第29話 兆候
アンセルに生じた変化は日に日に激しくなるばかりだった。両腕の激痛はほとんど止むことはなく、何かが生まれようとするかのようにドクンドクンと脈打つのだった。
それは弓に触れるたびに、アンセルを強烈に襲うのだ。弓の稽古が終わると、マーティスが決まってアンセルの腕に触れるようになった。
すると数時間は和らぐが、寝る時になると目を覚まし暴れ出すのだった。
凄まじい激痛でベッドの上をのたうち回っていると、アンセルは何かに没頭することで、束の間でもいいから激痛を忘れられるのではないかと考えるようになった。
アンセルはのっそりと起き上がると、剣を握り無我夢中で素振りをしたり体を動かした。深夜にもなると体は疲れ果て、このまま眠れるように願ったが、どうしても眠ることが出来なかった。
こうしてアンセルの眠りは妨げられ、心と体の両方を休めさせようとはしなかった。
そういう日が続くと、アンセルから漂う雰囲気は暗いものへと変わっていった。以前のように明るい表情をみせることはなく、目は血走り濃いクマが出来ていた。
剣の稽古での目つきも異様なものとなっていった。
アンセルの腕はみるみる成長していき、ミノスと互角、あるいはそれ以上の剣さばきをする時もあったが、何か恐ろしい力が働いているかのように、上達は少し早すぎるものがあった。
剣を握る時でさえ、腕の震えは時折抑えのきかないものとなり、顔を恐ろしいほどに歪めさせた。
アンセルは今も見事な剣さばきを見せたが、ミノスを見つめる目は苦しんでいた。
「アンセル様、とても上達されました。
もう剣に対する恐れも見られません。
そう…アンセル様は恐れを乗り越えられる方です。どのような恐ろしい闇でも、光にかえることが出来ましょう。
ところで、体は大丈夫ですか?
日々の鍛錬で疲れていませんか?何か、変わったことはありませんか?」
と、ミノスは言った。
その表情はアンセルを心から心配していて、苦しみを打ち明ければ、なんらかの救いの手を差し伸べてくれるだろう。
「あの…」
アンセルが口を開こうとすると、急に頭がグラグラと揺れてフラフラしながら目を閉じた。
アンセルの手から、剣が滑り落ちた。
『キサマの苦しみは、キサマ以外に取り除けるはずがない。
それすら自らの力で乗り越えられぬ男に、仲間を救うなど出来るはずがない。
それで魔王とは…なんと…滑稽よな』
その言葉が脳裏に響くと、アンセルは苦しみの声を発した。
「アンセル様、大丈夫ですか?」
ミノスは剣を鞘に納めると、慌ててアンセルの元に駆け寄った。崩れ落ちていくアンセルの体を支えると、ガタガタと震えている両腕からは燃えるような熱を感じた。
アンセルの顔は真っ青だったが、アンセルは「大丈夫です」と繰り返しながらヨロヨロと剣を拾い上げた。
「少し…疲れが出ただけです。
なんでもありません。稽古を続けましょう」
と、アンセルは言った。
振り下ろされる剣を防ぐ度に、アンセルの剣を握る両手には力が入っていった。
全てを乗り換える為にもっと力が欲しいと願うと、この20階層にやって来る勇者をも打ち負かしたいと思うようになった。
力で捩じ伏せれば、事が上手く運ぶだろう。
それは、かつての魔王の片目を射抜いた弓を手にしたからなのかもしれない。
今度こそ人間ではなく魔物が勝利しなければ、ダンジョンの平和がまた脅かされるようになるかもしれないと心の奥底では思っていたのかもしれない。
(力が欲しい…力が欲しい…。
もっとだ…もっと…絶大な力が…)
激しい欲望に囚われると、柄を握る手にはますます力が入るばかりだった。
(じゃないと…みんな…殺される。
もっと…絶大な力が欲しいんだ!)
本来の戦い方を忘れると、アンセルは心の中でそう叫んでいた。
突然、聞こえるはずもない弓弦の音が聞こえ、広場に漂う空気に血の臭いを感じ取った。
すると、アンセルは轟くような声を発した。
かつての20階層に漂っていた憎しみの感情が湧き立つと、振り下ろされたミノスの剣を床に叩きつけた。
それは、ミノスの剣を折るほどの力であった。
凄まじい金属音が広場の扉を開け、20階層中に響き渡り、ダンジョンを震えさせるほどだった。
アンセルは大きく目を剥き、かつての剣の勇者が握っていた剣を見つめた。剣が転がっている床は血にまみれていて、人間のように思える黒い影が倒れていた。
輝く剣ですら全く相手にならず、彼が力を望むのならば、今のように絶大な力を手にすることが出来るだろう。
アンセルは何もかもが恐ろしくなり、その場にストンと腰を下ろした。
ミノスは床に転がった剣を拾い上げて、その剣身を見つめた。銀色の剣身が恐れをなしたかのように色を薄めていく。
(やはり…そうでしたか。
このままでは…恐ろしいことになる)
いつからか抱いていた不安が、その色の変化によって、近いうちに現実のものになるとミノスは感じたのだった。
「剣の稽古はこれまでとしましょう。お疲れでしょうから、休憩をとり、先に食事になさって下さい。
それから魔術を施し、弓の稽古といたしましょう」
ミノスは剣を鞘に納めながら言った。
「は…い」
アンセルはヨロヨロと立ち上がった。そう答えるのが精一杯だった。汗をびっしょりとかき、立っているのもやっとだった。
稽古の様子を見守っていたマーティスはアンセルのもとまで駆けつけると、自らの肩を貸してアンセルの体を支えた。
「アンセル様、部屋まで一緒に行きましょうか?」
マーティスがそう言うと、アンセルは顔を下に向けたまま首を横に振った。
自分で歩いて帰れもしない男に、仲間が守れようか?と、誰かに言われたような気がしてならなかったのだ。
アンセルは壁に手をつきながらヨロヨロと戻って行き、やっとの思いで部屋にまで辿り着いた。
アンセルは椅子に崩れるように座ると、どんどんオカシクなっていく自らを恐ろしく思いながら「苦しい」と何度も口にして目を閉じたのだった。
一方広場では、ミノスとマーティスが難しい顔をしながら低い声で話し合っていた。
マーティスが跪いて祈りを捧げると、ミノスもまた同じように跪いて祈りを捧げた。
広場が少し暗くなると、ミノスは立ち上がり剣を鞘から抜くいて剣身に刻まれた文字を見つめた。文字は煌めき、その存在を知らしめた。
「時が来ました」
と、ミノスは言った。
すると、その言葉に応えるように、一陣の風が吹いたのだった。
その瞬間、ミノスはかつての20階層の幻を見た。漆黒のドラゴンと勇者の幻を見ると、ミノスは大きく頷いたのだった。
※
アンセルが目を閉じながら息を荒げていると、体はどんどん重たくなっていき両腕がまた熱を帯び始めた。
苦しそうに顔を歪めていると、部屋のドアをノックする音がして誰かが入ってくる気配がした。
アンセルが少し目を開けると、そこにはリリィが立っていた。
「アンセルさま…お返事がなかったんですけど、勝手に入りましたよ。食事を、お持ちしました」
リリィは食事をテーブルの上に置きながら言った。
「あぁ…ありがとう」
アンセルは小さな声でそう答えた。
リリィは心配そうな目でアンセルをしばらく見つめていたが、あまりに疲れ切っていたので、そっとしておいた方がいいように思った。
リリィはペコリとお辞儀をすると、アンセルに背中を向けて部屋を出て行こうとした。
するとアンセルは急に腕を伸ばして、強い力でリリィを抱き寄せた。腕の中に抱き締めると、リリィからはいい香りがした。苦しみを忘れさせてくれるような優しい香りだ。
その香りを全身で感じたくなると、アンセルはさらに強くリリィを抱き締めた。
「行かないでくれ。側にいてくれ」
アンセルはそう言うと、リリィの腰に手を回した。
「あっ…アンセル…さま?」
リリィが困ったような声を出すと、アンセルは慌てて引き離した。
「いや…なんでもない。ごめん。戻ってくれ、早く。
お願いだ」
アンセルは顔を見られないように両手で隠しながら言った。
「大丈夫ですよ…アンセルさま。
リリィは、ずっと側にいますから」
リリィは優しい声でそう言うと、下を向いているアンセルの頭を撫で撫でしてから戻って行った。
(何をしようとしたんだ…俺は。
自分が苦しいからって…リリィを使って忘れようとするなんて。そんな風に…リリィを扱おうとするなんて。
こんなの俺が…望む形じゃない
そうだ…。前も…そうだった。
いろんな欲にまみれて、自分がオカシクなっていく…)
アンセルは深い溜め息をついてから顔を上げると、リリィが運んできた豪華な食事を見つめた。
栄養が豊富な食材で作られ温かな湯気も上がっていたが、それを見るアンセルの心は苛立っていった。
もともと少食であり、量が増えてからはまた苦痛になっていた。リリィが作った食事だとしても、量が多すぎるから辛くてたまらない。
戦いに耐えられる体を作る為にと我慢しながら食べていたが、もう我慢の限界だった。
(こんな時に…飯なんか食えるわけないだろうが。
捨ててしまいたい。俺の代わりに誰かが…食べてくれたらいいのに…)
この時のアンセルは心底そう思っていたのだった。
※
その後の魔術で見える光景にも、変化が起こった。
かつての20階層がよく見えるようになり、ついに弓の勇者の姿を見たのだった。
かつての弓の勇者は雄々しいというよりも、いかにも誠実で真面目そうな好青年だった。背が高く、くっきりとした二重の碧眼は希望に満ち溢れて光り輝いていた。
けれど時間が経つにつれて、顔は蒼白となり絶望の色が浮かび出した。
勇者は自らの弓を投げ捨てて頭を抱え込むと、半狂乱しながら大声で何かを叫び出した。かつての20階層で響き渡っていたのは、弓の勇者の悲鳴だったのだ。
何を叫んでいるのかまでは聞きとれなかったが、首を激しくかきながら暗い淀んだ表情で膝をついて、立ち上がることもなくガタガタと震え始めた。
そして震えている弓の勇者の前には、血を流して死んでいる剣の勇者の死体が転がっていた。
友の死体を見つめる弓の勇者は、もう勇者ではなかった。
望みを失い絶望した男として、アンセルの目に映った。
この世界に伝わっているような英雄譚の男とは、とても思えなかった。
そんな弓の勇者を見ていると、アンセルは煮え繰りかえりそうなほどの憎しみと怒りで一杯になっていった。
こんな男が「勇者」であるはずがない。一体、誰を救おうというのか?
勇者を忌々しいと思う気持ちが広がると、人間そのものを憎らしく思った。弓の勇者に失望したのだ。こんな男の弓を握ることすらも穢らわしい。
アンセルの両腕がガタガタと震え出すと、マーティスの合図によって目を開けたが、勇者という人間に対して彼は深い絶望と諦めの感情を抱いたのだった。
深い絶望と諦めの感情は黒い渦を巻き、アンセルと一つになろうとするかのような黒い影となったのだった。
※
その後の弓の稽古で、時折弓の勇者の顔を思い出すと、さらなる激痛が両腕に走るようになった。
それでも震えながら弓を手にして、矢は番えずに弓を引く動作を繰り返す練習に励んでいた。
剣の稽古とは違い、弓の稽古は何の意味もなく、少し馬鹿馬鹿しささえ感じた。
それは弓の勇者が、あまりに絶望した男だったからなのかもしれない。片目を射ぬけたことすら運が良かっただけなのかもしれないと思うようになった。
アンセルは弓を見ながら溜め息をつき、練習する意味が見いだせなくなっていった。
「アンセル様、ちゃんと眠れていますか?」
ミノスはアンセルから弓を取り上げながら言った。
アンセルは何も答えなかった。そして「弓を返して下さい。稽古を続けましょう」と言うこともなかった。
「私はアンセル様に今まで厳しい事を申し上げてきました。
アンセル様なら乗り越えられると思ったからです。
仲間を守るという熱い思いを胸に、アンセル様はいくつもの試練を乗り越えられ、強くなりました」
ミノスはそう言うと、アンセルの目に弓が入らないように紫色の布で隠してから、またアンセルの方を向いた。
「今のままでは心も体も休まりません。ちゃんと眠れていないのでしょう。
ずっとアンセル様の腕が震えています」
と、ミノスは言った。
その瞳は息子を見るかのような優しさで溢れ、何も話そうとはしないアンセルの肩を優しく撫でさすった。
父親のような手の温もりを感じると、アンセルは体を震わせながら不安な感情を吐露し始めた。
「はい…両腕の激痛が止まりません。
夜になるとひどくなり、ほとんど眠れません。疲れたら眠れると思い、ずっと体を動かしていました。
これは…俺が弱いからでしょうか?
時間が経ち、勇者が近づいてくると思い、心が震えているからでしょうか?
自分でも…よく分からないのです。俺が強ければ、こんなことにはならなかったでしょう。
もっともっと力が欲しい…絶大な力が欲しいのです。
さもなくば俺は痛みに負けて、恐ろしい事をしてしまいそうです。
この正体の分からない痛みに悩まされ、心も体も支配されてしまいそうです」
「アンセル様、それは弱さではありません」
「いいえ…俺がもっと強ければこうはならないはずです。
もっと、もっと、強ければ。こんな風に震えることはないはずです!」
アンセルが大きな声を上げると、金色の瞳は異様な光を放ち始めた。
「失礼します」
ミノスはそう言うと、アンセルを息子のように優しく抱き締めた。
「大丈夫です。アンセル様は強くなりました。
剣を握り、仲間を守る為にとても強くなりました。本当です。着実に前に進んでいます。
絶大な力などなくても、本来の力を出せれば、大切な仲間を守り抜けます。
アンセル様として戦い抜いて下さい。
当初の決意を忘れないように。
私はアンセル様を必ずお守り致します。全てを背負わせは致しません。どうか、ご自身を見失うことのないように。
今や、アンセル様は立派な魔王であらせられます」
ミノスは力強く言うと、アンセルの両腕の震えを止めようとするかのように腕に触れた。
ミノスはアンセルの顔を見つめた。アンセルは暗く沈んだ顔をして、途方もなく大きな影にのまれようとしていた。影は闇となり、アンセルの輝きを消してしまうだろう。
アンセルは戦わなければならないが、あまりに心と体が疲れ切っていた。
「大丈夫ですよ。私達が、お側におります。
どうか、自信をお持ち下さい。
自信を持たねば、体がどんどん蝕まれていきます。共に立ち向かいましょう」
と、ミノスは言った。
その言葉に、アンセルは少し微笑んだ。
自らの腕の震えを抑えようとするかのように腕をさすると、弓の勇者を憎らしく思おうとする恐ろしい幻を消し去ろうとするかのように頭を振った。
「分かりました。ありがとうございます」
と、アンセルは言った。
その夜、アンセルの両腕は凄まじい炎で焼かれているかのような熱を帯びてかから、氷のように冷たくなっていった。
アンセルが激痛で意識を失うと、黒い影が目を覚まして彼を見下ろしたのだった。
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