第19話  鎖帷子と無様な稽古

 

 それから数日後、トレーニングと袋を背負い階層間の往復を終えたアンセルが部屋で素振りをしていると、ミノスが突然現れた。

 ミノスは銀色に輝く鎖帷子を手に持っていて、腰には剣を差していた。今から鎖帷子を着て真剣での稽古が始まるのだと分かると、アンセルの全身に鳥肌が立った。


「アンセル様、鎖帷子が出来ました。広場に行きましょう」

 と、ミノスは言った。


 広場に移動するとマーティスが待っていて、マーティスはアンセルに向かって軽くお辞儀をした。

 ミノスは広場の扉を閉めると、アンセルに鎖帷子を手渡した。アンセルは鎖帷子を広げ、形と手触りを確認した。鎖帷子の形は歪で、本の挿絵で見たことがある鎧とは違って頑丈さはないように思えた。これを着ていたとしても、剣で斬り裂かれたら死んでしまう気がしてならなかった。

 もう少しどうにかならないものかとアンセルが暗い表情をしていると、ミノスが口を開いた。


「形は歪ですが、何の問題もありません。この鎖帷子がアンセル様の身を守ります。

 衣服の下に着ていただけたらと思いますが、とりあえず上から着て下さい」

 と、ミノスは言った。


 アンセルは言われたとおり服の上から鎖帷子を着てみることにした。思ったよりも軽くて動きやすく、体を自由に動かすことが出来た。鎖帷子はきらきらと美しく輝いたが、それを着ている男の心は暗かった。


(こんなもので…本当に身を守れるのだろうか)

 アンセルは小さく息を吐いた。不安によるものなのか、両腕がカタカタと震えていた。


「アンセル様」

 マーティスはアンセルの目に不安の色が浮かんでいるのを見ると、穏やかな表情を浮かべながら声をかけた。


「美しい鎖帷子です。リリィが心を込めて作ったものです。不安に思われるかもしれませんが、作る者の思いが込められています。

 思いは、力になります。アンセル様は愛する仲間の思いを纏ったのです。お互いの思いが合わされば、より強いものとなってアンセル様を守ってくれるでしょう」

 マーティスがそう言うと、アンセルは少し考え込んでから頷いた。


「分かった。ありがとう」

 アンセルがそう言うと、マーティスはアンセルの震えている両腕を掴んだ。


「アンセル様、腕が震えていますよ。まだ何も始まっていないのですから、恐れることはありません。

 それに、僕もいます。大丈夫です。

 アンセル様、真の力を引き出すのです。鍛え続けば、必ず強くなりましょう。

 しかし腕や足が斬り落とされた場合は元には戻せませんので、気をつけて稽古をして下さい。

 斬り傷ならいくらでも回復出来ますが、部位が離れてしまうと無理ですから」

 と、マーティスは言った。

 

 アンセルはようやく少し安心出来たところだったのに、また深い谷底に突き落とされたような気がした。

 いつもの冗談だろうと思いながらマーティスの顔を見たが、その瞳は真剣だった。悪い冗談でもないと分かると、アンセルは背筋が寒くなっていった。


「さっそく始めましょう。剣を構えて下さい」

 ミノスは広場の中央で立ちながら言った。


 アンセルは目に不安の色をまた浮かべながら剣を構えた。剣の稽古をする男の目ではなかったが、ミノスは何も言うことなく剣を鞘から抜いた。

 するとアンセルの目に、剣を構えたミノスが異様に大きく映った。アンセルは剣を握ったまま後退り、悲鳴でも上げるかのように口を小さく開けたのだった。

 銀色に輝く鋭い剣先を見ているだけでアンセルは怖くなり、その手から剣を落とし、ヘナヘナと膝をついていた。再び剣を握って立ち上がることも出来ずに、ガタガタと震え出したのだった。これほど剣の稽古に場違いな男はいなかった。


(足が震えて…立てない。

 恐れるな…立ち上がれ)

 アンセルは心の中でそう叫んだが、心と体に広がっていく恐怖が虚しく勇気を飲み込んだのだった。もともと勇気すらなかったかのように、開いた口を閉じることすら出来なくなっていた。


 ミノスは何も言わずに、アンセルを見下ろしていた。

 赤い瞳は厳しく光り、目の前で膝をついている男に無言で、その理由を問い続けていた。

 赤い瞳に映る惨めな自分の姿を見たアンセルは恥ずかしくなり、ぽっかりと口を開けたまま下を向いたのだった。


『キサマは…弱いな』と囁く声が聞こえると、転がっている鋭い剣身に無様な自分の姿が映っているのが見えた。その姿は、その声が言うように、弱いだけの男だった。


「顔を上げなさい。

 今すぐに剣を持って、立ち上がりなさい」

 と、ミノスは低い声で言った。


 けれど、アンセルは顔を上げることも剣を握ることも出来なかった。

 1人でする素振りの稽古と、相手を前にしての真剣での稽古は全く違っていた。その場の雰囲気も、恐ろしさも、何もかもが想像を遥かに超えていた。

 斬られるかもしれない。

 殺されるかもしれない。

 アンセルはすっかり恐怖に打ちのめされていた。


「アンセル様、顔を上げなさい。

 今すぐに剣を持って、立ち上がりなさい。

 立ち上がることが出来ないのなら、右足を斬り落とします」

 ミノスはそう言うと、下を向いたままのアンセルの目に入るように鋭い剣先をちらつかせた。


 アンセルは体を震わせながら恐る恐る顔を上げた。自分を見下ろすミノスの表情は厳しかった。体を斬り裂かれたかのような衝撃が走り、抱く恐怖はますます強くなるばかりだった。


 アンセルが剣を握り立ち上がる気配がないと分かると、ミノスはアンセルの右足目掛けて勢いよく剣を振り下ろした。


「ひぃぃっ!」

 アンセルは叫び声を上げながら、顔を背けて目を瞑った。今すぐに剣を握り、振り下ろされた剣に立ち向かうことなど考えられなかった。


 力の前に、彼は怯え、何もすることが出来なかった。


 しかし、アンセルは右足に痛みを感じることはなかった。

 おそるおそる目を開けると、ぎりぎりのところで剣が止められていたのだった。


「何をしているのですか?」

 と、ミノスは剣を向けながら言った。


 アンセルはミノスの激しい怒りを感じると、さらに臆病に震え上がった。喉はカラカラに乾いていき、何も答えることなく歯をガタガタさせるだけだった。


「何をしているのですか?」

 ミノスは今にも爆発しそうな怒りを抑えながら、アンセルに問い続けた。


「すみ…ません…」

 アンセルはようやく小さな声でそう答えた。


「誰に謝っているのですか?」


「すみ…ません…」

 アンセルはそう言われても、ヘコヘコと謝り続けることしか出来なかった。

 ただ…この状況から逃れたかった。逃れられるのならば、どれほど「すみません」と口にしようが構わなかった。たとえ、自分がどれだけ無様であろうとも。


 今まで剣を握ったことも戦ったこともない男が、輝かしい剣を握っただけで勇猛果敢な男になれるはずなどなかった。

 まだ逃げたいという気持ちが、心の奥底にはあるのだろう。

 さらに自分の弱さを痛感させられていた。

 どれだけトレーニングに励もうが、それは自らとの戦いだけであり相手はいなかった。誰かと戦うということについての心構えなど、アンセルには全く出来ていなかった。

 さらに恐怖心によって、アンセルを支えていた「仲間を守る」という言葉も、すっかり消え去っていた。



「アンセル様の言葉を信じ、このダンジョンを守ろうと必死に戦っている仲間にですか?」

 と、ミノスは言った。


 アンセルの目はみるみる大きく見開かれていった。演説後に見た希望に満ちた仲間の表情をようやく思い出した。仲間を守る為に強くなろうと決めたのに、このざまだ。

 自分には高すぎる理想を抱いたが、これが現実だった。

 結局は打ち負かせない自分の弱さを思うと、アンセルは恥ずかしくなり、このままどこかに消えてしまいたいとさえ思いながら下を向いていた。


「下を向くなと言ったはずです!

 アンセル様の覚悟は、その程度だったのですか?!

 魔王は勇猛果敢に勇者と戦ってダンジョンを守ってくれるという希望を抱きながら、彼等は日夜働き続けています。アンセル様が、そう宣言したからです。

 その姿を見たらどう思うでしょうか?

 出来もせぬのに、何故彼等に希望を抱かせた!

 立てもせず、剣も握らず、恐怖で震えているだけの男は、魔王ではありません。

 そのような無様さを勇者にさらし、後世まで伝わる笑い者になる前に、魔王としての尊厳を守る為に、今ここで私が19階層主の責として殺してさしあげましょう。

 立ち上がれもせず、剣も握れない男に、これ以上稽古をしても無駄です。何もする事もなく斬られ、血を流しながら、ここで朽ち果てるといい。

 私が、魔王になりかわり、仲間を守ります」

 ミノスが大きな声でそう言うと、下を向いていたアンセルの手がピクリと動いた。

 自らの手から落とした剣を探すように指が動くと、小さな動きではあったが、ようやく剣を掴んだのだった。


 そして小さな小さな声で「俺だ…」とようやく呟いた。


「何を言っているのですか?

 そのような小さな声では、全く聞こえません」

 と、ミノスは厳しい口調で言った。


「仲間を守るのは、俺だ!

 俺が守ると言っているんだ!」

 恐怖にのまれていた男はようやく目を覚まし、自分がやらねばならないことを思い出した。

 勇気が完全に消え失せる前に彼は戻ってきて、仲間を守る為に、心を燃え上がらせることが出来たのだった。


「ならば言葉ではなく行動で示して下さい。

 自分の決めた事に責任を持つのならば、今すぐに立ち上がりなさい!」

 と、ミノスは言った。


 アンセルは歯を食いしばりながら立ち上がった。立ってはみたものの、まだ足はガクガクと震えていた。体はまだついてはこなかったが、アンセルの心は燃え上がっていた。


(俺が皆んなを守る。ソレを…真実に変える。

 いつまでもいつまでも、こんな風に言われ続けるのは悔しい。自分自身で決めたことだ!弱い心に負けたくない!)

 アンセルはそう思いながら、剣の柄を両手で強く握り締めた。握る剣は冷たかったが、その冷たが目を覚まさせた。


「ようやく目を覚ましましたか」

 ミノスはそう言うと、鋭く光る剣をアンセルに向けた。


(俺だって鍛錬をつんできた。遊んでいたわけじゃない。

 自分の弱さに…打ち勝ちたい…)

 アンセルは深く息を吸い込んでから吐き出した。心を落ち着かせると金色の目が輝いて、体の震えもおさまっていった。


 ミノスはアンセルの瞳の輝きを見ると、2人の様子を黙って見ていたマーティスの方を向いた。


「かしこまりました」

 マーティスはそう言うと、アンセルの元まで歩いて来て白き杖を取り出した。何が起こるのか全く分らないアンセルが驚いた顔をしていると、マーティスがニコリと微笑みかけた。


「我はここに命じる。白き杖よ。

 この者の魂に眠る、気高きドラゴンの血を呼び起こす力となれ。この者の体をあるべき強靭な肉体へと導き、その心に応じて、この者を守る力となれ」

 マーティスがそう詠唱すると、アンセルの体は燃えさかる炎のように熱くなっていくのを感じた。


「えっ?なに?」

 アンセルが驚いた声で言うと、マーティスはまたもや微笑んだ。


「アンセル様、稽古を始めます。構えて下さい。

 私がアンセル様に向かって何度も剣を振り下ろしますので、アンセル様は自らの剣で私の剣を防いで下さい。やがて剣筋を見る力が養われるはずです。

 真剣で稽古を続けていけば、剣への恐怖心が薄れることでしょう。強き者の剣は、凄まじいですから。

 荒っぽい稽古ですが、もう時間がありません。少しでも早く剣と空気に慣れていかねばなりません。

 鎖帷子とマーティスの魔術が、アンセル様を守りましょう」

 ミノスはそう言うと、力強く剣を振り下ろした。


 大きな音を上げて剣は交わり、火花を散らした。静かな広場には耳を塞ぎたくなるような金属音が響き渡った。

 ミノスは休むことなく、アンセルが構えたところに剣を振り下ろし続けた。構えたところに剣を振り下ろしてくれてはいるが、少しでも気を抜けば力におされてミノスの剣が目の前まで迫ってきた。トレーニングをしていない細腕ではひとたまりもなかっただろう。

 アンセルは両手でしっかりと柄を握りながら耐え続けたが、時間が経つにつれて両腕は疲れて痺れ始めた。額に多量の汗をにじませながらも両足に力を入れて踏ん張り続けたが、徐々に後ろへと下がっていった。

 一方、ミノスは力尽くで剣を振り下ろしているわけでもなく、額に汗の一つもかいていなかった。


 広場の中央にいたはずなのに、アンセルはいつの間にか壁際まで追いやられていて後ろはなかった。左足の踵が壁につくと、アンセルは思わず後ろを振り返った。

 その瞬間、ミノスはアンセルの剣を床に叩き落とした。

 そして何としたことか、アンセルの上半身を右斜め上から斬りつけたのだった。

 アンセルはあまりの衝撃に声も出せないまま、後ろの壁にドンとぶつかり崩れ落ちた。大量の血飛沫が上がるかと思ったが、鎖帷子に傷がついた程度で助かっていた。

 鎖帷子とマーティスの魔術が、アンセルの身を守ったのだった。


「今日は、このぐらいにしておきましょう」

 ミノスはそう言うと、剣を鞘に納めた。夢中になっていたので気が付かなかったが、すでに1時間以上が経過していた。


「すぐには誰しも変われぬものです。

 アンセル様、よく頑張りました。

 大丈夫と口では繰り返しても不安と恐ろしさで心が一杯になり、自らに向かって振り下ろされる剣に体が危険を感じたのでしょう。心と体は繋がっていて正直ですから。

 けれど、自らの力で立ち上がれました。

 以前のアンセル様なら逃げ出していたでしょう。

 それが、今までの鍛錬の成果です。

 自信を持って下さい。強くなっています。

 明日も剣の稽古をしましょう。

 アンセル様の状態を見ながら、剣の稽古に変化をつけていこうと思います」

 と、ミノスは言った。


 マーティスは胸を抑えているアンセルの元にやって来ると、静かに腰を下ろした。


「僕の魔術はアンセル様の心で変わります。強大にも、またその逆にも。決して負けてはなりません。

 この魔術は、そう長くは続きません。

 しかしアンセル様が本来あるべき姿へと変われば、僕の魔術など必要ないでしょう。

 先程の一撃は、痛かったですか?」

 マーティスがそう言うと、アンセルは痛む胸をさすりながら頷いた。


「痛みを和らげてあげましょう。

 けれど痛みは、アンセル様を強くします。

 今日は、特別です」

 マーティスは微笑みを浮かべながら詠唱すると、徐々に胸の痛みが消えていった。痛みが消えていくと疲れがどっと溢れてきて、そのまま床で眠ったのだった。


 しばらくして目が覚めると夕食まで時間があったので、ヨロヨロと起き上がった。剣を握ると、明日に向けてまた素振りを始めたのだった。


 アンセルの中で、また一つ、なにかが変わる音がしたのだった。

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