9

 朝――


 バタバタと聞こえてくる物音で遥香は目を覚ました。


 ゆっくりと瞼を持ち上げて、見覚えのない板張りの天井を少しだけ不思議に思う。それから弘貴と旅行に来ていたのだったとぼんやりした頭で考えたとき、少し離れたところから声が聞こえてきた。


「起こした?」


 こわばっているような声だった。


 遥香が上体を起こして声のする方を見れば、すでに支度を整えた弘貴の姿がそこにある。顔に笑顔はなく、どこか気まずそうな様子で、遥香の目を見ようともしなかった。


(……それは、そう、だよね……)


 昨夜を思い出して、遥香の気持ちも沈んでいく。あんなに怒った弘貴は見たことがなかった。幸せな気持ちで旅行に来ていたはずなのに、弘貴にあんな顔をさせてしまったのは、遥香のせいだ。


 遥香は気分でも気がつかないうちに左手の薬指を触っていた。夢の中が幸せだったからこそ、目も合わせてくれない弘貴の冷たい態度が悲しい。遥香のせいだけれど、それでも苦しかった。


「トラブルが起こった」


 弘貴が遥香から視線をそらしたまま告げた。


「え?」


「岡野君から連絡が入った。手違いで得意先を怒らせてしまったらしい。悪いけど、会社に行かなければいけなくなった。夕方には戻ってくるから、それまで一人ですごしてくれないか?」


 弘貴が眉を寄せて、少し早口で告げる内容に、遥香の思考が追いつかない。


(会社でトラブルだから、休みだけど会社に行くってこと……?)


 夕方には戻ると言うから、遥香をおいて帰ったりするわけではない。だが、昨夜のことがあるので、遥香の心は痛かった。まるで、遥香のそばにいたくないから仕事を理由に弘貴が離れていくようで。


 捨てられる、という裕也の声が蘇る。


 忘れたいのに、その言葉がどうしても耳から離れない。


「悪いけど時間がないんだ。じゃあ、行ってくる。ごめんね」


 何も言わない遥香に、弘貴が会話を諦めたように部屋から出て行く。


 行かないで――、思わず言いそうになった言葉は、ぴしゃりと音を立てて閉まった部屋のふすまに遮られて、喉の奥で凍りついた。

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