第2話 さよなら友だち
窓に面したカウンター席で、私はサンドイッチをかじる。うすっぺらいプロセスチーズとハムと食パンがくちゃくちゃと歯にひっつく。おいしいけど、すぐに歯みがきしたくなるんだよなあ。
窓の向こうの中庭は、昼休みを有意義に過ごす学生たちであふれている。バレーボールをやっている女子のグループ、ギターを弾く人、ギターと張り合うアカペラサークル、ベンチで本を読む人、何やらデモンストレーションで大量のシャボン玉を飛ばしている怪しげな団体もある。私も何か、サークルに入ればよかった。
マーニャが昼休みに姿を現さなくなってから、そろそろ1週間が経つ。風邪でも引いたのかと心配だけれど、確かめようがない。マーニャはスマホもパソコンも持っていないのだ。異国の地で一人きりなのに、どうやって生きているんだろう? 私だったら心細くて死んじゃう。
……もしかして、私に連絡先を教えるのがイヤなだけだったのかな? 何か気に障ることしちゃったかな……お母さんの愚痴をたくさんこぼしたからかなあ。ラーメンばっかり食べると太るよって言ったことかも。それとも、私が本当は暗くて無知な人間だって気づかれちゃったのかな……
となりの椅子がすーっと引かれ、誰かが腰を下ろす。席ならほかにいっぱい空いているのに。
「そんなに握りしめたら、サンドイッチがつぶれてしまいますよ」
「……えっ、あれえっ!?」
「ご無沙汰してます、歌穂さん」
相変わらずの丁寧な口調とマイペースさで、マーニャは話しかけてきた。あまりに自然に現れたので拍子抜けしてしまう。
「もう、どこ行ってたの!? 全然来ないから心配したじゃん!……あれ、ちょっと痩せた?」
「すみません……この1週間、まともにラメンを食べていないかったもので」
「マーニャがラーメンを断つなんて! なんかあったの?」
はい、とマーニャはグレーの瞳を伏せた。
「残念ながら、ここを去ることになりました。今日はそのお別れを言いに来たんです」
「そんな急に……どうして?」
「事情は少々複雑なのですが。簡単に言うと、家族と縁を切ったので、生活費を絶たれました」
「勘当されたってこと!?」
「勘当、はい。時代劇のような響きですね。かっこいい」
「どこに感心してるの。ねえ、それってかなりまずいんじゃない?」
「大丈夫です。日本にもわずかながら同士はいるので、彼らにかくまってもらっています」
ところどころ日本語がおかしい気がするが、ニュアンスはわかった。
「そうじゃなくてさ……縁を切るなんて早まったことしないほうがいいよ。今からでも電話して、取り消しなよ。何があったか知らないけど、よりによって留学先の国で絶交することないじゃん。マーニャの家族からしてみたら、日本の印象最悪だよ」
私は必死に説得を試みた。
「たしかにそれは不本意です。でも、日本もラメンも、そして人間も好きだからこそ、私は決断しました。後悔はありません」
「家族のことは? どうしてそんなに割り切れるの?」
後ろの方で女子のグループから、どっと笑いが起こった。
マーニャは少しびくっとして、ふぅと小さくため息を吐いた。
「私の家族には、歌穂さんが想像するような強い絆はありません。気の合う同級生と、いつのまにか疎遠になってしまうようなものです。それでも、長らく兄のように慕ってきた彼と道を分かつのは心が痛みました。そうするよりほかになかったのです」
ごめんなさい、とマーニャはつぶやいた。私にというよりは、きっとお兄さんに。
今さらになって友人の新しい一面を発見してしまったようで、持て余してしまう。
「……ごめんね。本当は引きとめたかっただけなの。マーニャがいなくなったら、寂しくなっちゃうからさ」
「歌穂さん……」
鼻の奥がツンとなる。いけない、なんか楽しいこと話さないと。
「私ね、この1週間の昼休み中暇だったから、ぼーっと考えてたの。マーニャはもしかしたら宇宙人なんじゃないかなーって。だってさ、自分のことあんまり話さないし、頭よすぎだし、雰囲気もなんかミステリアスだし」
「私は地球生まれの地球育ちですよ」
真面目に否定されて笑ってしまう。
「本当です!」
「別に疑ってないよ」
「でも、親の顔は知りません。物心ついたときには施設に預けられていました。だから、ときどきお母さんのことを話している歌穂さんがうらやましくもありました」
「あ……そうだったんだ」
軽々しく家族がどうとか説教してしまった自分が恨めしい。
「責めているわけじゃありませんよ。歌穂さんのことが知れてうれしかったです。私はあまり人に話せるような微笑ましいエピソードがありませんから」
「微笑ましいかはちょっと微妙だけど。でも、もっといろいろ話してくれたらよかったのに。愚痴でも悩みでも、なんでもいいからさ。友だちなんだから」
するとマーニャは、うーむと知的な表情であごに手をやり、考えこんだすえに口を開いた。
「実はひとつ黙っていたことがあります」
「え、なになに?」
「私はラメンが大好きだと言いましたが、実はメンマだけは苦手だったんです」
あれ、この子……思ってたより天然かもしれない。
「そんなこと、とっくに知ってたよ!」
「あれ、そうなんですか?」
「わかるよー。いつもよけてたもんね」
「ちゃんと残さず食べましたよ」
「それも知ってる」
ああ、楽しいな。ここままお別れなんていやだな。
「……ねえ、落ち着いたら連絡ちょうだいよ」
「すみません。私は通信機器は持ち合わせていないのですが」
「わかってるって。住所教えるから、手紙ちょうだい」
「そういうことなら、了解です」
筆箱から付箋を取り出し、今のアパートの住所と、念のため実家のも書き入れる。
「それにしても、私って外国人が話しかけやすいオーラでもあるのかなぁ。ほら、初めてマーニャが話しかけてくれたのも、ここでご飯食べてるときだったじゃん?」
「ええ、そうでしたね」
「3日くらい前にもね、マーニャがいないからここで一人で食べてたんだけど、そしたらダンディーな雰囲気の男子留学生に話しかけられてさ」
「男子留学生……?」
「うん。ラーメンが食べたいって言うから、買い方教えてあげて一緒に食べたの。箸の使い方は、ぎこちなかったなあ」
「その人、どんな見た目でした?」
「うーんと、背が高くて、彫りが深くて、くせっけの茶髪で、あ、ひげをきれいに整えてたよ。向こうの人って大人っぽいよね。マーニャもそうだけど」
「……何か、変なことを言われませんでした?」
「は、変なこと?」
マーニャの質問こそ変だと思ったけれど、真剣な顔で訊かれたので、頑張って思い出そうとした。
彼は不器用にレンゲでスープを一口飲んだあと、たしか……
「あ、そうだ。『君は友だちとラーメンならどっちをとる?』って聞かれたっけ。変なこと聞くなあって思ったけど、もちろん友だちでしょって答えたよ。そういやあれ以来見かけてないなあ。もしかして、知り合い?」
マーニャは呆然とした様子で宙を見ていた。薄い褐色の肌がきれいで、つい見とれてしまう。
「……ねえ、どうしたの?」
「いえ……なんでもありません。歌穂さん、親切なのはいいことですが、知らない人にほいほいついて行ってはだめですよ」
「うわ、お母さんみたいなこと言う。子どもじゃないんだから大丈夫だよう。はい、これ住所ね」
マーニャは付箋を見つめ、私を見つめ、何か言いたげにしていたが、丁寧に折りたたんでそれを胸ポケットにしまった。
「絶対、手紙書いてね。約束だよ」
「はい、きっと」
「きっとじゃ弱い! 絶対、必ず!」
「必ず書きます……」
「オーケー」
3限目開始の時刻が迫り、学生たちは三々五々引いていく。
私もおちおちしていられない。次の授業は遅刻と出席率に厳しい言語学だ。
残りのサンドイッチを急いでほおばり、コーヒー牛乳で流し込む。
「じゃあ私、そろそろ行くね」
「はい。講義がんばってください」
じゃあね!と元気に立ち去ろうとすると、「あの……」とマーニャが呼び止める。彼女はそっと右手を差し出した。
「握手、してもらえますか?」
「向こうの人ってハグじゃないの?」
「日本人にはハードルが高いと聞いています」
「なるほどね」
私は右手を差し出した。マーニャの手は温かく、意外なことにちょっと硬くて、生命力があった。
「ごめんね、サンドイッチ食べたあとで。洗ってくればよかった」
「歌穂さん、さようなら。お元気で」
「やだなぁ、今生の別れってわけじゃないんだから」
「その言い方は初めて聞きました。意味を教えてください」
「ええっ、遅れちゃうよ」
私、ちゃんと笑えてるかな。自信ないや。
★ ★ ★
マーニャは1週間ぶりに潜伏用のアパートメントに戻った。部屋に上がると、当然のように男が座しており、「遅かったな」と手を挙げた。
「昼休みはとっくに終わっている時間だと思うが?」
「学食のラメンを食べる機会は今後もうないと思ったので、味わって食べてきました」
本当は泣き出してしまった友人をなだめるために時間を要したのだが、わざわざそのことを告げる義務はない。
「歌穂さんを人質にとるなんて、ひどいじゃないですか。先輩がそんなことをする人だとは思いませんでした」
「人聞きの悪いことを言うな。先にルールを破ったのはそっちじゃないか。それに君だって、このぐらいのリスクは想定できただろう。俺が人でなしなら、君も人でなしだ。そして俺たちを牛耳っているやつらは、文字通りの人でなしだ」
男は自分の冗談ににやりとした。マーニャは腹立たしかったが何も言い返せない。
「まあ、そう怖い顔をするな。君はちゃんと戻ってきたのだから、あの子をどうこうするつもりはない。さあ、とっとと帰るぞ。君は風邪で1週間寝込んだことになっているが、この言い訳もそろそろ限界だ」
「荷物を取ってきてもいいですか?」
「裏切り者のところか」と男は鼻で笑った。
「別にかまわないが、そのまま逃げようなんて考えるなよ」
「逃げませんよ。歌穂さんは私の大切な友人です」
マーニャはグレーの瞳に怒りを宿らせ、玄関扉に手をかけた。
「なあ、君は勘違いしているようだが、俺は何も人類の敵じゃない。レジスタンスは君の目にはかっこよく見えたかもしれないが、結局は使命を捨て自由を求めた逃亡者たちだ。君が本気でラメンと友人のどちらも守りたいと思うのなら、逃げずに主張すべきじゃないか?」
「……手伝ってくれるのですか?」
「バカ言うな。君が俺を手伝うんだよ。俺の手足となって働け」
「ははあ、さては」
マーニャはくすっと笑った。
「先輩もラメンの魅力にとりつかれたというわけですね」
男は早く行け、と手を振った。
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