第66話 歪曲  フレデリック 上



 弓の勇者は血に濡れた床に手をついていたが、やがてぬるぬるとした仲間の血で滑り、魂の抜けたような目で友の血の海の中に片頬を沈めた。


 この世界の真実を知って、呆然とするしかなかった。

 人間の恐ろしさと醜さを知り、死ぬまで忘れる事が出来ないであろう2つの国に起こった陰惨な光景を何度も思い出すと、今にも心臓が凍りつきそうにもなった。

 王達が身の毛もよだつような恐ろしい事をしているなんて思いもしなかった。平気な顔をしながら玉座に座り、さらなる凶行を重ね続けている愚かさが理解できなかった。

 そして、その王によって敷かれた勇者の道には何一つとして真実などなかった。全てが嘘と裏切りに満ちていて、その上をただ自分は踊っていたのだった。


 彼に突きつけられた現実はあまりにも残酷であり、今まで人間の醜さを知らずに、皆に愛されて幸せな毎日を過ごしてきた優しい青年の心を滅茶苦茶に破壊していた。



「魔王は封印された。

 弓の勇者、立てるか?」

 ドラゴンは弓の勇者を心配して何度も声をかけたが、彼は目も合わせずに黙り込んでいた。

 

 しばらくして、ようやく小さく口を開いて震えた声で話し出した。


「もう…やめてください…。

 お願いですから…ユリウス様を魔王と呼ぶのはやめましょう。

 ユリウス様は…魔王ではありません。

 魔法使いの王であり、魔物をつくりだした…彼等の王ではありますが、勇者が倒さねばならない魔王ではありません。

 真実の魔王は、人間の国王です。

 それに真実の魔物とは僕です…魔王である国王の言葉に従い続けてきた僕こそが魔物です。

 愚か者と見ているだけの者達が、魔物なのです。

 気付きながら生命を踏みにじり続けた…いえ踏みにじり続ける者達が魔物なのです。」

 弓の勇者はそう言うと、王と自らに対する憎しみと激しい怒りの感情に襲われ出した。

 様々な負の感情が波のように押し寄せ、受け止めきれない苦しみが溢れ出したかのようにブツブツと独り言を言い始めた。


「僕達は一体何だったのだろうか…王の悪事に手を貸し、悪事が明るみに出ないように手伝いをしただけじゃないか。

 王の言葉の何もかもが嘘だった。

 そして、その嘘を信じた僕は…ただの道化だ。

 何が「勇者」だ…勇者と祭り上げられ、その気になっていた自分が恥ずかしい…息が…息が…うまくできない…苦しい…僕は一体何なんだ…」

 弓の勇者は何度も苦しいと繰り返し、自らに失望すると、口をポカンと開いて目を見開いたまま、何を見るともなく何かを凝視していた。



「弓の勇者、立てるか?」

 あまりにも変わってしまった弓の勇者を、ドラゴンは悲しい目で見つめた。



 けれど、弓の勇者は何も答えなかった。



 ドラゴンに何度も呼ばれると、やっとの思いで上半身を起こしたが、その瞳は既に勇者としての新たな望みを抱けるような光は失っていた。

 勇者ではなく、ただの男となり、この数分間の間に彼はどっと老けたかのようだった。


「大丈夫か?」

 と、ドラゴンは言った。


「大丈夫?何がですか?」

 彼は放心したような顔でドラゴンを見つめたが、すぐさま蒼白な顔になった。

 片頬にこびりついた血の臭いが鼻を刺激して現実に引き戻され、彼は顔を歪めながら体中を眺め回した。


「あっ!あっ!」

 両手が仲間の血で真っ赤に染まっていた。


「あっ!あっ!」

 赤く染まった血に襲われたかのように、さらに大きな声を上げた。


「僕が殺した…僕が友を殺したんだ!

 僕が死ねばよかったんだ!

 こんな僕の為に生命を捨てるなんて!剣の勇者の方が生き残らねばならない人だったのに!」

 彼の頭はひどく混乱し始め、その身が穢れているかのように体を激しく掻きむしった。


「ヒィッ!」

 ひどい錯乱状態となり、鼻を刺激する臭いがさらに強くなったような気がして、小さな子供のような悲鳴を上げた。


 彼は大切にしてきた弓を壁に向かって投げつけた。

 ただ恐ろしかった。

 握っていた弓柄が、魔法使いの子供達の骨に見えて仕方がなかった。放り投げた弓が壁にぶち当たり、こびりついた血の跡が、魔法使いの子供達の手と足に見えた。

 弓にはめこまれている血水晶が心臓にも見え出し、知らぬ事とはいえ犠牲になった生命を弄び得意げに魔法を使っていたのだと思うと、彼は激しく嘔吐した。


「大丈夫か!弓の勇者!」

 真面目で誰よりも優しかった男が今にも狂い出そうとしているのを止めようと、ドラゴンは何度も叫び続けた。 


 けれど彼はドラゴンに構う事なく、また新たに別の事を叫び出した。 


「このままではダメだ!

 狂った王がいる限り、何度も繰り返される!

 止めなければ!生命にかえても、僕が止めなければ!」

 彼は床を叩きながら叫び続け、その度に仲間の血が顔にかかると舌で血を舐めとった。口元がヒクヒクと動いた。


「落ち着くんだ!弓の勇者!」

 と、ドラゴンは叫んだ。


「僕は落ち着いています!

 こんな事はしていられない!やらねばならない事があるのです!

 新たな弓を握り締め、国民に真実を告げて国王に罪を償わせなければなりません!

 そうだ!魔王の心臓を射抜いてやるのです!」

 彼はぎょろっと目を開きながら大声を上げ、腹を抱えて笑い出した。

 

 しかし急にピタリと笑うのを止めた。

 その目に、死んでいる剣の勇者の姿が映っていた。自分の為に死んでいった友の姿が目に入ったのだった。

 彼は、またしても新たな感情によって苦しみ出した。



 ゲベートの王女と剣の勇者は深く愛し合っていた。

 王女のお腹には既に剣の勇者の子が宿っていて、凱旋次第すぐに結婚式を挙げるのだと嬉しそうに話していた友の顔を思い出したのだった。


 すると弓の勇者は頭を激しく振ってから、肉の落ちたように見えるげっそりとした両手を見つめた。何も出来ない弱々しい手のように、その目に映った。

 ひどい錯乱状態に陥っている男は、たった1人残された無力さを感じ始めたのだった。



(僕が真実を国民に話せば、王女とお腹の子はどうなるのだろうか?友の愛する人と生まれてくる子の生命が、危険に晒されるのではないのだろうか?僕はまた誰かを死に追いやるのか…?

 そもそも僕が真実を話したところで、誰が信じる?どうやって信じさせる?

「僕ひとりの力で」巨大な権力に、どうやって立ち向かえるのだろうか?

 悲惨さを目にし続けた事で、気でも狂ったと思われるだけかもしれない。

 魔物と戦い続けたことで頭がおかしくなり、今度は国を乗っ取ろうとしていると思われるだけだろう。

 自分では何の計画も思い付かず、信頼できる味方もいない状態で、僕は一体どうするつもりなのだろうか?

 何の力もない、ただの男でしかない僕に何ができる?

 そうだ…愚かだ…狂っている…僕だって偽物。

 友を殺しただけの、何も為せない愚か者。

 真実と虚偽すらも見抜けぬ愚か者。

 こんな愚か者のことなど、誰が…信じる…?

 僕は「真の勇者」ではないのだから…。

 僕は…ただの道化でしかない…。

 国を変えれるような力などない…それが真実の僕だ。

 英雄に憧れただけの男。

 それが…僕だ…)

 彼は目眩をおこし、その場に崩れ落ちた。



 様々な感情に襲われた彼だったが、最後に残ったのは絶望だけだった。

 ついに胸に抱いていた信念も、正義も、勇気も、何もかもを失ってしまった。そのままピクリとも動かずに、長い時間死んだように横たわっていた。

   



 広場には静寂だけが流れた。ドラゴンはただ彼を見つめていた。


 

 突然彼の瞼がピクリと動いて急に起き上がると、友の剣に手を伸ばそうとした。

 友の剣で、自らの生命を絶とうとしたのだった。

 しかし、彼が剣を手にするよりも早くにドラゴンが気付いて、その剣を前足で掴みとった。


「何をする気だ!?」

 ドラゴンは大きな声で怒鳴った。

 その声は怒りと悲しみ、彼の切り裂かれた心を深く心配していた。


「お願いです!死なせて下さい!

 どうか、どうか!

 もう役目は果たしました。

 このまま、ここで仲間と共に死なせて下さい!

 僕が友を殺したんです!僕が立ち上がれなかったから!

 その責任を取らせてください!

 友を殺していながら、僕だけが、のうのうと生き続けるなんてできません!」


「ちがう!お前が殺したんじゃない!

 お前が彼に騎士の心を取り戻させたんだ!お前が彼を立ち上がらせたんだ!

 騎士として立派な最期を遂げた友の心を踏みにじるつもりか!剣の勇者が守った生命を自ら散らし、友の願いを無にする気か!

 自刃は絶対に許さん!

 もうこれ以上、生命を散らすことはあってはならない!

 お前は剣の勇者の分まで生きなければならない!

 絶対にならんぞ!」

 彼はその言葉を聞くと叫び声を上げ、涙を流して床を激しく叩きつけた。止めどなく流れる涙は濁流のようになり、何も見えなくなるほどだった。



(僕はこれから何の為に生きればいいのか…?

 死にたい…自分の存在を消してしまいたい。

 それなのに自刃をすることさえ許されない。

 恥を背負って生きろというのか?

 どうやって生きていけばいい?

 自刃が許されないのならば誰かが僕を…殺してくれたらいいのに…)

 そう思いながら顔を上げ、訴えかけるような瞳でドラゴンを見た。その瞳は、ドラゴンに自らを殺してくれと訴えかけていた。



「僕に生きる意味はもうありません。

 これから先、僕は一体何の為に生きればいいのですか?」

 彼は虚な目で、自らの生きる意味をドラゴンに問いかけた。

 もう自分の生きる意味を、自分で見つける事すらも出来なくなっていた。


 ドラゴンは彼の気持ちを察すると、静かに首を横に振った。


「生きろ

 生き続けること

 それが、これからのお前の生きる意味だ。」

 ドラゴンは彼に言った。なんとしても彼には生きて欲しかった。


 

「弓の勇者…お前は勇者であった。」

 ドラゴンがそう言うと、彼はサッと顔色を変えてドラゴンを睨みつけた。


「もう勇者と呼ばないでください!

 どこに勇者がいるというのでしょうか?

 誰もが恐れる強大な悪に立ち向かう存在が、勇者です。

 本当に強大な悪とは国民を欺き弱き者を虐げ罪を重ねている王です!何度も言いますが魔王とは人間の国王なんです!

 僕は、その魔王の手先となって動いていただけです。

 それに貴方も、ある者の為に、他の者が虐げられ続けてもいいというのでしょうか?

 いいはずがありません。

 それなのに僕は彼等に耐える日々を、これからも強いてしまうのです。それを知りながら、自分に何の力もない為に、これからも見て見ぬふりをするのですから!

 僕のような人間がいるから終わらない!

 見ているだけの者が、奴等をここまで増長させたんです。

 僕が彼等を殺すんです!

 こんなモノが勇者とは、勇者の名が汚れてしまいます。

 真剣に考えようともせずに、ただ言われるがままに動いていただけの僕が勇者であるわけがありません。ただの愚か者です。

 どこに勇者がいるというんですか!

 誰が勇者なんですか!?」

 彼は目を血走らせながら、激しく声を荒げた。


「勇者が真の勇者となりえたのであれば、こうはならなかった。別の光の道を歩めたんです!

 僕がもっと早くに目を覚ましてさえいれば…あの時ユリウス様が見せてくれた別の可能性の道に進んで、愚かな王に弓を引く事ができたのです!

 この長い旅路の間に、何度もその道を辿れたのに僕は恐れによって歩もうとしなかった。心の底では見たこともない魔王よりも国王を恐れて、さらに目も眩んでいたんです!

 ちがいますか!?貴方も本当は分かっているでしょう!」


 ドラゴンはひどく興奮した彼の表情を見ると、しばらく黙った。間を取ることで、彼の興奮した気持ちを鎮めようとした。

 彼が言うとしている事も分からないわけではなかった。けれど、ドラゴンには彼の言葉を受け入れる事は出来なかった。肯定してしまえば、全てを否定してしまう。

 この旅の意味が、分からなくなってしまう。


「ユリウスはあの時まで真実を話さなかった。

 そして、我も話さなかった。すまなかった。」

 ドラゴンは首を垂れながら言った。


「ちがいます!そうじゃない!

 話さなかったんじゃない、話せなかったんです。

 話したところで、あの頃の僕達が信じたと思いますか?

 信じるはずがない!動こうとするはずがない!

 けれど何度も何度も根気よく道を示してくれました!

 ユリウス様は僕等以上に生命の尊さと、生命を奪う恐ろしさと悲しみを知っていた。

 だから十分な時間をくれたんです。最後の最後まで時間をくれたのです。あの時の2日間が、僕達にくれた最後のチャンスだった。

 十分な時間をくれた…それに…今思えば何もかもがおかしかった…貴方がドラゴンの姿をしているのだって…おかしかったんですよ…。どうして邪悪な存在とされているドラゴンの姿が選ばれたのか…僕達に気付かせようとしたのです。

 魔物の話を聞こうとしなかった僕等に…ドラゴンでさえ言葉で分かり合えると教えてくれたのです。

 でも魔物については、僕達は王命に頑なに従った。

 勇者でさえ、これなのです。

 片目を射抜けたのも、勇者の力ではありません。本当は分かっているんでしょう?

 あの時の、あの光を!あの青い閃光を!

 射ぬいたのは、勇者の矢ではない。

 もっともっと偉大な大いなる力です!

 人間では届きません。届くはずがない!

 貴方の炎ですら届きもしなかった!

 そこまで僕の事を馬鹿にしないでください!

 矢が射抜いたのが何故瞳だったのか…もしかしたら、これ以上人間の醜さを見せたくないと思われたからなのかもしれません。もう片目でも分かるほどに僕等は醜悪でした。

 この先、また封印が破られたとしたら…いくらでも治せます。だって…貴方もユリウス様の手の中の光を見たでしょう…月ですら掌中に収められています。この世界の全てを統べる…神の如き者なのですから。」


 ドラゴンは体を震わせている彼を見た。


「それでもお前は多くの人間の生命を救ったのだ。矢を放てたのは、お前の勇気だ。だからこそ、神の力が宿った。

 それは真実だ。」


 彼はその言葉を聞いても、激しく首を横に振るだけだった。

 どのような言葉も、彼に救いをもたらさなかった。

 ドラゴンから慰めの言葉を言われるたびに、余計に虚しく感じるだけだった。


「あんな…あんな王の為に…死にたい…殺して下さい…。

 どんな顔をして国にかえればいいのか分からない…もう顔を上げれません…いやだ…」

 彼の声はどんどんかすれ始めた。


「生命を絶つことは絶対にならぬ。

 それに、もしお前が死ねば、王達は喜ぶであろう。

 この世界の真実を知る者がいなくなるのだから。

 王がお前にした行いが許せぬのなら、お前は生きなければならない。

 悔しいのなら許せないのなら、生き抜け。

 お前が望む場所で、最期まで生き続けろ。」

 ドラゴンは弱々しい手で、彼の体に触れた。


 その瞬間、あまりにも軽いドラゴンの手の重さにハッとして彼は顔を上げた。ドラゴンの生命の火は、勇者達を守った事で今にも消えようとしていた。 

 彼は様々な者達によって、自分の生命が守られた事を感じとった。

 さらに、彼の心の中に王と城の者達の醜い顔が浮かんだ。

 薄汚い笑みを浮かべ、この世界の真実を知り過ぎた「勇者」の死を喜ぶ男の顔が浮かんだのだ。



(自分が死ねば、確かに奴等は喜ぶかもしれない。

 真実を知る者がいなくなるのだから。

 そうだ…奴等の思い通りにはさせない。

 これ以上、奴等を喜ばせたくはない。

 それだけはあってはならない!

 僕は…生き続けなければ…僕は生きる事で奴等に復讐をするのだ…)

 彼は生きる為に拳を握りしめた。


「分かりました…王は許せません…だから僕は生きます。

 あんな人間の男の為に、僕の生命を助けてくれた者達を悲しませたくはありません。

 僕が死んで、奴等が喜ぶ顔など見たくもありません。

 僕は、なんとしても生き続けます。

 でも、お願いです…2度と僕を勇者と呼ばないで下さい。」



「分かった、フレデリック」

 ドラゴンは初めて彼の名を呼んだ。




「国に帰るか?

 それともここに残るか?」

 と、ドラゴンは聞いた。


 それ以上の事を、フレデリックに求める事はもう出来なかった。

 全ての望みを失って、死を選ぼうとした男に、英雄の重荷を背負わせる事はできなかった。この世界の真実をフレデリックだけが背負うには、あまりに闇が深過ぎたとドラゴンは悟ったのだった。

 フレデリックには味方となる友も、力となってくれる騎士団も、そして力を与えてくれる魔法使いもいない。

 恐ろしい王が、知りすぎた力のない英雄に、どのような仕打ちをするのかは容易に想像できた。


「ここには僕の居場所はありません。

 僕はここにいてはいけない存在です。国に…帰ります。」


「そうか…。

 ならばソニオで、我が空を飛んでいる姿を見た者がいるだろう。

 国王に魔王が何者であったのかを問われたのなら、ドラゴンだったと答えておくがよい。ドラゴンとは邪悪な存在なのだから、国民もその言葉を受け入れるだろう。」


 フレデリックはしばらく考え込んだが、頷いた。


「分かりました。そのようにします。

 貴方はどうされるのですか?ユリウス様は一体どうなるのですか?」


「ユリウスはクリスタルの中で眠り続ける。

 闇をまとったままでは出られないように魔法陣を施そう。

 そして、このダンジョンの奥深くで眠らせよう。

 それほど厳重にしておけば、神の領域に踏み込んだ魔法使いでも本来の力は出せまい。新たな希望の為にも…な。」

 ドラゴンは7色の輝きを放つクリスタルを見つめた。そのクリスタルは一瞬、恐ろしい光を発した。


「本当にそうなのですか?

 クリスタルは今も輝いています。ユリウス様の美しさ、そのものです。

 眠ってなどおられません。

 神の如き者を眠らせるなど、誰にもできません。

 その時を、待っているだけでしょう。」

 フレデリックはそう言うと、ドラゴンの瞳をジッと見た。


 しかし、ドラゴンは何も答えなかった。

 2人の間に嫌な沈黙が流れた。


 フレデリックはドラゴンが何も答えないと分かると、目を逸らして血に濡れた床を見つめていたが、あるモノが目に入ると急に以前の彼を取り戻したかのような表情になった。


「ドラゴン、ありがとう。

 僕の醜さを吐き出させてくれて、ありがとう。

 貴方に対しても酷い事を言いましたが、受け止めてくれて、ありがとう。心が落ち着きました。

 少しの間だけでしたが…貴方と一緒に旅をして色々な話ができたのは楽しかったです。それは真実です。

 僕は自分にできるたった一つの事を、今、見つけました。

 それを果たそうと思います。」

 と、フレデリックは言った。


「それに…すみません。

 僕は魔王はドラゴンと嘘をつき、ドラゴンの名も汚してしまうのですね。」

 フレデリックはにがい笑みを浮かべた。

 彼はもう以前のようには笑わなくなった。彼の心にまとわりつく暗い悲しみは、鉛のようにつきまとおうとしていた。


「ちがう、世界がこれ以上混乱せぬようにだ。

 もうこれ以上、人間の血が流れるのは見たくない。あまりに多くの人間が死にすぎた。

 これで少しは神の願いが人間に届くだろう。

 王達も先王の凶行の末に、そして今もそれを犯し続けている為に起こった出来事だと気付かぬほど、愚かではあるまい。

 きっと改心してくれよう。

 本来は、人間とは心の美しい者なのだから。」

 ドラゴンはそう言ったが、フレデリックは今まで見た事もないような笑い方で笑った。その笑い方は、何を馬鹿な事を言っているのだろうかとでも言いたげだった。


 心が荒んでいくフレデリックを見ると、ドラゴンはとてつもない不安を覚えた。


「お前の事が心配だ。」


「僕は貴方に心配をしてもらう価値のない男だ。

 僕は……結局は…王から…何もかもから……逃げるんです。逃げるだけの男だ……」

 フレデリックは涙を堪えながら言った。


「フレデリック!もうやめるんだ!

 お前がいなければ人間の世界は滅んでいた。

 お前のおかげだ。礼を言おう。

 それに、逃げるのではない。そんな言葉は使うな。

 お前は立ち向かった!

 これからも生きる事で立ち向かい続ける!

 お前は逃げるのではない、愚かな王を見放すのだ。

 もう勇者としての役割は果たしたのだから。

 これからはお前の望む通りに生きよ。生きてさえいてくれたら、それでいい。

 我は、それだけで嬉しい。

 休息と眠りをとり、目が覚めると好きな事をすればいい。

 それが、我がお前に望むことだ。」

 ドラゴンは凛とした声で心から言った。



「それにお前が国にかえり、物語となって語り継がれるようになれば、多くの少年と少女が夢を抱くだろう。

 最後まで、希望を捨ててはならないと。

 この世界に勇者は存在すると。光はあると。

 お前は後の勇者となる者の鍵となるであろう。」


「僕はそのような男ではない。」

 フレデリックは表情を曇らせた。


 何を言ってもフレデリックを余計に苦しめるだけだと分かると、ドラゴンは悲しい気持ちになった。

 人間の世界を救った男に対して神が与えたのは、あまりにも過酷な運命だった。フレデリックが手にしたのは勝利でも栄光でも名誉でもなく、絶望だけだったのだから。


 ドラゴンは、神の恐ろしさを、この時思い知った。

 勇者となりながら、その時を逃し、最後までその覚悟が出来なかった男に、あまりにも辛い運命を辿らせたのだった。


「この先、魔物は一体どうなるのですか?」

 と、フレデリックは言った。


「ユリウスと共に、彼等もこのダンジョンの中に封印しよう。

 その方が彼等の為にもなる。

 今となっては外の世界は彼等には危険だ。

 外の世界の空気に触れれば、人間の姿を見れば、狂気に駆られ続けるだろう。

 仲間が殺された憎しみは、彼等の中から消えてはいない。

 彼等は人間を殺してしまったのだから、もう昔のような気持ちには戻れまい。陸橋は、ユリウスの魔法がかかっている。魔物が望めば、陸橋はいつでも自由に現れて渡れよう。三日月で現れるのは、国王に忘れることのない恐怖を抱かせる為なのだから。

 陸橋を渡れば、また人間を喰い殺す為に走り出すだろう。

 渇きは癒されない。

 我はこのダンジョンに封印の魔法を施し、誰も出る事も入る事も出来ないようにする。

 人間と魔物の世界を切り離さなければ、どちらも不幸になるだけだ。

 それが人間と魔物の双方にとって、最も良い方法だ。」

 と、ドラゴンは言った。


「そうですか…彼等は太陽の光を失くすのですね。

 この閉ざされたダンジョンで暮らすことになるのであれば、その先に待つのは死なのでしょうか?」


「いや、違う。

 彼等は生き続けよう。

 もとから天上の怒りの魔法陣を描いた時の為に、外の世界と変わらぬ暮らしができるように、ユリウスの魔法がかかっている。神の領域の名のもとに、ここは動き続ける。

 それに、我の力も彼等に与える。

 彼等が善良な者達である限り、彼等は生き続けよう。 

 あとは彼等に委ねるしかない。

 彼等にも多くの人間を殺した罪がある、罪は償わねばならない。

 心配するな。

 あとは、彼等次第だ。」


「よかった…彼等はもう人間とは関わらない方がいいでしょう。」

 フレデリックには魔物も犠牲者に思えた。


 フレデリックは何か言いたげな目でクリスタルを見た。彼は思わず口を開きかけたが何も言わずに拾い上げ、クリスタルに優しく触れた。

 そのままクリスタルを手にしながら、剣の勇者と槍の勇者の元まで歩み寄り、全てを思いながら一筋の涙を流した。

 そして、ドラゴンと共に友の遺体を葬った。


「フレデリック…これで終わったんだ。

 何もかも終わったんだ。」

 ドラゴンは悲しい目をしているフレデリックに言った。

 これから先、フレデリックがどうやって生きていくのか心配でたまらなくなった。ドラゴンは鋭利な爪で、自らの漆黒の鱗をとり合わせると、ブレスレットにして手渡した。


「これを持っていけ。

 これはお前の身を守ってくれる。

 我はいつまでもお前を影のように守ろうぞ。お前を傷つけ苦しめようとする者から遠ざけよう。

 これを持っている限り、お前の歩む道を誰も阻むことはできない。

 お前が望む新たな道へ導こう。

 生きるのだ。

 お前は生きなければならない。」

 

 フレデリックがブレスレットをつけると、その体が聖なる光で包まれた。


「我はお前を誇りに思っている。

 この戦いを終わらせたのはお前だ、フレデリック。」

 ドラゴンは力強く言い、真っ直ぐな瞳でフレデリックを見つめた。

 

 フレデリックは虚な瞳でドラゴンを見つめてから、重たい口を開いた。


「本当の意味では何も終わってはいません。

 これが、新たな始まりです。

 僕は何もできずに、嘘を嘘で塗り固めるのだから。

 全てを後に生まれてくる者達に背負わせ、先延ばしにしただけです。そして、またユリウス様に苦しい選択をさせるのです。」

 フレデリックは暗い声でそう言うと、ドラゴンに背を向けた。


 フレデリックは床に転がっていたユリウスの紫のマントの切れ端を拾い、それを大事にポケットの中にしまい込んだ。

 彼は紫の布を握りしめながら自らにできる唯一の事をする為に、オラリオンの城に戻る決心をした。

 あの時に見た光景を、もしかしたらこの紫の布でも出来るのではないかと思った。それが自分にできる唯一の罪滅ぼしだった。


「ありがとう。

 さようなら、ドラゴン」

 フレデリックはもう二度と振り返ることはなかった。


 彼はダンジョンを去っていった。

 ドラゴンは悲しい目でフレデリックを見送った。


 

「生きろ、フレデリック

 生きていれば、いつかは喜び、もう一度笑える日がくるだろう。

 あの者達の為に、お前の生命を散らせてはならぬ。

 あんな男達の為に、お前が死ぬなど決してあってはならぬ。

 お前は立派な男だった。」


 ドラゴンはクリスタルを見た。

 ドラゴンは光り輝くクリスタルを見るにつれて、とてつもない不安に駆られた。

 神の御手がなければ止められなかった

 それは、この体が証明している

 その時がくればクリスタルから出てくるだろう、我の力では到底及ばない

 神はお許しにはなられていないのだから、ユリウスははかりにかけ続ける

 そして、神が人間に慈悲をかける事はもうない



《人間の世界を変えるのは、人間でなければならない。

 それが出来ないのなら、歩む道は破滅しかない。》

 神は決して慈悲深いだけの存在ではなかったのだ。


 

「勇者は去りました。」

 ドラゴンは天井を恭しく見上げながら言った。


 すると、ドラゴンの左半身がドロドロと崩れ落ちていった。そこには水溜まりができ、今や右半身だけとなった。

 ユリウスの攻撃を一身に受け続けた体は限界を迎えようとしていた。ドラゴンの強靭な鱗でさえ、ユリウスの炎に耐えることなど出来なかったのだった。

 ドラゴンは消えゆく生命を感じながら、残された右半身の力の全てをダンジョンに捧げる事にした。



 ドラゴンはユリウスがつくりだした魔物の中でも、最も力のあるミノタウロスに似た魔物を呼び出したのだった。





 

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