8
「叩いちゃった……」
湯船につかり、遥香は右の手のひらを見つめていた。
帰宅し、簡単な食事を済ませてお風呂に入るころには、感情の高ぶりはだいぶおさまっていたが、弘貴を叩いた感触がいつまでも手のひらに残っている気がする。
ほとんど力は入っていなかったのだろう。手のひらには何の痛みもない。弘貴も痛くはなかっただろうが、痛みがなかったといって、叩いた事実が消えるわけではなかった。
遥香が反撃するとは思っていなかったのだろう。弘貴の驚いた顔も脳裏から消えなかった。キスの感触も――
遥香はそっと唇を指でなぞる。
無理やりキスをするなんてひどい。けれども、びっくりして、怖かったけれども、これっぽっちも嫌悪感をいだかなかった自分に一番驚いた。
そして、嫌というほど思い知らされた。遥香は、弘貴を好きになりかけているのではなく、すでに好きになってしまっていたのだ、と。
釣り合わない人を好きになってしまったという事実に、茫然とするしかない。見なかったことにできない感情だから、認めるしかなかった。
ぶくぶくと、湯船に沈み込む。
無理やりキスをした弘貴はひどいが、昨日飲みに行ったことで弘貴を傷つけてしまった。遥香は怒られる行動を取った覚えはなかったが、傷つけてしまったのは心が痛い。
(謝らなきゃ……)
なにより、叩いたことは謝罪したかった。
叩くつもりはなかったのだ。ただ、混乱する頭の中で、弘貴の放った「ごめん」という謝罪を許せないと思ってしまった。
キスはひどい。でも、キスのあとに謝ってほしくなかった。まるで、キスは間違いだった、水に流せ、と言われているようで、嫌だった。
だって、水には流せない。なかったことにはできない。
弘貴のことが好きだと無理やり自覚させておいて、その感情に無理やり蓋をしろと言われているようで、どうしても嫌だったのだ。
(明日、謝ろう)
来週になれば、ゴールデンウィークでしばらく会えなくなる。ぎすぎすしたまま連休を迎えたくなかった。
謝ろうと決めると心がすっきりして、湯気で曇った風呂場の天井を見上げて目を閉じる。
そういえば、二回目のキスはコーヒーの味がしたなと思い出して、遥香はのぼせそうになってしまった。
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