


「勇者達は今何処にいる?

 そろそろ、このダンジョンに着く頃ではないのか?」

 と、アンセルは聞いた。


「あと数日もすれば辿り着きます。

 そろそろ皆を避難させておく方がよろしいかと思います。」

 と、マーティスは言った。


「そうか。  

 至急、皆んなを避難させよう。

 トールとオルガには直接礼を言っておきたい。少ししか時間がなかったのに、本当によく頑張ってくれたから。

 20階層に来るように言ってくれ。

 俺は広場で待っている。」

 と、アンセルは言った。


「かしこまりました。」

 と、マーティスは言った。


 マーティスは避難の指示を出す為に部屋を出て行こうとしたが、アンセルが呼び止めた。


「待ってくれ。

 俺に言ったよな…聖職者は特別な力を与えられていながら役割を放棄して、何もせずに傍観だけをしたのだと。2つの国の人々を死に至らしめた…と。

 2つの国の人間にとってはそうなのかもしれない。けれど、2つの国の人間は許されない罪を犯している。

 いつだって踏みとどまれた。

 天上の怒りが降り注ぐ前にも、立て札の警告に従えば別の道に歩めただろう。美しさを見せれば、ユリウスは祈りを捧げただろう。その身が滅びようとも、彼は神に祈りを捧げた。

 だが、誰もそれをしなかった。強欲に生き続けた人間はそれをしなかった。そこには多くの人間が関わっていたのだから、聖職者だけの責任ではないと俺は思う。

 それに3つの国の人間が救われたのは、もともと脅しの意味があったのかもしれないけど聖職者の祈りがあったからだと思う。

 何もしなかったわけじゃないんだ。

 だから…そんなに自分を責めないでくれ…前世の事でこれ以上マーティスが苦しまないでくれ。

 2度と同じ事を繰り返さないようにしないといけない、悲しい事実を忘れてはいけないが、永遠に閉じこもっていたらダメなんだ。過去の中に生きてちゃいけないんだよ。

 もう十分苦しんだんだ…これからを俺と一緒に生きよう。

 そして、ずっと側にいてくれ。

 俺はマーティスの事が好きだから…マーティスが必要で、好きだから側にいて欲しい。

 前にも言ったが、もう一度言わせてもらう。

 俺は今のマーティスと一緒にいる。過去と一緒にいるんじゃない。その思いは変わらない。

 だから、ユリウスに証明しよう。共に、抗おう。

 そうだ…ユリウスが聖職者の誇りを取り戻すチャンスをくれたんだ。今度こそ勇者を守り、真実の意味で3つの国の人々の心を救い、魔法使いの子供達を室から助け出そう。

 それを果たし、新たな道を共に歩もう。そこに苦しみは必要ない。」

 と、アンセルは言った。


「アンセル様

 僕が貴方様を希望とよんだのは、貴方様が幼い頃から向けてくれた笑顔と言葉に心が救われていたからです。

 その笑顔を守る為なら、僕はどんな事でもします。

 貴方がくださった言葉に相応しい者になる為ならば、僕はどんな事でもします。

 何処までもアンセル様と共に歩み続けたい。

 今度こそ役割を果たし、失った誇りを取り戻します。」

 マーティスは深々とお辞儀をしてから、アンセルに涙を見せる前に颯爽と出て行った。

 今度こそ自らの役割を果たすことで、彼もまた過去を乗り越えようとしていた。




 アンセルが部屋を出ると、その部屋に通じる扉は跡形もなく消え去った。アンセルは20階層の広場に戻って行った。


 広場に戻ると、アンセルはゆっくりと目を閉じ、ミノスを思った。すると同時に、この場所で起こった悲惨な光景を思い出したが、心を落ち着かせてから目を開いて剣を抜いた。


 彼の目に血水晶が飛び込んできた。

 それが赤い宝石ではなく魔法使いの子供達の生命だと思うと、恐ろしい悲鳴が聞こえたような気がした。だが彼は剣を投げ捨てるような事はしなかった。

 聞こえたからこそ、守り抜かねばならないと思った。 

 悲嘆して喚き散らすだけなら、簡単だ。

 絶望に狂い全てを投げ出すだけなら、簡単だ。  

 けれどアンセルも約束を果たす為、託された役割を果たす為に、守る為の剣を握り続けるという強い覚悟が出来ていた。



(守る為の剣なら、俺は掲げ続けられる。

 俺が守りたい者を守る為の剣を掲げよう。

 もともと俺には人間の世界も救うとか、全てを抱えきれるような立派な男じゃない。

 それに人間の半数は恐ろしい奴等で、そんな者達には共感出来ない。

 でも、美しい者もいる…水晶玉で見た勇者達のように。

 望みを抱く勇者がいて彼等が光を掲げようというのであれば、俺は守り抜かねばならない。

 失った生命は、どんなに嘆き悲しんでも取り戻せないのだから…『かのお方』が為せなかった事を、今度こそ俺が為さねばならない。

 俺は特別な力を与えられた、その役割を果たさねばならない。

 その結果として世界を救えるというのならばそれでいい。

 それが、俺に出来る事だ。

 それが、この世界に対するドラゴンとしての償いだ!)



 さらにアンセルは、とんでもない思い違いをしていたのかもしれないと思い始めた。神とユリウスはどちらも慈悲深くあるが、その力ゆえに恐ろしさもまた絶大だった。ユリウスは謎めいていて理解し難く、彼の言葉には表と裏の意味があったりもした。

 そうすると今までアンセルに向けられていた言葉も、剣を交える価値のある男なのかを試されていたのではないのだろうかと思うようにもなった。



「何故キサマを遺していったのか

 全てはこうなる運命だった

 それだけは感謝しておこう」

 この言葉の意味を履き違えていたのかもしれないとアンセルは思った。今になって思えば、魔法使いとしてのユリウスの思いも込められていたのではないかと思ったのだった。

 勇者だけでは、闇をまとったユリウスとは戦えない。

 だから、勇者を守る為の力をもった者を遺した事に感謝したのだろうと思い始めていた。

 全ては、願望なのかもしれないが。


「かつての決戦以上に面白いものを私に見せてくれ」 

 この言葉についてアンセルはもう一度考えた。するとユリウスに希望の光を見せなければならないと思った。ゾクゾクさせるようなその面白い光景を見せなければならないとアンセルは思ったのだった。

 それが出来なければ、ユリウスは希望の光を飲み込んで全てをハジマリノセカイに返すのだろう。



「私は別の体でキサマの体をもらい受けにゆく」 

 ユリウスが目の前に立ちはだかるという運命は決まっていて、それを止める事は出来ないとアンセルには分かった。

 その体が魔法使いなのか勇者なのかは、アンセルには分からなかった。

 アーロンがフィオンに望みを打ち明けた時までは水晶玉で見ていたが、それからフィオンの身に起こった事はアンセルは魔術を受けていたので知らなかった。

 もしユリウスが勇者を抑えるのであれば、この戦いはさらに難しくなるだろうとアンセルは思った。ユリウスの剣を鞘に収めさせる方法は、たった一つしかない。勇者が3人とも真の魔王の名を口にし、自らの望みを宣言し、剣を鞘から抜かねばならない。

 ユリウスの力に抗うには、並外れた精神力と強い信念が必要だった。戦ったアンセルだからこそ、その事はよく分かっていた。


 けれど、どうする事もできなかった。

 待ち構えて、立ち向かうしかなかった。


 ユリウスが自分に向けた氷のような冷たい眼差しを思い出すと、本で見た氷山を思い出して悪寒が走った。

 舵をきるのに失敗し、少しでもぶつかれば間違いなく致命傷を負い、アンセルはのみこまれて勇者も共に沈んでいくだろう。

 小細工は通用しないし、ユリウスは全てを見ている。

 やはり正面からぶつかり、俺が盾となることで背後にいる勇者を守り抜かねばならないとアンセルは思った。





 しばらくすると、マーティスがオルガとトールを連れて広場に入って来た。彼等の後ろで、リリィが新しい鎖帷子を大事そうに抱えていた。


 広場の扉が開く音がすると、アンセルは彼等を見た。

 少し疲れた顔をしているオルガとトールが前に進み出ると、アンセルはゆっくりと近づいて行った。

 オルガとトールは近づいて来る魔王に驚いて、まじまじと目を見開いた。蓄積されていた疲労が、一瞬にして消え去った気がした。


 広場は静まり返り、次の瞬間にはオルガとトールは跪いていた。2ヶ月ぶりに見るアンセルは以前とは全く違う男に見えた。着ているものは今までと同じだったが、今になってはじめて自分達魔物を従える魔王の姿を見、凄まじい力を秘めたドラゴンの姿をアンセルに見たのだ。

 鍛え抜いた体は見た目で分かるほどに強靭に変わり、それ以上に精神的に強くなったアンセルはまとうオーラが変わっていた。

 厳しくも凛々しい表情をして丈高く、瞳には勇気を宿し、腰に下げた立派な剣は彼に相応しく、全身から光を放ち輝いているように見えたのだった。


 もうすぐ勇者がダンジョンに侵入し、彼等は避難生活を強いられるのだが、彼等はこの瞬間アンセルに希望の光を見た。

 闇はすぐに明け、今まで通りの生活をすぐに取り戻せると思わせた。その光は、心を暗く覆っていた恐怖すらも凌いだのだった。


 アンセルが労を労う言葉をかけると、2人は一様に嬉し涙を流した。2人の心は希望で満たされ、その光は消える事なく避難所での暗い生活を照らし続けた。



「アンセルさま、新しい鎖帷子です。

 こちらをお召しになってください。」

 と、リリィは言った。

 アンセルは輝く鎖帷子を受け取った。

 彼女が愛する者の無事を願いながら丁寧に作り、込められた思いの強さでさらに煌めいた。


「リリィ」

 アンセルが愛おしむように彼女の名を呼ぶと、マーティスはオルガとトールを連れて先に出て行った。彼等は広場の外で、リリィが出て来るのを待った。


 アンセルはリリィを強く抱き締めた。

 小さな彼女を愛おしむように撫でさすってから両翼に触れた。リリィはアンセルの腕の中で、幸せそうに目を閉じた。


「リリィ」

 アンセルはもう一度彼女の名を呼んだ。

 リリィはアンセルの顔を見上げると、その顔には自信に満ちた力強さがあった。

 リリィは、ずっとアンセルだけを見てきた。

 だからこそ不安と恐れに苛まれていたアンセルをいつも自分の事のように感じて胸を痛めていたが、今はほとばしるほどの勇気を感じた。仲間を安心させる為の偽りの強さではなく、自信に満ちた強さが感じられた。


「リリィ、待っててくれ。

 必ず迎えにいくよ。」

 と、アンセルは言った。


 リリィはアンセルの逞しい両腕をヒシッと掴んだ。

 アンセルが少ししゃがみこむと、リリィは背伸びをして願いを込めたキスをした。


「アンセルさまに、勝利の祝福を。

 リリィは、アンセルさまを信じています。」

 リリィの美しい微笑みは、アンセルの心に強く焼きついた。



 *



 それから数日が経ち、ダンジョンの封印が解かれた地響きが地中深くまで突き抜けて20階層にも響いた。

 目覚めの時が近いと告げるように、広場の天井と床が激しく揺れ動いた。



 長い時間が流れると、やがてアンセルの耳に槍の勇者の呻き声が聞こえた。まだ20階層にも到達しておらず、広場の扉も固く閉めているにも関わらず、アンセルは確かにその声を聞いたのだった。

 その呻き声は、アンセルの体中の血管を駆け巡った。

 ユリウスのカケラが両腕を通じて体の中に入り込み、彼を支配していた時の感覚を強烈に思い出した。 

 足音も恐ろしいまでに耳に響き、その力が迫っていると感じると、心臓は大きく高鳴った。

 自然と剣の柄に手を触れて、深呼吸を繰り返し心を落ち着かせた。



 やがて、広場の扉を開く音が聞こえた。

 扉を開いたのは輝く鎧に身を包んだ剣の勇者だった。

 騎士の隊長という名に相応しく凛々しく威厳に満ちた美しい男は、何者も恐れない瞳をしていた。

 彼等を待ち受ける者達に油断なく目を注ぎ、警戒しながら突き進んできた。互いの顔がはっきりと分かるところまで来ると立ち止まった。


 アンセルとアーロンは微動だにせず黙ったまま、互いの腹の内を探るように見つめ合った。アーロンは相手が敵意や悪意の感情を抱いていて、攻撃を仕掛けてくるつもりなのかを慎重に見続けた。

 戦場や陸橋を渡る前にソニオの騎士から発せられたような敵意は男からは感じられないと思うと、鋭い目で彼を眺め回した。

 金色の瞳をした男は偉丈夫だとアーロンは思った。

 男は十字型の鍔が特徴のロングソードを持っていた。

 アーロンはその剣に刻まれた紋章に気づくと、驚きの色を浮かべた。

 その紋章は、ゲベートの紋章だった。

 鞘も柄も深い金色で華美過ぎる装飾が施されていて、紛れもなく選ばれたる隊長のみが持つ事ができる剣だった。

 その剣は、戦死したかつての剣の勇者が携えていた剣だろうとアーロンは思った。

 数百年経っても剣の輝きを維持できるほどの技術を彼等は持っている。なんとしてもクリスタルの秘密を知りたいアーロンは、目の前の男が人間の言葉を話す事が出来るかもしれないという期待を抱いた。


「勇者よ、何を求めてやって来た?」

 突然、アンセルは落ち着いた声で呼びかけた。


 アーロンとエマは流暢に人間の言葉を話す男に驚き、思わず武器を構えた。アンセルに向かって剣先が向けられ弓の弦に矢が番えられたが、アンセルは腰に下げた剣を鞘から抜かなかった。

 マーティスは黙ったまま事態の成り行きを、アンセルの背後から見守っていた。ただアンセルを守る為、いつでも白き杖を掲げられるように、勇者には見えないよう白き杖を握り締めていた。

 

 すると、アーロンが口を開いた。


「僕達を、勇者と知っている貴方は何者ですか?

 何故貴方はその剣を持っているのですか?」

 アーロンは厳しく鋭い目をしながら言った。


 けれど、目の前の人間に似た男は金色の目を光らせるだけで、何も言わなかった。


「20階層に待ち受けているのは、魔物だと思っていました。

 ですが、貴方方は僕達と変わりません。

 そのような姿をしている方が魔物であるならば、僕達は重大な思い違いをしているのかもしれません。

 貴方方は、何者なのですか?」

 アーロンはもう一度目の前の男の正体を尋ねた。


 アンセルはアーロンの澄んだグレーの瞳を見た。

 アーロンが剣を振り下ろしてこないと分かると、ゆっくりと口を開いた。


「魔物だ。」

 と、アンセルは言った。


 アーロンの目は険しくなった。

 言葉を理解しながら、あまり話そうとしない尊大な相手に対して詰問するような声を出した。


「それでは、貴方は数百年前の魔物の末裔か?

 僕達に危害を加えようとして待ち構えていたということか?剣を携えているのは、その為か?

 何故はっきりと喋らぬ?

 魔物といいながら、人間の言葉を話す方よ。」

 アーロンはそう言ってから、少し冷たい眼差しを向けた。



「勇者よ、ならばお前がまず名を名乗られよ。

 このダンジョンにやってきたよそ者がまず名乗るべきだろう。

 そうすれば俺も名を言い、お前の知りたい話もしよう。」

 アンセルも厳しい口調で言った。


 すると、アーロンはアンセルに向けていた剣を下ろした。

 そして姿勢を正してから、今度は対話を求めるかのように穏やかな口調で口を開いた。


「失礼しました。

 僕はアーロンと申す者。

 ゲベート国第1軍団騎士団隊長に任ぜられています。

 王命により剣の勇者となり、世界を救う為にダンジョンに来ました。

 ここに封印されているクリスタルが、世界を救う何らかの鍵を握っているのではないかと思っています。」



「剣の勇者、アーロンよ。

 俺はドラゴンの息子、アンセル。

 魔王であり、このダンジョンを治めている。

 剣を携えているのは守る為である。

 お前達人間を傷つける為ではない。

 お前達が俺に敵意を持ち剣を振り下ろすのでなければ、俺はこの剣を鞘から抜くことはない。」

 と、アンセルは言った。


 アーロンはアンセルを凝視した。

 自らを魔王と名乗る男の言葉が、真実であるのかを見定めようとした。


「俺は人間に対して何の害意も持ってはいない。

 このダンジョンの封印を、頼みもしないのに勝手に破られたことを迷惑に思っているぐらいだ。

 クリスタルの真実について知りたいのであれば、まず剣を鞘に収められよ。そして話をしようではないか。」

 と、アンセルは言った。


 アンセルの堂々とした振る舞いが、相手を騙して安心させてから傷つけるような類の者ではないとアーロンに思わせた。

 彼が述べた言葉以上に立派な佇まいに、アーロンは高潔な騎士の姿をアンセルに見た。

 剣を向けられながらも剣を抜かず、対話をしようと求めてきている以上、自らも剣を鞘に収めて言葉を交わさなければならないと思った。

 なぜなら自分は騎士であり、野蛮人ではないのだから。

 それに自分は勇者であり、その名に相応しい行動をせねばならないと思った。


 アーロンが剣を鞘に収めると、エマも矢を筒に戻し弓を下ろした。


「驚かされることばかりです。

 何からお聞きしたらいいのか分からなくなります。

 疑問に思うことがあまりに多すぎて…一体どうなっているのか…」

 と、アーロンは呟いた。


「アンセル殿よ、お聞きしたいことが沢山あります。

 このダンジョンは一体どうなっているのですか?

 どういうわけでドラゴンの貴方が、そのような人間に似た姿をしているのですか?どうして人間の言葉を話すことができるのですか?

 それにダンジョンは内側からも封印されていたのに、どうやって僕達がここに来ることが分かったのですか?」

 アーロンは言葉を切った。

 そして今度は低い声で、彼が1番知りたい事を尋ねた。


「クリスタルの真の意味を教えてください。封印された恐ろしい秘密が知りたい。

 一体、何者が封印されているのですか?」

 と、アーロンは言った。


 アーロンは強い眼差しを向けた。

 その瞬間、アンセルは広場に流れる風の向きが変わったように感じた。

 アンセルは口を開こうとしたが、その瞬間、フィオンがその場にドサリと崩れ落ちた。


 広場に入ってから気力で立ち続けていたフィオンだったが、ついに彼の心を掴み取っていたその男の片腕の力は強く動き出した。


 アンセルは倒れた槍の勇者の体を包み込んでいく漆黒の影を見た。


 そして、彼の側には敵意のこもった目でアンセルを見る魔法使いがいた。


「ようやくだ…ようやく、その時がきた。

 僕の魔法が、ようやく届いた。

 さぁ、僕達の光をかえしてもらおう!」

 リアムは大きな声で叫んだ。

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