第7話 扉を開けて

 淡い光が地下室になだれこみ、無遠慮なミランの声が辺りに響く。


「おい、アレシュ。入るぞ? むしろ入ったぞ。構わんな、別に」


「構う。せめて入る前に扉を叩いて、ついでに三回以上床に這いつくばって、僕を讃える言葉を最低三十個ひねりだしてから入室の許可を取れ」


 アレシュはうんざりとした調子で即答するが、ミランはそれくらいでめげる男ではない。

 片手に角灯、片手に茶器の載った銀盆を手にして、にぎやかに石段を下りてくる。


「そんなことを実際したら貴様は『入るな』と言うに決まっているだろう。だからこれで正解なのだ。それにしても、ここは何度来ても埃っぽいな! 若いくせに、いいかげんこんな穴蔵にこもるのはよせ。健康に悪いぞ、健康に」


 屈託のない調子で言い、ミランは盆を作業台の端へ置いた。

 かちゃん、と高価な茶器が甲高い音を立てるのを聞き、アレシュはほおづえをついたまま恨めしげに彼を見上げる。


「下僕。お前、なんでまだ僕の館にいるんだ? さすがにもう帰ったかと思ってたんだけど」


「あのエーアール派どもに商売道具の札をあらかた駄目にされたからな。作り直すまで危なっかしくて外へは出られん。そんな兄貴を丸腰で百塔街のど真ん中に追い出すほど貴様も鬼畜ではあるまい? あー、いやいや、卑下したり悪ぶったりするのは聞きたくないから黙っていろ。大丈夫だ、お前が外出するときには、俺も一緒に外へ出る」


 ミランはさも当然とばかりに言い、作業台の下から椅子を引きずり出して勝手に座った。あげく、自分のカップにだけお茶を注いで、ざくざく砂糖を入れ始める。

 もはや芸術的なほどの傍若無人さに、アレシュは赤い瞳を冷たく光らせてつぶやいた。


「札を作り直すって話は聞いたよ。だけどそれに一体何日かかってるんだ? 確実にサボってるだろ。お前はそれで自分が生きている意味に疑念を抱いたりしないのか? それと、僕がこの部屋にいるってどうしてわかった?」


「ハナさんから聞いたのだ。彼女はこの屋敷のことならなんでも知っているからな。彼女は素晴らしい才女だぞ。あの小さな体でよく働く。そのうえ焼きたてのパンの香りのようなあの美貌……たまらん。アレシュ、お前もお茶はいるか?」


「いるよ。むしろお前は飲まなくていい。あと、女性をパンに喩えるな。僕の美意識が息絶え絶えだ」


 アレシュが見るからにぐったりして言うと、ミランは器用に片眼を閉じて見せる。


「パンの香りを不快に思う人間は、この世界のどこにもいない。つまりハナさんの美しさは全世界に通用するということだ。どうだ、この秀逸な表現。貴様だけは使ってもかまわんぞ。それとな、この茶はハナさんがわざわざ俺を指名して、淹れてここまで持っていくよう言ったのだ。わざわざ、俺に!」


「……だろうな」


 お前、ハナにこき使われてるんだよ。

 と、わざわざ教えてやらねばならないのだろうか? もしくは気づいているのに喜んでいるのか?


(本当に、理解できない)


 疲れ顔すら震えるほどの色気をにじませるアレシュの前で、ミランは豪快にアレシュのぶんの茶を注ぐ。彼が淹れると、どんな高級品でも野営地で淹れた濃いだけのお茶に見えるのが不思議だ。

 続いて砂糖壺をアレシュのほうへ押しやりながら、ミランはにやりと笑った。


「ちなみにハナさん、怒っていたぞ。ついさっき、貴様が連れこんだ例の魔界の女が『アレシュが消えた』と怒鳴って館中をかき回してな。あまりに暴れすぎたので、ハナさんに排除された」


「え、本当!?」


 排除、と聞くと、ざっと血の気が下がり、アレシュは椅子から腰を浮かせた。

 そのまましばし考えたのち、すぐにめげて魔法書の紙面につっぷす。


「そうか……やっぱりそうなったか。元気そうなひとだったもんなあ……」


「予測できていたならもっと早めにどうにかしろ。日々女と遊ぶくらいしか能がないというのに、女扱いまでへたくそでは人間のクズと呼ぶのももったいなくなってしまうぞ。女と一緒の寝台からこっそり抜け出して、なんでこんなところで昼寝するんだ。理解に苦しむ」


「昼寝じゃなくて読書だ! いいか、ミラン。僕はどの女性も心の底から愛してるんだ。全員を崇拝してるし尊敬してるし幸せにしたい。ただ、ずっとひとりの側にはいられないだけだ!!」


「駄目人間の台詞すぎて一瞬尊敬しそうになるな」


「お前だって、多少でもモテれば僕の気持ちがわかるようになるはずだ。もちろんそんな日は一生こないから、せめて想像力を働かせてみろ。今回だって、僕が何日の間あのひとの横にべったり一緒にいたと思ってる? たまにはひとりにもなりたくなるさ」


 うめくように言い、アレシュは青い硝子に金で薔薇が描かれた茶碗を引きずり寄せた。アレシュはモテる。それはもう、モテる。老若男女、あらゆる趣味の人間に、そして魔界の住人にすらモテまくる。

 全てを魅了するのは彼の生まれつきの能力だ。アレシュはそんな自分のことを愛しているし、自分に魅了される相手のこともまんべんなく愛している。

 だが、悲しいかな。

 アレシュは誰かに独占される続けるには、気まぐれで怠惰すぎるのだった。


 館で暴れたのは、この間アレシュとミランが聖ミクラーシュ教会で助けた女性だ。容貌通り、無垢で無邪気で、敬虔なまでに純粋な感情がくるくる移り変わる様がとっても魅力的なひとだったのに、ハナに追い出されたなら二度とこの館に戻っては来られないだろう。


「やっぱり、僕の顔に惚れるような相手じゃ駄目なのかな。でも僕、顔がよすぎるからな……」


 細く長いため息を吐いてろくでもないことをつぶやき、アレシュはお茶をすすった。


「どうだ、俺の茶。美味いか」


 身を乗り出して目をきらめかせるミランに、アレシュは静かに言う。


「粉石けんの匂いがする」


「何っ!? ばかな……っ、俺の茶は完璧なはず……あっ、そうか! 思えばこのお茶を淹れる前、紳士的にハナさんの容姿を褒め称えたら照れた彼女に粉石けんをぶっかけられたのだ。きっとその石けんが茶器に残っていたせいだ。しかしまあそのくらい気にすることはない。お前は粉せっけんくらいでは死なんだろう。香辛料と思え、香辛料と」


「――ミラン。ひとつだけ約束しろ。いいか? お前がゴミのような茶を淹れるのはお前の勝手だけど。今後僕がひとりでこの部屋にいるときは、邪魔するな」


 少しばかり剣呑な気配を漂わせてアレシュが言うと、ミランは自分のお茶の匂いをかぐのをやめて視線を上げた。少し考えた後、ミランは真顔で言う。


「わかった……とはいえ、今回のようにハナさんに頼まれごとをしたら俺はそちらを優先しかねんぞ。大体貴様、ここにいても調香をするわけでもあるまい。昼寝するくらいなら俺のような格好のいい話し相手がいたほうがマシではないのか?」


「話し相手ならサーシャがいる。今もいたのに、お前が来たから消えたんだ」


「はっ! サーシャか。なるほど? いいか、よく聞け、アレシュ。死んだ人間はよみがえらない。よみがえったように見えたなら、それは幻覚か、どこぞの呪術師の仕業だ」


 ミランは一転して吐き捨てるように言い、茶碗に口をつける。そしてすぐさま変な顔になると、喉を押さえて黙りこくった。彼も、粉せっけん入りの茶をまずいと感じる舌は持っているようだ。

 アレシュはそんな彼をじろりと見上げる。


「サーシャが死んだ後にここへ来たお前に、彼のことをあれこれ言う資格はない」


「いや、言う。これは貴様の兄貴分としての忠告だ。お前は生きている人間をもっと大事にしろ。まずは俺、あとはハナさんだ。特に彼女は、自ら魔界を出てこの屋敷にやってきたという話ではないか。つまりはおしかけ花嫁とも言えよう、羨ましい。実に、羨ましい。あの古い森の奥の沼のような瞳に、突き刺し、えぐり取るかのような台詞の数々……たまらんなあ」


 ミランの表情がみるみる緩んで来たので、アレシュは美しい指で己の黒髪を引っかき回しつつ本のページに視線を戻した。


「ハナはどうせ父さんの香水に惹かれてきた女だ。なんならやるよ」


「何っ、本気か!?」


 声を裏返してミランが叫ぶと、間髪入れずに、ごんっ! と何かが彼の後頭部に当たる。


「っ……! 誰だ!」


 振り返ったミランの足元に、革装丁の大きな本が転がる。

 その本をミランに投げつけた本人は、闇の中にちょこんとひとりたたずんでいた。


「――ハナさん!」


 一転して顔を輝かせたミランを無視し、ハナはアレシュに視線を向ける。

 彼女は地味なドレスにエプロンという、いかにもな使用人服姿の十歳やそこら少女……に、見える。ただし、瞳が年齢不相応に暗かった。

 ミランの言う通り、古い沼のような青緑色に澱んだ目のせいで、その歳にしては奇跡的なまでに整った顔の印象が台無しである。

 さらにもうひとつ、彼女の外見で明らかに異様なのは、頭の両脇、耳の上あたりに、髪を結ってまるめたような立派な羊の角が生えているところであった。

 使用人の帽子では隠しきれないそれ。

 どう見ても、魔界の住人の持ち物だ。


「私を他人のところへやるだなんて、そんな話、ご主人様が本気で言っているわけがありません」


 ぼそり、と告げる暗い声に、蝋燭の炎がゆらりと揺れた。

 まるで彼女からしみ出した暗い気配が闇と化し、蝋燭の炎を押しやったかのような雰囲気だ。

 そんなハナの鋭い視線を受けて、アレシュはあっさり主張を変えた。


「うん、嘘だ」


「アレシュ! あっという間に前言を撤回するな! それでも男か?」


「男だからお前よりハナをとった。こうして可愛いハナを目の前にしたら、下僕にやるなんてあり得ないって気分になったんだ。せめてあと五、六年ぶん育った後に押しかけてきてくれたらよかったなあ、と思うのは本当だけど。ね、ハナ」


 アレシュが赤い目を細めてにっこり笑うと、ハナはかっきり九十度の角度で顔を背け、手に持っていた山ほどの本を床に置く。


「ほんと、ご主人様は人間のクズですね。可愛いだのなんだの、どうせ口先。でも、ハナは別にそれでいいです。あなたが嘘まみれなのは知ってますから」


 淡々と言いながら、彼女は背後の扉を閉めた。

 その扉は古めかしく、百年も前からここにあったのだ、という顔をしている。しかし実はこの扉、さっきまでは存在しなかったのだ。

 ここは地下室。本来は、ミランが入ってきた階段上の扉しかないはずだ。ハナの背後の扉は、奇妙なことに部屋の真ん中に自立している。扉の向こうに壁はなく、ただ舞台装置のように扉だけがある。

 ハナはその奇妙な扉から離れてミランのもとへ歩みよると、無表情のまま彼の足をげしげし蹴り始めた。


「ミラン。あなたはどうしてまだこんなところにいるんですか。お茶だけ出したらあなたは用済みです。ゴミはとっとと帰ってください」


「実に冷徹ですばらしい台詞だが、残念ながら俺はゴミではないぞ、ハナさん。君の蹴りならばいくらだって受けてみせるが、箒で掃き出されたりブラシではたかれるのは遠慮したい。実は――俺にも羞恥心というものがあるのだ」


「何が羞恥心ですか。そのポンコツな頭でどんな恥ずかしいことを考えたんです、この恥知らず。速やかに私の目の前から消え、完璧に見えないところに潜りこんだら静かに死んでください。あなたは冷たいから腐ることはないでしょうし、死体まで抹消しろとは言いません」


「君の願いならなんでも叶えたいのは山々だが、俺はまだ死ぬことはできんのだ。それにしても君の声は、まるで錆びたちょうつがいがぎいぎいいうみたいに心地いいな……」


 ミランは陶然と言い、ハナはそれを氷点下の無表情で見つめたのち、アレシュのほうを向いてぶっきらぼうに告げた。


「ご主人様もご主人様です。自分で拾ってきたものは自分で責任をもって追い出してください。ミランにせよ、昨日連れこんだ魔界の女にせよ」


「そうしたいのは山々だけど、僕は荒事には向いてないんだ。この口は詩を語るためにあるし、この手は優しく女性の手を取るためだけにある。むしろ、ハナ。お前があの力で、こいつも追い出してくれないかな」


 臆面もなく言い、アレシュは妖艶に瞬いて見せる。

 彼の言うハナの『力』とは、扉を開ける力だ。

 魔界の住人の特殊能力は色々だが、ハナの力はこちらの世界と魔界の狭間に自分の居場所を作り、そこからありとあらゆるところに向かって扉を開けて移動することなのだ。


 彼女はかつて、自分の力で勝手に魔界から百塔街に繋がった『扉を開けて』やってきた。いくら百塔街が魔界との接点を無数に持つ場所とはいえ、魔界の人間界を行き来するのは人間なら最高位の魔女や魔法使いしか不可能な技だ。

 そんな技を持つ魔界の少女がアレシュのような男の使用人をやっているのも妙な事態だし、そんな技が主に女性を屋敷の外に追い出すために使われているのももったいないの極みと言えよう。

 ハナはしばらくアレシュの顔をじっと見つめていたかと思うと、不意に少し眉根を寄せた。


「ご主人様が本当に望むなら、追い出すことは簡単です。でも、その前にお客さんをどうにかしたらどうですか。今、玄関にルドヴィークが来ています」


 彼女が告げた名に、アレシュは一息で我に返る。

 ルドヴィーク・ザトペック。それはこの百塔街の葬儀屋を仕切る男の名だ。


「ハナ、ザトペック様、だ。お客様の前では、必ずそう言うんだぞ。……それにしても、彼がここに来るなんて久しぶりだな。ひとりで来たのか?」


「はい、今のところそのようです。屋敷の中に入れますか? それとも、追い出します?」


 ハナに問われて、アレシュはすぐにうなずいた。


「彼は父さんの代からの常連だ。謹んでお迎えしよう。麗しのアマリエにも会いたいしね」


「麗しの! お前はこんなときにも女を忘れんのか。ほとほとあきれ果てるぞ」


 愚痴をこぼすミランをよそに、アレシュはハナに視線で合図を送る。

 ハナは彼にうなずき返し、背後の扉の取っ手に手をかけた。

 ぎい、と音を立てて開いた扉の向こうを見やり、ミランがしみじみと息を吐く。


「……何度見ても慣れん風景だな」


「下僕にはもったいない技ですから、当然です」


 ハナは淡々とミランに向かって吐き捨て、アレシュを見上げた。


「どうぞ、ご主人様」


「ありがとう、ハナ」


 アレシュは言い、扉のほうへと歩いて行く。ハナが開けた扉の向こうには、周囲とは全く違う風景があった。

 穏やかな光で照らされた本の群れだ。

 アレシュが扉をくぐると、そこは四角い井戸みたいな書庫空間である。四方を本棚に囲まれた小部屋の真ん中には黒い鉄製の螺旋階段があって、上へ上へとよじれながら伸びている。その先を見通すことは出来ず、周囲の本棚もまた、永遠に天へ昇っていくかのようであった。

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