ショートショート Vol9 菊乃という名の女
森出雲
菊乃という名の女
「好いたお人と嵐山に行ったら、あかんのどす? 縁が無くなるん。思いが繋がらへんのどす……」
そう言って、菊乃は嵐山の手前、嵐電の帷子ノ辻駅で突然ホームに降りた。直後にドアは閉まり、淋しそうに小さく手を振る菊乃を、一人車両の中から見送った。
その後、私は天龍寺の両親の墓参りを済ませ、一人渡月橋を渡っている。欄干に肘をかけ、果てしなく続く川の流れを見ている時、菊乃からメールが届いた。
―― 新着e-メール菊乃:『菊乃の我が儘お許しください』
遠い所にお仕事に行かはる旦さんが、二度と再びお帰りにならあらへん気がして、菊乃は堪えきれまへんどした。
どんなに長い出張でも、菊乃はいつまでもお待ちしております。
どうか、お身体には充分お気をつけて。
大切な大切な、旦さんへ
菊乃
出張ではなく、転勤だと言うことを菊乃は何かしら感じていたのかも知れない。
連休直前の嵐山は観光客で混み合い、過ごしやすい陽気も手伝って、行き交う人々のほとんどが朗らかに笑っていた。渡月橋の南岸、中洲のベンチに腰掛け、桂川の川面に写る亀山をただぼんやりと眺め、僅かに残された京都のひと時を過ごすしかなかった。
あれから三年、私は再び京都に戻った。しかし、その三年の間、たった一度も菊乃から連絡もなく、結局私からも連絡することもなかった。
嵐山も桂川の川面も、あの時のまま何一つ変わっていない。渡月橋の南岸、中洲のベンチでまた一人、ただぼんやりと過ぎ去った過去を、幸福だった時を、懐かしむと言うより、失った事への後悔を繰り返す。
『なぜ連絡しなかったのか? なぜ、くれなかったのか……』
後悔ばかりが、疲れた身体を苦しめる。
『菊乃……』
仕方無しに、三年振りの墓参りに腰をあげる。
嵯峨駅前で墓前花を買い、天龍寺の山門をくぐる。
賑やかな天龍寺境内とはうって変わり、シンと静まった山秀院の奥まった墓地は、時折吹く春の風が揺らす木々の囁きと、野鳥の透き通った鳴き声が僅かに聞こえるだけ。
水桶に冷たい井戸水を満たし、その中に杓を放り込む。
ふぅっと溜息をつくと、またどこかで野鳥が鳴く。
鳴らない携帯電話を、意味もなく確かめ、また再び溜息。
片手に水桶を持ち、歩きだした時……。
「忘れモンどすえ?旦さん」
「き、菊乃?」
あの時のまま、優しく微笑む菊乃が、墓前花を手に取り目の前に立っていた。
「なぜ?」
「何故って、うちは旦さんの代わりに毎日お参りせんとあかんし? お帰りになるまで旦さんの代わりせんと、お父様もお母様も、怒って旦さん帰してくれはらへんもん」
忘れていた。菊乃とはそんな女だった。
「菊乃……」
「どうしはったん? 旦さん」
「いや、菊乃で良かったと思ってな」
「変な旦さん、早よお家帰って美味しいモン食べましょ」
「三年振りにな」
「うち菊乃には、三年も三日も同じどす? さぁ早ようお墓参りせんと、お父様もお母様も、待ちくたびれてはるえ」
また、どこかで野鳥が鳴いた。
微笑む菊乃も朗らかに笑う。
菊乃を僅かでも疑った自分が恥ずかしくてたまらなかった。
ショートショート Vol9 菊乃という名の女 森出雲 @yuzuki_kurage
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます