第28話 失望

 

 エマはネックレスに触れながら、かつて自分がエレーナという名の少女であった頃を思い出していた。



(この国では、よくある話。よくある事が、私の身にも起こった。

 本当の名前は、エマじゃない。私の本当の名前は、エレーナだった)


 あの日まで、エレーナは将来に夢と希望を抱き、ずっと生まれた村で幸せに暮らすものだと思っていた。

 生まれた村は王都から離れた緑豊かな村で、エレーナは妹のエレサと楽しい毎日を過ごしていた。エレーナにとって、エレサは自らよりも大切な妹だった。


 2人は有名な美人姉妹だった。

 姉のエレーナは父親似の凛とした美人で、長くて艶やかな茶色の髪をなびかせながら歩く姿は、道行く男が振り返るほどであった。

 エレサは母親似でお淑やかで麗しく、その誰をも魅了する笑顔が、彼女の美貌をより一層輝かせていた。

 妹のエレサには「結婚しよう」と誓い合ったディランという名の幼馴染がいた。

 ディランはエレサと結婚する日を心待ちにしていた。村には婚前交渉をしてはならないという掟があるので、どんなに仲が良くても誘惑に負けることはなかった。


 幸せな姉妹であったが、2人が年頃を迎える頃に事態は一変する。


 いつからかエレーナの家に、国王の使者と護衛の兵士が頻繁に訪れるようになり、使者と父親は奥の部屋で何時間も話をするようになった。話が終わると、父親は難しい顔をして部屋から出て来るのだった。

 エレーナが父親に「何の話で来たの?」と聞いても「娘が気にするような話ではない」と答えるばかりだった。


 そんなある日、エレーナは護衛の兵士2人と玄関の前で鉢合わせになった。大男の兵士はエレーナの顔を見た途端にニヤニヤした顔になり、彼女の体を上から下まで舐め回すように見た。

 そして生唾を飲み込んだ。

 大男の兵士は、若い兵士に何かを耳打ちすると、若い兵士もニヤニヤしながら頷いた。


「姉の方なら、いいだろう」

「どうせ、もうやってるだろうしな」

「あぁ、少しばかり増えるだけだ」

 兵士は妙な事を言い合うと、大男の兵士が興奮した顔でエレーナに近づいた。


「なぁ、いいだろう?」

 大男の兵士はエレーナの細い腰を物凄い力で引き寄せた。揺れる髪を乱暴に掴むと、その匂いを嗅ぎ出した。


「大人しくしてたら悪いようにはしないからよ。お前、綺麗な髪してるな…ほんと撫で回したくなる。

 なっ、いいよな?その顔で初めてってわけでもないだろう?俺たちの相手をしてくれよ。3人で楽しもうぜ。

 あ?何も分からないみたいな顔するなよ。女なら誰でも知ってるだろうが。ちゃんとお前のことも、気持ちよくさせてやるからよ」

 大男の兵士はそう言うと、エレーナの体に自らの体の一部を押し付けてきた。笑いながら舌を出すと、エレーナの髪を舐めるような仕草をしてみせた。


(いやぁっ!)

 エレーナは声にならない悲鳴を上げた。

 初めて男を怖いと思った。

 そして、男の怖さに声が出なかった。咄嗟のことで何が起こったのか分からずに、抵抗すら出来なかった。

 知らない男の硬いモノが体に触れ、その吐口とされようとしていることに体は硬直して動かなくなった。

 

 兵士はエレーナの腕を掴んで何処かに連れさろうとしたが、運良く玄関のドアが開いて使者と父親が姿をみせた。

 すると兵士は何事もなかったかのようにエレーナから手を離し、使者と共に馬車に乗りこんだ。


「何かされたのか?」

 馬車が小さくなっていくと、父親は青い顔をしている娘の顔を見た。父親の瞳は虚で、父親の方も今にも倒れてしまいそうだった。


「あっ…その…」

 エレーナは言葉を飲み込んだ。犯されそうになったとは言えなかった。


「あの人たち…何をしに来たの?何でこんなに頻繁に来るの?

 エレサに…何かあったの?」

 エレーナは兵士の言葉を思い出しながら言った。

 

 その瞬間、父親はビクッと体を震わせ娘から目を逸らした。馬車の轍を見つめると、右手の拳を握り締めた。


「お前が心配するようなことは…何もないよ。大丈夫だ。最近…牧場の経営が…悪くてな」

 と、父親は力なく笑った。


 こんな小さな村の牧場の経営のことで、国王の使者が来るとは到底思えなかった。エレーナがまた口を開こうとすると、父親はサッと玄関のドアを開けた。


「お前は、早く入りなさい。具合が悪そうだ。

 父さんは…羊の様子を見てくるから」

 父親はそう言うと、エレーナに背を向けてヒョコヒョコと歩き出したのだった。


 エレーナは父親を呼び止めようとしたが、その悲壮な後ろ姿を見ると、家の中へと入って行った。



 数日後、エレーナは町に買い物に行くように父親から頼まれて、叔母と一緒に馬車で出かけて行くことになった。

 エレーナはワンピースに着替え、艶のある長い髪を櫛で綺麗にとかしてからバレッタでとめた。バレッタは彼女の美しい髪に飾られると、まるで宝石のようだった。


 エレーナが鏡を見ていると、部屋のドアをノックする音が聞こえてきた。叔母が来たのかと思いながらドアを開けると、妹のエレサが立っていた。


「一緒に行かないの?」

 と、エレーナは言った。どこに行くのもいつも一緒だったからだ。


「うん…気をつけてね。

 ありがとう」

 エレサはそう言うと、姉の頬にキスをした。


(ありがとう?)

 エレーナはその言葉に疑問を抱いたが、ちょうど自分を呼ぶ叔母の声が聞こえてきたので、慌てて部屋を出た。

 玄関で待っている叔母と共に外に出ると、馬車に乗り込んだ。エレーナは馬車の窓から手を振っているエレサの姿を見ると不安を覚えたが、叔母は遠くばかりを見ていた。


 馬車はガタッゴトッという大きな音を立て、道の石を弾き飛ばしながら進んで行った。


 頼まれた食材は普段よりも品数が多く、沢山のお店を回ることになった。叔母が食事をご馳走してくれたので、村に帰る頃には空に赤い色が広がっていた。


 エレーナはエレサのことが気がかりだったので、家が見えてくると胸を撫で下ろした。沈んだ表情をしていたエレサを早く抱き締めたかった。


 馬車が家の前にのろのろと着いた。電気はついておらず、ひっそりとしていた。

 叔母は玄関まで荷物を持つのを手伝うと、エレーナの顔をチラチラと見た。


「叔母さん、どうしたの?」

 エレーナがそう言うと、叔母はエレーナを抱き締めた。


「愛してるわ、エレーナ」

 叔母は震えた声で言うと、エレーナのおでこにキスをした。叔母はそれ以上は何も言わず馬車に乗り込むと、自分の家へと帰って行ったのだった。


 エレーナは妙に思いながら、小さくなっていく馬車を見送っていた。


「ただいま戻りました」

 エレーナは玄関のドアを開けたが、家の中は静まり返っていた。妙に思いながら荷物を持ってリビングの電気をつけると、暗い顔をした両親がソファーに座っていた。


「どうしたの?電気もつけずに座っているなんて」

 エレーナは驚きながら、食材の入った袋をテーブルに置いた。あまりに荷物が多かった為に袋が倒れると、林檎がコロコロと転がり両親の足元へと転がっていった。


 しかし両親は何も答えず、動こうともしなかった。

 エレーナは転がっていった林檎を見つめた。赤い林檎を見ていると、エレサの艶やかな頬が目に浮かんだ。


「エレサは…部屋かしら?」

 エレーナがそう言うと、父親は首を横に振った。


「エレサは…いない」

 と、父親は震えた声で答えた。


「いない?ディランのところ?

 もうすぐ暗くなるわよ。

 まぁ…いつものようにディランが送ってくれるでしょうけど」


「ちがう。宮殿に…行った。もう二度と戻って来ない」

 と、父親は答えた。


「えっ?!」

 エレーナは何がどうなっているのか全く分からなかった。


 父親は長い長い沈黙の後に、ソファーから立ち上がり、目を赤くしながらこう言った。


「エレサはな…国王の…妃の…1人になったんだ」


 エレーナは絶句した。

 妃ではなく妾の1人となったことなど、誰でも分かることだった。妾といっても境遇は不安定であり、国王が気に入らなければ宮殿の男たちに酷い目に合わされたり、王妃やその一族から恨みを買えば殺されることもあるという。

 そもそも村娘を妾にするなど…それがよりにもよって自分の妹だとは思いもよらなかった。


「なんで父さんは承諾したの?! 

 そんなの…エレサは恐ろしい目に合わされるだけじゃない!

 それに国王は父さんよりも年上よ!そんな男のもとに娘をやるなんて、どうかしてるわ!

 エレサにはディランがいるのよ!2人は愛し合ってるの!結婚する約束もしていたのに!おかしいわ!」

 エレーナは父親を責め立て、何度も胸を叩いた。


 今まで嘘をついてきた父親、オカシイと思いながら追求しなかった自分、そして協力したであろう叔母にも激しい怒りが込み上げてきた。


「やめなさい!仕方がないの…仕方がないことだったの」

 母親も真っ赤な目をしながら暴れるエレーナの手を掴むと、そのまま娘を強く抱き締めた。


「分かって…ちょうだい…。

 ごめんなさい…ごめんなさい」

 母親は涙を流しながら2人の娘に対して何度も謝り続けたが、エレーナは母親を突き飛ばした。


「やめなさい!エレーナ!母さんになんて事をするんだ!

 父さんだって…信じられなかった。

 悪い夢であって欲しいと…何度願ったことだろう。

 でも…現実だった。どうしようも…なかった。相手は…国王だ。国王に逆らっては…生きてはいけない。

 それに…ほら…沢山の金貨をくれた。エレサもこんな村で貧乏な暮らしをするよりも、国王の寵愛を受ければ…贅沢な暮らしが出来る。

 きっと…そうだ…何不自由なく生きていける。

 仕方がなかった…仕方がないんだ。相手は国王だ…拒否なんて出来やしない」

 父親は自分にも言い聞かせるように言った。

 金貨の入った袋を床に叩きつけると、ギラギラした光を放ちながら金貨はあちこちに転がっていった。


「嫌よ…そんなの…。

 エレサの幸せはどうなるの…?それに…もう2度と会えないなんて…嫌よ。

 宮殿で…あんな場所で…生きているかどうかすらも…分からないわ」

 エレーナが目に涙を浮かべながら言うと、父親はフラフラとした動きでソファーにあった箱を手に取った。


 箱を開けると、中にはキラキラとしたネックレスが入っていた。ハートが3つ重なり合い、自由に空を飛ぶ蝶のようなデザインだった。


「このネックレスも…もらったんだ。

 エレサがな…お前に似合うと思って、このデザインを選んだんだ。このネックレスはな、お城の魔法使い様の魔法がかかっている。

 エレサが生きていれば、ハートが白く輝くんだと。

 ほら…燦然と輝いているだろう?

 これがあれば…離れていてもエレサと一緒だ。

 白く輝いていれば、エレサは生きているし幸せなんだ」

 父親は震えた手で、エレーナにネックレスを手渡した。


「何を言ってるの…父さん…。

 生きていることと、幸せでいることとは、全く別のことじゃない!」


「生きていれば幸せだ。生きていれば幸せなんだ!」

 と、父親は強く言い放った。


「何を言っているのか…分からないわ。

 何もかもを奪われたのよ…宮殿に行って…幸せなはずなんてないじゃない。国王や…貴族に囲まれた生活なんて。

 エレサを…助けにいかないと…。

 ひどいわ…エレサがこんな目に合うなんて…」


「この国では、よくある事なんだ。

 美しい娘をもてば…国王の目に留まれば…諦めるしかない。

 国王の子供でも産めば…エレサは…何不自由なく、幸せに生きていける」

 と、父親は涙を流しながら言った。

 両の拳を握り、可愛い娘を奪い去った国王に対する怒りと憎しみが込み上げてくると、もう立ってもいられなくなり崩れるようにソファーに座り込んだ。


(よくある事…?諦める…?国王の子供…?)

 エレーナの頭の中は真っ白になった。


 涙を流しながら抱き合っている両親の姿を見ても、怒りの感情しか湧いてこなかった。

 美しい娘をもてば仕方がない。

 国王の目に留まったから、エレサは性的な相手をする為に連れて行かれた。娘のような年齢の女を抱いて悦んでいる国王の姿は、鳥肌ものだった。



「なんで、どうして…エレサなの?

 どうして…私の妹が…そんなことなら…いっそ私が…」


「本当は…国王は…姉妹で欲しがったんだ。

 姉妹共に…美しいからと…2人を同時に…」

 憔悴しきった父親はハッとして口をつぐみ、頭を激しく掻き毟った。


「なにそれ…?

 ちゃんと…教えて…。もう嘘をつかないで!」

 と、エレーナは声を荒げた。


 父親は躊躇ったが自分を見つめる娘の目を見ると、これ以上嘘はついてはならぬと思い、ゆっくりと口を開いた。


「噂を聞いて…こちらに来られたんだ。

 その時…お前の長くて美しい髪をご覧になられた。

 それから…エレサの笑顔を見て…2人とも…御所望されたんだ。

 でも父さんは…使者の方にずっとお願いしていたんだ。

 2人ともは…やめて欲しいと。

 それをたまたまエレサに聞かれて…それで…自分が行くと…。お前に言えば…お前も国王のもとに行くと言い出すから…。

 父さんと母さんはな、2人ともいなくなるのは…耐えられなかったんだ。可愛い娘なんだから…どちらも宮殿に行くなんて耐えられない…だから…だから…。

 これ以上は…国王の怒りに触れてしまう。

 お前も…連れて行かれただろう。

 だから…父さんは…」


(なに…それ…?

 この髪が…これさえなければ!)

 この瞬間、エレーナは自慢にしてきた美しい髪を呪ったのだった。


 そして娘のような年齢の姉妹を、その腕で抱きたいと考えている国王に吐き気を覚えた。


「どうして…逃げようって言ってくれなかったの?

 どうして!」

 と、エレーナは大きな声で叫んだ。


「逃げてどうする?どこに逃げればいいんだ?

 国境沿いでは頻繁に戦が起こっているから、ゲベート王国には逃げれない。

 どこにも逃げ場はないし、そもそも牧場がなければ食べてはいけない。

 それに…親戚にも…村の皆んなにも…迷惑がかかる。

 何らかの理由をつけて、皆んな処罰されるだろう。

 どうすることも出来ないんだ。

 エレーナだって…本当は分かっているだろう?

 仕方が…なかったんだ」


「分かるわけないじゃない!」

 エレーナは吐き捨てると、家を飛び出した。


 これ以上、ここにはいたくなかった。

 父親の言っていることが全く分からないわけではなかった。逃げ場がないということだって分かってはいた。

 それにエレーナが知っていたとしても、止める力がないことも分かっていた。


 けれど可愛いエレサを思うと、受け入れられなかった。





 外は、もう真っ暗になっていた。細い月の光を頼りにエレーナは走り続け、息を切らしながらディランの家のドアを激しく叩いた。


「ディラン、開けて!私よ、エレーナよ!」

 と、エレーナは大きな声を上げた。


 家の中から物を壊すような大きな音が上がった後で、酒に酔い赤い顔をしたディランが玄関のドアを開けた。

 いつもの優しいディランとは違う怖い目で、エレーナをジロリと見下ろした。


「なんだ。エレーナか…」

 と、ディランは低い声で言った。


「大事な話があるの」

 エレーナはそう言うと、ディランの家に入って行った。


 ディランの両親の気配はなく、いつも整理整頓されているというのに、リビングは散らかり放題だった。

 壁に飾られている絵は落ちていて、花瓶は壊されていた。クッションも転がっていて、本棚の本も全て床に落ちていた。


 その異様さにエレーナは不安になったが、妹を助けに行かなければならないという気持ちの方が大きかった。


「エレサが宮殿に連れて行かれたの。

 お願い、一緒に助けに行きましょう」

 エレーナがそう言うと、ディランは怒鳴り声を上げた。


 ディランは忌々しそうにエレーナを睨みつけると、テーブルの上にあった酒瓶を壁に投げつけた。酒瓶は粉々に割れてしまい、鋭い破片がギラギラと恐ろしく光った。


 ディランも全てを知っていたのだった。


「どうやってだよ!

 どうやって国王から取り返すっていうんだよ!騎士相手に、農具で立ち向かえっていうのか!

 無理に決まってるだろうが!」

 ディランは声を荒げると、エレーナを壁におしつけた。肩を握る手の力は凄まじく、ひどい痛みを感じた。


「無理でも…やってみましょう…。なんとかなるかも…しれない。

 エレサがいなくてもいいの?愛してるんでしょ?

 取り戻したくないの?」

 エレーナがそう言うと、ディランは薄ら笑いを浮かべた。宮殿に忍び込むなど不可能で、死ににいくようなものだ。


 ディランはしゃっくりをしながらエレーナの顔を見ると、酒に酔っていたこともあり姉の顔に妹を重ねた。

 その瞬間、愛しいエレサを奪い取られた憎しみが、さらに激しく燃え上がった。

 国王がエレサにしているコトが頭をよぎると、何度も壁を殴りつけた。何もかもを、壊してしまいたくなった。


「だったら、お前が、俺を慰めてくれよ。

 出来るよな?姉妹なんだから」

 ディランは酒臭い息を吐きかけながら言うと、エレーナをソファーに押し倒して細い体の上に覆いかぶさった。


 妹が国王に犯されるのなら、俺が姉を犯してやろうという良からぬ考えが浮かんだのだった。


(そうだ…エレサだけが食い物にされるなんて許せない。

 この女も、同じ思いを味わえばいい。

 だって姉妹なんだから…当然だろ??

 エレサが犯されるのなら、エレーナも犯されないといけない。いつだって…2人は一緒なんだから…)

 ディランはエレーナの甘い香りを嗅いで興奮を高めると、スカートを捲り上げて足を開かせ、その間に分け入った。


「やめて!」

 エレーナは両手と両足を必死にバタバタさせて、覆い被さっている男から逃げようともがいた。

 だが、そんなものは抵抗にすらならなかった。

 それ以上声を出さないように口を塞がれ、右手首も押さえつけられると、どうすることも出来なくなった。


(こわい…こわい…)

 異様な目で自分を見下ろしながら息を荒くしているディランを見ると、エレーナは怖くなり顔を背けて目を閉じた。

 

(やめて!)

 エレーナは力の限りに叫んだが、それはもう声にすらならなかった。


 一方、ディランは湧き上がった怒りと欲望の赴くままに、エレーナの優美な首筋に舌を這わせ舐め回し始めた。

 甘い香りと柔らかな肌を存分に味わいながら、シミひとつない綺麗な肌が唾液で汚れていくさまに異様な興奮を覚えていった。


 エレーナは首と耳に舌が這う度に、まとわりつく唾液とピチャピチャという音に体をビクビクと震わせた。

 舌がどんどん胸元へと迫ってくるのを感じると、押さえつけられていない左手をなんとか動かしてディランの顔を押しのけようとしたが簡単に叩きつけられた。


 この瞬間、エレーナはディランがこれまで自らと勝負をしてきた数々の勝負事に手加減をしていたのだと分かった。


「エレーナには勝てないよ」

 ディランはいつもそう言っていたが、彼女に勝ちを譲っていたのだった。


 女の腕力では、どうやっても男の腕力には勝てないということを強烈に思い知った。嫌がれば嫌がるほどに男を興奮させていくことにも愕然として、何も出来なくなった。

 さらに、この男が友達だったということも、余計にエレーナを怯えさせる要因となった。


 ディランはエレーナが抵抗する力を失ったのを感じ取ると、残忍な笑みを浮かべた。

 美しい肌を舐めるのを止めて、すっかり恐怖で大人しくなった女の顔を見下ろした。


「やめ…て…。もう…やめて…ください…。

 おねがい…します…」

 と、エレーナは泣きながら言った。


 ディランはその涙を見ると、泣きながら別れを言いにきたエレサの顔が浮かんだ。

 ようやく正気に戻ると、エレーナから慌てて離れた。


 エレーナは引きちぎられたブラウスの布をかき集めて胸元を隠した。たくしあげられたスカートを下ろすと、怯え切った目でディランを見つめた。

 エレーナの涙が頬を伝うたびに、ディランは自らが恐ろしくなった。一生消えない傷を、彼女に負わせたのだから。

 酒に酔っていたのも正気でなかったのも、陵辱をした理由にはならない。全くならない。

 全ては鬼畜な陵辱者に責任がある。しかし、男は罰を受けることを拒んだのだった。


「泣くぐらいなら…もっと抵抗しろよな。

 死ぬ気で抵抗しろよ…被害者面しやがって…お前も…内心では喜んでたくせに。 

 いやいや言いながら…どうせ…感じてたんだろう」

 と、ディランは訳の分からないことを呟いた。エレーナが死ぬ気で抵抗したら、頭に血がのぼって殺していただろう。


「お前が悪いんだ!

 お前が俺を誘ったんだからな!

 男の家に女が1人でのこのこ来るなら、ヤラれて当然だろうが!お前だって、俺とずっとヤリたかったんだろう!妹がいなくなったその日に誘いに来るぐらいなんだから!

 本当にエレサを思うのなら、お前が行けば良かったんだ!お前が行けば、俺はこうはならなかった!俺はエレサと幸せになれたんだ!

 早く出てけよ!

 俺の目の前から消えてくれ!二度とその顔を見せるな!」

 ディランはそう大声を上げると、手当たり次第に部屋の中の物を放り投げた。


 許されない行為ですら、なんの罪も落ち度もない彼女をさらに傷つけることで自らを正当化し、彼女に原因があるとした。

 恐怖で体を凍りつかせ抵抗する力を奪ったというのに、陵辱者は抵抗を諦めたのなら女も望んだとすり替えることで、強姦ではなく合意があったと都合よく言い放ったのだった。

 

 エレーナはひどいショックで歩くことも出来ず、這うような格好で家を出た。外に出ても、ディランの恐ろしい言葉が追いかけてきた。

 体はずっと震えていたが、ここから早く逃げなければならないとヨロヨロと歩き出した。

 誰かに会わないことを願いながら、自分の家に向かって泣きながら歩き続けた。

 エレーナは家に帰ると、急いでお風呂に入った。

 男の手と舌の感触と唾液、浴びせられた言葉を洗い流そうとしたが、どんなに洗っても洗っても流れ落ちることはなかった。


 男から逃れても、おさえつけられた手首の痛みと体に刻み込まれたあらゆる恐怖は消えることはなかった。

 それは生涯消えることなく、エレーナの心に深く棲みつくのだった。


(胸が…張り裂けてしまいそう。

 友達だと思ってた…。手を貸してくれると思ってた…。

 あんな時間に…男の家に1人で行った私が悪かったの?

 私が…悪いの?

 今まで…あんなに仲良く遊んでいたのに…それなのに無理やりあんな事をするなんて…あんな酷い事を…。

 さっきのような事を…それ以上の事を…エレサが国王にされ続けるなんて耐えられない。

 好きでもない男に…その身を委ねるなんて…)

 と、エレーナは声にならない叫び声を上げた。


 傷ついた彼女に、男が投げつけた恐ろしい言葉が何度も何度も襲いかかってくるのだった。

 それは彼女が「誰か」に言わないよう「自分が悪い」と思わせるように投げつけた言葉の数々だった。


(もう…誰も…信じられない。

 誰にも…知られたくない。

 この事を…思い出すことすら…恐ろしい)

 エレーナは水を出し続けたまま、泣き続けたのだった。



 それからエレーナは何日も何週間も部屋の隅に蹲りながら、エレサのことを思って泣き、あの夜の事を思い出しては怯え、自らの運命を呪い続けた。


「あの時、どうすれば良かったのだろうか?」という答えのない問いを、何度も何度も繰り返していた。

 日が経つにつれて自責の念ばかりが大きくなり、何もかもが彼女を傷つけるのだった。

 時は、何も解決してくれなかった。

 全てが怖くなり、声を上げて笑うことも、外に出ることも出来なくなり、人を信じることが出来なくなった。

 誰からも傷つけられずにすむ部屋から出ることなど、エレーナには出来なかった。


 そんなある日、このままではいけないと思った母親に引きずるようにして町へと連れて行かれた。

 町は、年に一度のお祭りをしていた。

 明るい音楽が鳴り響いたが、エレーナは暗い顔をしていた。誰かが自分に起こった事を知っていて、好奇の目で自分を見ているような気がしてならなかった。

 さらに酒を飲んでいる男やあの日のディランと同じような服装をしている男を見るだけで、彼女の体は震えてしまうのだった。


 母親はそんな娘を心配そうな目で見ていた。

 気分が明るくなるように綺麗な服を買おうと店に入ったが、エレーナは下を向いたままだった。

 その金の全てが、エレサの犠牲によってえられたものだと知っているのに喜べるはずもなかった。

 次々と服を娘にすすめる母親をおいて、エレーナは店を出た。母親も急いで店から出てくると「食事にしましょうか?」と娘の手を取ったが、我慢ならなくなったエレーナはその手を振り払った。


「少し…1人にして欲しい」

 エレーナはそう言うと、母親に背を向けて歩き出した。


 エレーナは地面に散らばっている美しい花々を見ながら歩き続けた。フラワーシャワーとなったものだろう。


(そういえば…昔…エレサとディランと一緒に…)

 エレーナはそう思うと、この町で一番高い塔を目指してフラフラと歩き出した。


(あの塔から飛び降りて…死んでしまう。

 もう生きていても仕方がない。

 誰か…助けて…。

 もう…何も…思い出したくない)

 エレーナは塔を目指しながら道の隅っこを歩いていると、風に吹かれてヒラヒラと白い紙が降ってきた。


 エレーナの足元に落ちると、その白い紙に書かれた文字が目に飛び込んできた。

 エレーナが顔を上げたちょうどその時、薄いピンクのワンピースを着た可愛らしい少女とすれ違った。エレサが着ていたデザインによく似ていた。エレーナは少女を振り返って、見えなくなるまで後ろ姿を眺めていた。

 すると、もう聞けなくなったエレサのさえずるような可愛らしい笑い声が、風に乗って聞こえたような気がした。


(私は…一体…何を…?こんなことをしていては、ダメだわ。

 ここで死ぬぐらいなら、戦い抜いて…死ぬ方がいい。

 そう…エレサも宮殿で泣いている。きっと…私のように…助けを待っている。

 ならば、私が、助けないと!

 コレなら、エレサに近付くことが出来るかもしれない。

 いいえ、やるしかない!)

 エレーナは覚悟を決めると『弓兵募集』と書かれた白い紙を握り締めた。


 オラリオン王国は、世界を救った弓の勇者を輩出した国である。騎士や兵士でなくとも、男は弓を扱うことが求められていた。

 エレーナの父親も弓を持っていた。

 父親に才能は全くなかったが、エレーナは何度か父親と弓の練習するうちに、すぐに父親よりも上手になったのだ。

 父親はその才能に驚くと、エレーナに自らの弓を与えた。

 エレーナが飛ぶ鳥を射るまでに、そう時間はかからなかった。まさに天賦の才ではあったが、エレーナ自身も弓を楽しく思い、日々の努力を怠らなかった。


(剣や槍では、絶対に男に敵わない。

 力ではどう足掻いても、男に負けてしまう。その事を、嫌というほど実感させられた。

 弓に求められるのは、動く的を射るための集中力と精神力、素早さと身軽さ。弓なら…どうにかなるかもしれない。いえ、力を手にしてみせる。

 この国の騎士団には女性もいるし、ソニオ王国の騎士団ほど野蛮ではないと聞いたことがある)

 エレーナはくるっと向きを変えると、追い風に吹かれながら来た道を走って行った。


 重苦しい気持ちはまだまだ残っていたが、戦うことを決意したエレーナに吹く風は心地良かった。

 青い顔をしながら娘を探している母親を見つけると、母親の手を取り、急いで家へと帰って行った。


 エレーナは部屋の鏡の前に立つと、長くて美しい茶色の髪を撫でた。エレーナにとって髪は誇れるものだったが、今となっては忌々しいものでしかなかった。

 エレーナは長い髪を一つに束ねると、ナイフを取り出し、一気に切り落とした。


(これでいい。

 これでもう私に女としての未練はない)

 エレーナは鏡に映るボサボサの髪をした自分を見ても後悔はなかった。自らをさらに美しくさせる化粧道具と髪飾りの全てを処分した。


 朝から晩まで弓の練習に励むと、名前を「エマ」と変えて試験を受けた。

 エマは見事合格し、騎士団の兵士となった。騎士団は5軍に分かれていて、それぞれの軍団の隊長の下に騎士と兵士がいるのだった。

 エマは持ち前の勤勉さで、辛い練習に励み続けた。兵士となってからも積極的に指導を仰いで実力をつけていき、徐々に頭角を現していった。


 しかしエマの溌剌さと実力は、騎士団の一部の男の兵士からは嫉妬の対象となっていくのだった。

「女のくせに生意気だ。

 どうせ色目をつかったんだろう。

 夜に上官の屋敷から出てくるのを見た。

 戦場ではいつも男の後ろに隠れやがって」

 エマは陰湿な嫌がらせと、根拠のない誹謗中傷に耐え続けた。


 戦場でも目覚ましい活躍をするようになると、第1軍団騎士団隊長に武勲を称えられて騎士となった。

 さらに戦死した隊長の後任となり、女性として初めて隊長にまで上り詰めたのだった。

 これ以上はない名誉なことだった。

 すると嫉妬のあまり陰口を叩き、悪評を流していた男の兵士は自らの立場が危ぶまれることを恐れて静かになっていった。


 さらに美青年のような凛とした佇まいが国民の女性から人気を集めていき、やがては女性だけでなく多くの国民から愛されるようになった。



 そして、ついにエマに「その時」が訪れる。


「オラリオン王国 第3軍団騎士団隊長に新たな任務を言い渡す。世界を救う為にダンジョンに潜り、魔物を全滅させて、魔王を封印したクリスタルを破壊し、その破片を持ち帰ってくるのだ!

 さすれば、望む褒美を与えよう」

 国王は玉座に座ったまま、尊大な表情で騎士を見下ろしながら命令した。


「御意にございます。

 この命にかえましても、その任務を果たしてみせましょう」

 エマは深々と頭を下げたまま大きな声で答えた。


 国王が妾であるエレサを褒美として騎士に渡すとは到底思えなかったが、光が射したような気がしてならなかった。


(待ってて、エレサ。ついにこの時が来たわ!

 必ず助けだしてみせるから!)

 エマの心は激しく高鳴った。


 殺したいほど憎い男を目の前にしながら、エマはいつものように心を押し殺した。

 髪を短く切り体格も変わり凛々しい姿となったエマを「エレーナ」だとは、国王は全く気付かなかった。

 そもそも、あれからもいろんな村から美しい娘を妾として連れてくることに情熱を注いでいる国王は、数年前に手に入らなかった村娘を覚えてもいなかった。


 エマは騎士となってから、国王の蛮行をさらに知ることとなる。


(国王は狂っている。

 そして、私はその狂った国王の命令で弓を引いてきた。

 その先にいるエレサのために。こんなにも汚れた手を、エレサはどう思うかしら?

 今回のことだって…そうよ)

 と、エマは苦々しい気持ちになった。


 ダンジョンのクリスタルを破壊するにしても、魔物の存在は不確かだった。

 そのような歌が流行ると、国中を探し回って数名の騎士が魔物を討伐しようしたが、不審な足跡すらも見つけ出せなかった。


 けれど、国王の側近たちは口を揃えて「見た」と言う。


(存在しているかも分からない魔物を全滅させろと命令するなんて、本当に馬鹿げた話だわ。

 原因が分かっていないのに、昔の事を引っ張り出して、勇者をまつりあげてダンジョンに向かわせる。

 国王の狙いは…一体何だというのだろう…?

 そして馬鹿で好色な国王の命令のままに動くしかない勇者。

 これが…勇者ですって?)

 エマは外で激しく吹き荒れる風の音に、国王が悪態をつくのを聞いていた。それは、窓ガラスが割れそうなほどに荒々しい風だった。


(私に起こった事は、この国ではよくある話。

 しかし経験した本人にとっては、よくある話なんかじゃない。耐え難くて、受け入れられるものではない。

 だから、私は、戦い続けることにした)

 エマは国王が苛立ちながら玉座の間を出て行くと、スクっと立ち上がった。


(何が勇者よ!

 こんな馬鹿げた命令に従う勇者なら、誰でもなれるわ!

 危険な魔物なんて、そもそもいないんですもの。ただイタズラに時をかけて、勇者はダンジョンに向かうだけ。

 本当に、呆れるわ。

 他の勇者だって、どうだっていい。

 こんな馬鹿げた勇者ごっこをする男なんか信用出来ない。

 私のように…ロクでもない人間なんだわ)

 エマは心の中でそう吐き捨てながら、玉座の間をスタスタと出て行った。

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